ルーツ探訪 2006年
4月

★ 六十里越街道
〔山形県山形市〜鶴岡市〕


●出羽三山をめざして、善男善女が通った信仰の道。

 明治後半に新道が整備されるまで、内陸と庄内を結ぶ唯一の道だった「六十里越街道」は、山形城下から寒河江、白岩、本道寺(西川町)を通り、出羽丘陵の大岫(おおぐき)峠を越え、鶴岡へと至る山街道です。ここは、きらびやかな参勤交代や軍旗を掲げた隊列が行き交う道というよりも、出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)へ詣でる信仰の往来として発達してきました。その歴史は古く、人馬が分け入るようになるのは、出羽国が設置された8世紀初め頃とされています。街道筋が定着するのは「正保国絵図」が作成された1644年以降といわれ、江戸中・後期は、年間数万もの人々が通行する参詣の道となりました。修験者のみならず、一般民衆も講(宗教的・経済的な結びつきによる組織。旅行費用を出し合い、交代で参詣する)をつくり、7〜8月の夏場に集団で参詣したようです。
庄内藩では、藩境に近い田麦俣(たむぎまた)と大綱に番所を設けて、人と物資の出入りを監視しました。宿場町としても栄えた田麦俣(旧朝日村)は、この地方独特の建築様式を誇る「兜造り多層民家」の集落としても知られています。多層民家は、1階建ての茅葺き住宅の外観をもつものの、内部は三層に分かれ、1階は主に家族の居住スペース、2階は下男たちの部屋と作業場・物置、3階は養蚕の部屋となっているのが特徴です。この地方は土地が狭い上に、冬は豪雪に見舞われるため、日々の暮らしと作業・養蚕の場所を三層四層の空間に求めていったものと思われます。かつては、この地域のほとんどが多層民家でしたが、今も残るのは2軒のみ(県の有形文化財に指定される旧遠藤家と民宿かやぶき屋、電話:0235-54-6103)。現存していれば、世界遺産・白川郷にも負けないものであったはず…と口惜しがる人もいます。

●こんこんと湧く湯が御神体。見聞したことの口外を禁じられた湯殿山。

 中世以降、山岳信仰の霊山とされ、修験道場として白衣の修行者だけではなく、多くの民間信徒も集めた出羽三山。開山は、素峻天皇(第32代、6世紀末)の第一皇子蜂子皇子と伝えられます。ここでは、月山・羽黒山の“奥の院”として人々の尊信を集めた湯殿山についてご紹介しましょう。
湯殿山(標高1504メートル)の北側中腹、梵字川の峡谷にある湯殿山神社は、現在に至るまで本殿や拝殿はなく、黄褐色の岩石とその下から湧き出す温泉神滝が御神体となっています。参詣者は素足で湯の流れる岩肌を歩き、お参りをするのです。その昔は、この場所での様子や出来事を「語るなかれ、聞くなかれ」と戒める厳しい掟がありました。松尾芭蕉の「おくのほそ道」にも「そうじてこの山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。よりて筆をとどめて記さず」とあり、“語られぬ湯殿にぬらす袂かな”と詠んでいます。
また、湯殿山神社は長らく女人禁制でしたが、女性の参詣を許したのが麓の旧朝日村にある注連寺や大日坊。ここには庄内地方に6体あるといわれる即身仏(そくしんぶつ:五穀を絶ち、山草や木の実しか口にしない木食をおこない、生きながら土中にはいり、ミイラ仏となる)を一体ずつ祀っています。また、作家の森敦は、注連寺に滞在した経験を小説『月山』に結実させ、第70回(1973年下半期)芥川賞を受賞しました。湯殿山神社の女人禁制は、現在では解かれていますが、神聖な場所ゆえ写真撮影は厳禁です。




参考文献・サイト
渡辺信夫監修『東北の街道』(社)東北建設協会
藤原優太郎『東北の峠歩き』無明舎出版
『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典6山形県』人文社
出羽三山神社公式サイト http://www.dewasanzan.jp/
鶴岡市朝日庁舎 http://www.city.tsuruoka.lg.jp/asahi/index.html


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