ルーツ探訪 2006年
12月

★ 白河街道
〔福島県会津若松市〜白河市〕


●お役人・米・金が行き来する、会津藩の重要街道は、太閤秀吉も通った道。

 会津から白河まで最短(約16里=およそ64キロメートル)でつなぐ「白河街道」は、白河側からは「会津本街道」「会津越後街道」「会津通り佐渡路」などの呼び名があります。会津城下・大町札の辻から滝沢峠、沓掛峠、背炙峠などを越え、猪苗代湖の南側を経て黒森峠、福良、三代の両宿を通り、勢至堂(せいしどう)峠とその宿場、続いて、長沼(須賀川市)、牧の内(岩瀬郡天栄村)、上小屋、飯土用(白河市)などの宿を通過して、白河城下に達する道です。比較的、近距離に宿場がおかれているのは、途中、多くの険しい峠が連なるため。厳しい山道のあとに待つ宿場は、まさに旅人のオアシスだったに違いありません。
白河街道が、初めて歴史の表舞台に登場するのは1590(天正18)年8月。天下をほぼ手中に収めていた豊臣秀吉が、奥州仕置(しおき)のため、この道を利用して会津黒川(現・会津若松)に下向、小田原攻略に不参陣または遅参した奥州大名を帰服させ、天下平定の総仕上げを行いました。この折、仙台藩主伊達政宗は、相州小田原(神奈川県小田原市)から会津まで、幅三間の道造りを命じられたとの記録が残っています。しかし、多くの人夫を動員した、本格的な街道普請が始まるのは1600年代半ば以降。今でも、峠路の旧道には、人馬の往来のために敷かれた石畳が残る箇所があります。以後、会津藩主の参勤交代をはじめ、幕府の諸国巡見使、御国目付の会津入りの道として、また廻米、佐渡からの金を江戸にもたらす輸送路として、重要な街道になっていきます。

●能因のひそみにならって…都びとの憧れを集めた歌枕の地、白河の関。

 みちのくの玄関口、その象徴として、たびたび引き合いに出されるのが「白河の関」。白河の関は、早くて5世紀の前半、遅くても、関設置の条項が設けられた646(大化2) 年(改新の詔)には成立したようです。軍事上の要地として、8〜9世紀に機能していましたが、平安時代の中期、古代中央集権国家が衰退していくとともに、廃絶の道をたどっていきます。代わって与えられたのが、「和歌の聖地」としての役割。能因法師(998-?)が詠んだ「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞふく白河の関(都を、春がすみのたつのといっしょに旅立ったが、この白河の関へついたころには、もう秋風が吹いていることだ)」が名歌として称えられるほどに、白河の関は第一級の歌枕の地として、都人の歌心と憧憬を集めていくのです。その後、西行をはじめ、多くの文人墨客がこの地を訪れています。松尾芭蕉『おくのほそ道』のなかの「白河の関にかかりて、旅心定まりぬ」は有名な一節です。しかし、この時すでに古関としての往時を物語るものは残っていなかったようです。1800(寛政12)年、白河藩主・松平定信は、歴史書や古地図、詠歌、古老の話をもとに、関の場所を探し求め、ついに旗宿字関ノ森に「古関蹟跡」を建立しました。昭和30年代になって、当地の大規模な発掘調査が行われ、古代の関の構造を示すものが確認されたことから、のちに国の史跡に指定されました。しかし、その後も、白河の関の所在については、さまざまに論じられ、まさに古代のロマンが眠る場所となっています。




参考文献・サイト
渡辺信夫監修『東北の街道』(社)東北建設協会
白河市 http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/cgi-bin/odb-get.exe?wit_template=AM040001


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