ルーツ探訪 2006年
11月

★ 金華山道
〔宮城県仙台市〜石巻市・金華山〕


●“こがねの花咲く”黄金山神社、ご利益を求めてゆく参詣の道。

 「(前略)石の巻といふ湊に出づ。「こがね花咲く」とよみて奉りたる金花山、海上に見わたし(後略)」〔…石巻という港に出た。大伴家持が「黄金花咲く」という歌を詠んで、天皇に差し上げたいわれのある金花山を海上遠くに見やり…〕と、『おくのほそ道』なかで芭蕉が書いた「金花山」とは金華山。牡鹿半島の東南に位置する周囲約26キロメートル、面積約10平方キロメートルの島です。ここには、奥州藤原氏(平安中期から末期にかけて、陸奥一帯を支配した豪族)が建立した金花山大金寺(現・黄金山神社)があり、その後も葛西氏、伊達氏が庇護した霊場として知られてきました。近世になると、弁財天の財福(現世利益)と海上交通のご利益が説かれ、参詣が盛んになりました。その金華山詣での街道として発達したのが「金華山道」です。
仙台〜塩竈〜松島〜石巻を経て、牡鹿半島の西海岸を陸路で「山鳥渡(やまどりわたし)まで行き、そこから手漕ぎ舟で金華山へ、もしくは石巻の渡波(祝田浜)から海路を経由して渡ります。しかし、仙台〜塩竈間は「塩竈街道」と呼ばれ、途中の道も「気仙道」と重複しているため、実際には、「金華山道」の石碑が建つ石巻(大街道)が起点といえるでしょう。
 また、前述の「黄金花咲く」と詠まれた国内初産金の地は、明治期以降の研究、ならびに1957(昭和32)年の発掘調査により、現在の宮城県遠田郡涌谷町にある「黄金山神社」であると判明しています。しかし、島へ降りる際には、新しい草履にはき替えたという人々の尊信と信心は、時代を経た今も変わりがありません。

●目的は欧州大国との対等な交易。政宗の親書を携えて未知の国へ。

 牡鹿半島、月ノ浦。ここは1613(慶長18)年9月、仙台藩主・伊達政宗の命を受けた支倉常長が、ノビスパニア(メキシコ)、イスパニア(スペイン)、ローマをめざして出帆した地です。この慶長遣欧使節を遣わした目的は、太平洋貿易に乗り出すための外交交渉。上方や江戸で、貿易のもたらす文明と利益を見聞した政宗は、欧州各国と対等な交易関係を結ぼうと考えたのです。
総勢180名余りをのせた、500トン級の洋式船サン・フアン・バウティスタ号は、4カ月余りの航海ののち、ノビスパニアのアカプルコ港へ。大歓迎され、副王に政宗の親書を渡した常長は、30名の随行員を引き連れ、イスパニア艦隊で大西洋を横断します、これが日本人初の大西洋横断です。一行はイスパニアでも熱烈な歓迎を受け、国王フェリペ三世に謁見。しかし、肝心の交渉は不調に終わります。日本では、常長らの出国間もなく、キリスト教への大弾圧が始まり、それを知った政府は不信感を高めていたからです。それでも、なんとかローマに向かい、教皇パウロ五世に拝謁する機会を得、貴族に列せられるものの、外交折衝への協力が得られることはありませんでした。さらに1年半余りもイスパニア国王の返事を待ちますが、交渉は成功せず、常長は失意のうちにヨーロッパを離れるのです。苦難の末、再び日本の土を踏むのは出航から7年後の元和6(1620)年8月のことでした。国内は、幕府の厳しい禁教政策下にあり、常長の貴重な海外経験は生かされず、持ち帰った品々は、その後長らく、表舞台へ出ることはなかったのです。




参考文献・サイト
渡辺信夫監修『東北の街道』(社)東北建設協会
『宮城県の歴史』山川出版社


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