ルーツ探訪 2006年
8月

★ 本荘街道
〔秋田県湯沢市〜由利本荘市〕


●塩の道から参勤のルートへ。秋田の内陸部と海岸部を結ぶ幹線。

 本荘街道は、湯沢で羽州街道から分かれ、西馬音内(にしもない、雄勝郡羽後町)〜大沢(横手市雄物川町)〜老方(由利本荘市東由利)などを経て、現在の国道107号にほぼ沿って、羽州浜街道(秋田〜由利本荘〜酒田〜鶴岡市鼠ヶ関)に至る道です。藩政時代は、地域によりさまざまな名で呼ばれており、全区間が本荘街道と名付けられたのは明治になってからです。
 この街道の起点である雄物川上流域の地域と、終点にあたる海岸部の由利本荘市は、同じ出羽国でありながら、異なる歴史的・政治的背景を持っています。しかし、市井の人の暮らしに目を転じれば、出羽丘陵には内陸部と海岸部を結ぶ幾筋もの生活道路が形成されており、江戸時代の絵図には多くの道筋が描き出されています。それらは古来、内陸部へ「塩」を運ぶ、命の道でした。江戸時代以降、日本海の海運が盛んになってのちは、沿岸の諸港へ陸揚げされた物資を運ぶ流通の道になっていきました。そうした道の中でも、羽州街道と羽州浜街道を結んだ本荘街道は、本荘・亀田両藩の参勤交代の道として宿駅が設けられ、また幕府巡見使(将軍の代替りごとに各地に派遣された政情・民情視察団)の重要なルートとして発展していったのです。

●あでやかな端縫いの衣装で、優美に踊る西馬音内盆踊り。

 かつては本荘街道の宿場町として、また横手盆地のなかでも大地主が集まる商家町として賑わった西馬音内。普段は人口約5000人の静かなこの町も、毎年8月16日からの3日間、全国からやってきた延べ15万人の観光客でひしめきます。人々のお目当ては、国の重要無形民俗文化財に指定される「西馬音内盆踊り」です。
起源には諸説ありますが、鎌倉時代の正応年間(1288-92)、源親という修行僧が、今の御嶽神社に蔵王権現を祀り、豊作を祈願して踊らせたのが始まりと伝えられています。そしておよそ300年を経た慶長6(1601)年、山形・最上氏に攻められて滅んだ、西馬音内城主・小野寺一族の霊を鎮めるために、遺臣によって踊られた亡者踊りが、前記の豊作祈願の舞いと融合して、独自の盆踊りが生まれたというのが通説となっています。
西馬音内盆踊りの特徴のひとつが、独特のいでたちです。踊り手たちは、黒子のような目出しの彦三(ひこさ)頭巾をすっぽりとかぶり、あるいは編み笠で深く頭部をおおいます。顔が見えないため、秋田美人の表情はいかがかと、想像力がかきたてられます。片や、あでやかな美しさを主張するのが、衣装です。「端縫い(はぬい)」と呼ばれる着物は、絹の切れ端を何種類か綴ったもので、母から娘へと代々伝え継がれる家の宝です。
そして、賑やかで少々野卑な調子のお囃子とは対照的に、優雅に魅せる踊りが西馬音内盆踊りの真骨頂。しなやかに洗練された手足の運びは、東北地方には見られないものです。上方・京の「舞」の影響も指摘される、ゆっくりと流れるような所作は、風に揺れる稲穂を思わせます。その頃、町の田んぼでは、あきたこまちの穂も出揃い、頭を垂れる秋に向けて、実りを深めています。




参考文献・サイト
渡辺信夫監修『東北の街道』(社)東北建設協会
重森洋志『東北お祭り紀行』無明舎出版
秋田県羽後町 http://www.ugomachi.com/e_ugo/index.html


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