ルーツ探訪 2006年
10月

★ 羽州浜街道街道
〔秋田県秋田市〜新潟県村上市〕


●“道も定かならず” 海岸線の砂場の道は、旅人泣かせの消える道。

 羽州浜街道街道は、その名の通り、日本海沿いに秋田市−山形県酒田市−鶴岡市大山−鼠ヶ関と下り、新潟県村上市に至る道です。道筋は、現在の国道7号とほぼ同じ。北へ向かう場合は、酒田街道、秋田街道、南下する際には越後道などとも呼ばれました。
公的には、藩主・役人の領内巡見や幕府巡見使などの通行に使われましたが、主だった利用者は旅人、そして塩や魚の運搬者でした。しかし、冬は、日本海からの強い季節風にさらされるため、利用はもっぱら夏場に限られていました。また、海岸線沿いの砂丘地を通る箇所が多かったため、侵食により道筋が確認できないところもあったといいます。酒田から吹浦に向かった橘南谿(たちばななんけい)は『東遊記』の中に「その間六里にして路傍に人家なく…(中略)過ぐるところは渺々(びょうびょう)たる砂場なれば道路もさだかならず」と書き記しています。さらに、わらじ履きの旅人を泣かせたデコボコの岩道は、鳥海山の噴火により溶岩が流れ着き、固まったもの。この道をゆくことは、厳しい自然と対峙することでもありました。
なかでも、「箱根の山よりも険しい」とされたのが、秋田県と山形県の県境にある三崎山(山形県飽海郡遊佐町)です。ここは標高70メートルと高さはないものの、「丸き岩、数百万重なりて、石と石との間、カゴの目のごとく」(古川古松軒『東遊雑記』)と、大岩がゴロゴロと続く難路でした。内陸寄りの三崎峠を通る新道が開削されるのは明治に入ってから。馬車交通の要請に応えられないというのが、大きな理由だったようです。現在は、明治時代に開かれた旧国道と現国道7号、そして江戸時代の街道を合わせて3本の道があり、日本海側の街道随一の難所も「今は昔」です。

●悪路の向こうに広がる景勝地。文人墨客の心をとらえた浜街道

 羽州浜街道街道は、多くの文人墨客が行き交った道として知られています。まず、“みちのく行脚”の先鞭をつけたのが俳聖松尾芭蕉。紀行文『おくのほそ道』のなかで、松島とに並ぶ待望の地とされていたのが象潟(秋田県)です。“松島は笑っているような風情、象潟は恨むような景色”と、入り江に数多くの島を浮かべた絶景ぶりを称え、句の中で、絶世の美女西施(せいし)に例えています。残念ながら象潟は、文化元(1804年)年、大地震による大規模な隆起に見舞われ、旅人の眼福となってきた景色は失われてしまいました。
天明3(1783)年、“陸奥の風物を自分の目で確かめる”ことを目的に、故郷三河を出発したのは紀行文作家の菅江真澄。以来、秋田で没するまでの46年を北東北・北海道など異郷の地で過ごし、『菅江真澄遊覧記』をはじめ、240冊もの著作を残しています。街道の様子は、旅日記『秋田のかりね』に登場します。他にも、前述の橘南谿、古川古松軒、伊能忠敬(『測量日記』)、高山彦九郎(『北行日記』)らが、羽州浜街道街道の様子を書き残しています。
 現在の国道7号は日本海を望む風光明媚なトライブコースとして知られています。そこには旅人を苦しめた悪路の面影はありません。




参考文献・サイト
渡辺信夫監修『東北の街道』(社)東北建設協会
久富哲雄『おくのほそ道 全訳注』講談社学術文庫


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