ルーツ探訪 2006年
3月

★ 三陸浜街道
〔宮城県気仙沼市〜岩手県釜石市〜青森県八戸市〕


●「つらい、やめよう」「がんばろう」さまざまな思い巡らす、急坂・悪路の続く道。

 宮城県の気仙沼市から岩手に入り、三陸海岸に沿って北上、各集落を結び、青森県八戸市に至る「三陸浜街道」。江戸時代には「海辺道(うみべみち)」と呼ばれていましたが、そのロマンチックな言葉の響きにそぐわず、連続する難所が道行く人々を苦しめていました。その原因となっているのが、この地域に特有の地形。宮古市以南は、海岸線が複雑に入り組んだリアス式海岸が続き、以北は100メートル前後の断崖が群れをなす隆起海岸となっています。地勢に逆らわずに(逆らえず…と言った方が正しいかもしれませんね)、道筋を刻んだ結果、峠を越え、谷に下り、また坂道を上る…といった繰り返しを余儀なくされました。なかでも険難とされたのが、岩手県田野畑村の槙木沢(まぎさわ)渓谷と松前沢渓谷です。『三閉伊路程記(さんへいろていき)』(安政年間1854-59)には“羅賀から小本までは木立が打ち茂る難所である、そのなかでも松前沢、馬木沢坂などは他に比べようがないほどの坂道である”と記されています。ここには「辞職坂」「思案坂」「決心坂」の異名があり、奈落に突き落とされるかのような谷を下りながら「こんな道を歩くぐらいなら、仕事を辞めたい」と思い、上り坂を踏みしめながら「負けてはいけない、やはり続けよう」と決意を新たにしたといいます。昭和40(1965)年、槙木沢には大アーチ橋が架けられ、人々の心を揺らし続けた難所は姿を消しました。
さて、急坂・悪路の輸送には、南部牛(南部藩原産)が荷役として活躍しました。岩手県は駿馬の産地として全国に聞こえますが、明治初めの調査によれば、下閉伊郡は馬よりも牛の飼育頭数が多い、全国でも唯一の地域だったといいます。南部牛に、明治以降輸入されたショートホーン種などを交配して誕生したのが、日本短角種。自然放牧でのびのびと育てられる牛の肉質は、たんぱく質が豊富、脂肪分が少ない…などの特徴があり、ヘルシー志向の高い昨今、人気を集めています。

●津波常襲地帯・三陸。防災の町づくりに生かされる、被災の歴史と教訓。

 未曾有の大災害となったインド洋大津波も記憶に生々しいところですが、三陸地方もこれまで幾度となく津波に襲われてきました。明治29(1896)年6月15日に発生した「明治三陸地震津波」では、死者約22,000人(岩手県では約18,000人)という日本の津波史上最悪の被害を出しました。岩手県綾里村(現・大船渡市三陸町綾里)には38.2メートルの津波が押し寄せたといいます。さらに昭和8(1933)年の「昭和三陸地震津波」(岩手県での死者・行方不明者約2,700人)、昭和35(1960)年の「チリ地震津波」(全国での死者・行方不明者142人)が、大災害の歴史を刻んでいます。「津波=tsunami」が世界共通語となっていることにも頷けます。
さて、三陸地方の被害を大きくしている原因のひとつが、前述のリアス式と呼ばれるV字型の湾です。入り江は奥にいくにつれて狭くなるため、ここに到達した津波は高さを増して襲いかかるのです。三陸沿岸各地では、被災の教訓を生かし、海岸堤防(防潮堤)、防潮水門、湾口防波堤などの整備に心血が注がれてきました。最近ではGPS(衛星利用測位システム)津波計を活用した「早期津波警戒システム」の導入など、より科学的な対策が推し進められる一方、古老による紙芝居や語り聞かせなど、被災体験を次代へ継ぐ取り組みもおこなわれています。




参考文献・サイト
渡辺信夫監修『東北の街道』(社)東北建設協会
国土交通省東北地方整備局 三陸国道事務所 http://www.thr.mlit.go.jp/sanriku/


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