ルーツ探訪 2006年
6月

★ 会津西街道
〔福島県会津若松市〜栃木県今市市〕


●会津五街道のひとつ。古来、新潟〜会津〜関東を結び、文化を伝えた道。

 若松城下から大内峠を越え、大内宿(下郷町)、旧田島町(現南会津町田島)、山王峠を経て、中三依、石木戸、五十里(いかり)の宿場を抜け、高原、藤原を通り、下野国(しもつけのくに)今市に至る会津西街道。この道は、会津藩から隣国へ通じる本道五街道のひとつで(他に白河、越後、二本松、会津の各街道がある)、下野街道、南山通り、日光街道などの名があります。近年の遺跡調査により、越後(新潟県)で生まれた縄文中期の火焔式土器や弥生式土器が、南会津、そして今市方面からも発見されたり、また北関東を代表する阿玉台式土器が会津盆地にも分布していることから、古来、各地方を結ぶ文化伝播の道であったと推察されています。
この街道が本格的に歴史の舞台に登場するのは、鎌倉時代。文治5(1189)年、源頼朝は奥州藤原氏討伐の際に戦功のあった鎌倉御家人に、その恩賞として会津の領地を与えました。この時、会津四郡を賜ったのは佐原義連、その四男光盛は会津若松を継ぎ、会津蘆名(あしな)氏の基礎を築きます。その後も、伊達政宗、会津藩祖保科正之(徳川家光の異母弟)、吉田松陰、イサベラ・バード(イギリスの女性旅行家)など、歴史に名を連ねる武人・文人が往来しています。天正18(1590)年、奥州仕置のため会津に入ったのは、豊臣秀吉。帰路この街道を通り、「太閤下ろし」といわれた急峻な高原峠を越えたと伝えられています。
会津西街道の歴史を語る上で、忘れてはならないのが相次いだ自然災害です。万治2(1659)年2月の大地震では山王峠が崩落、天和3(1683)年9月の日光大地震により五十里湖が出現しましたが、それから40年後の豪雨で洪水が発生し、湖底に沈んでいた五十里村が再び姿をあらわしました。藩はその都度、修復や新道の開削に負担を強いられました。
さて、会津西街道には会津側に7つ、栃木側には3つ、あわせて10の宿場がありますが、今も当時の町並みを色濃く残すのが「大内宿」です。

●江戸時代の宿場の風情をそのままに。茅葺き屋根が立ち並ぶ大内宿。

 奥深い南会津の山中に、忽然とあらわれる大内宿。ここを訪れた人は、遠い昔にタイムスリップしたかのような、茅葺き屋根の軒並みに驚かされることでしょう。道を挟んで500メートルほど続く古民家の屋敷割は、当時のまま。今では、その多くが、郷土料理やそばなどの食事処・土産店になっており、用水路を流れる清流の音を聞きながら、そぞろ歩きを楽しむことができます。空が高く広く感じられるのは、電柱や電線がないため。江戸時代の宿場町の風情を壊さないような配慮がなされています。また、復元された本陣(大名の宿舎)は「大内宿町並み展示館」となっており、大名の寝室に使われた上段の間や、籠で出入りできる乗り込みという玄関も再現されています。大内宿は1981(昭和56)年、全国で16番目の「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれています。
会津藩主の参勤交代の道、また江戸廻米や商品流通の駅所として、賑わいをみせていたという大内宿。藩士や商人、旅人に代わり、現在では多くの観光客が行き交っています。




参考文献・サイト
渡辺信夫監修『東北の街道』(社)東北建設協会
下郷町 http://www.town.shimogo.fukushima.jp/index.shtml


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