ルーツ探訪 2006年
5月

★ 関山街道
〔宮城県仙台市〜山形県東根市、天童市〕


●馬も越せない「峰渡り」の難所…伊達藩は軍備の必要もなかった?!

 仙台から広瀬川沿いにさかのぼり、作並から関山峠(標高650メートル)を越えて東根市、天童市にいたる「関山街道」。峠付近をのぞいて、現在の国道48号とほぼ重なっています。この街道が文献上に初めて登場するのは、正保年間(1644-1647)に編まれた『奥州仙台城下絵図』で、「愛子(あやし)道最上海道」の文字が見えます。明治になってからは「羽前街道」とも呼ばれたようです。
関山街道は仙台城(青葉城)の後背地にあたり、軍事戦略上たいへんに重要な路線であるにもかかわらず、家臣団などが軍備された記録がありません。その理由は、どうやら関山峠の地形にあるようです。馬も越せない急峻な道とあっては、大軍を動かせないというわけで、藩境の関山峠は、格好の障壁になってくれたのでした。事実、仙台・山形間を結ぶ笹谷・二口(ふたくち)両街道には、それぞれ笹谷峠(標高906メートル)、二口峠(標高934メートル)があり、関山峠はそれらと比べてだいぶ標高が低いものの、交通量はぐんと少なかったようです。それもそのはず、「峰渡り」と呼ばれる難所は、荷物はすべて人が背負って運ぶしかなかったのです。
そんな関山街道の重要性が一気に高まるのは、明治に入ってから。その背景には、日本初の近代的洋式港湾計画がありました。

●野蒜築港〜国家の一大プロジェクトに連動させて新道を開削。

 明治11(1878)年、明治政府は東北開発の最重要拠点として、宮城県桃生郡野蒜(現:東松島市鳴瀬町野蒜)に近代的な国際港湾を整備する計画を立ち上げました。発案推進者は初代内務卿大久保利通、設計はオランダ人技師ファン・ドールン。当時の代表的な貿易港であった長崎・横浜に先んじての国家プロジェクトは、川や海、運河の水運をつないで、東北各地を結び、一大経済圏としてまとめるという大きな構想を掲げていました。
関山街道も、野蒜港を核とする広域ネットワークにつなげようと考えた山形県令・三島通庸は、宮城県令であった松平正直と協議のうえ、明治13年、新道開削工事に着手しました。ちなみに三島県令は、山形県の交通網の整備に心血を注ぎ、のちに「土木県令」の異名をとるまでとなりました。工事の途中には、隧道(ずいどう)掘削のために準備していた火薬に引火し、23人の犠牲者を出すという痛ましい事故もありましたが、度々の困難を乗り越え、新道は着工から2年後に完成。これにより馬車・人力車の通行が可能になり、仙台−山形間の交流は加速します。明治35年に奥羽本線が開通してからは、その役割を一時譲り渡しますが、車社会の到来により再び活況を呈し、昭和43年(1968)年には、新関山トンネルが開削され、現在の国道48号の姿になります。
一方、野蒜築港事業は明治17年に第一期工事が落成して間もなく、大型の台風に襲われ、突堤が壊滅的な被害を受けてしまいます。明治政府は新たな外港の建設には膨大な予算が必要であるとして、第二期工事を断念。日本初の国際貿易港の夢は、幻と終わってしまうのです。建設の最盛期には「野蒜新町ほうきもいらぬ、若い娘の裾で掃く」と歌われた野蒜港。今は打ち寄せる波だけが、当時の賑わいを記憶しているのかもしれません。




参考文献・サイト
渡辺信夫監修『東北の街道』(社)東北建設協会
児玉幸多監修『宮城県の歴史』山川出版社


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