ルーツ探訪 2006年
2月

★ 阿仁(あに)街道
〔秋田県仙北市角館〜北秋田市鷹巣、二ツ井町小繋〕


●日本一の銅の採掘を誇った阿仁鉱山、その繁栄を支えた産業道路。

 阿仁街道は、角館から桧木内川に沿って北上、大覚野峠を越えて北秋田市に入り、阿仁の鉱山町を抜けて、米内沢の三叉路を、右に進んで鷹巣(坊沢)へ、左は二ツ井町小繋に至る道です。
この街道の起点となっている角館は“みちのくの小京都”と呼ばれる佐竹北家の小城下町。元和6(1620)年、幕府の一国一城令によって城構えは廃されましたが、その後も仙北地方の政治・経済の中心地として栄えました。今も、往時そのままに武家屋敷群が建ち並ぶ景観は、全国にも例がなく、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。また、角館は桜花美しい町としても有名。武家屋敷通りに連なる黒板塀を彩るしだれ桜、そして桧木内川堤に約2キロにわたって続く染井吉野は、共に『日本の桜名所100選』に選ばれています。
さて、江戸時代、秋田に入府した佐竹氏が力を注いだのが、金・銀・銅を産出した阿仁鉱山の開発・経営でした。とりわけ銅は18世紀、幕府御用銅の4〜5割を占めるまでとなり、まさに佐竹藩の“ドル箱”といえる繁栄を築きました。その賑わいの風聞に引き付けられるように、没落した武士など、全国から多くの労働者が集まりました。当然、食糧や燃料など生活物資の需要も高まり、それらの補給ルートとして整備されたのが、現国道105号とほぼ重なる阿仁街道です。当時は「阿仁に行けば何でも売れる」と作物や織物などを担ぎ、大覚野峠を越える農民の姿が多くあったといいます。阿仁鉱山は1970年閉山。浮き沈みの激しい鉱山の習いにあって、長い歴史を刻んだ稀有な存在です。

●自然への畏敬の念を携えて…山とともに生きる狩猟の民・マタギ。

 鉱山で賑わった阿仁は、「マタギの里」としての顔も持っています。マタギとは、クマやカモシカなどの大型獣を捕獲する技術と組織を持ち、古くから狩猟を生業としてきた人々のこと。マタギの村は、東北から北海道にかけて散見されますが、特に阿仁町にある打当、比立内、根子などの集落が発祥の地とされています。
マタギが主に活動するのは晩秋から早春にかけて。死と隣り合わせの厳しい冬山で生きるマタギは、独特の山神信仰を育んできました。曰く「山は山神さまが支配するところであり、クマは山神さまからの授かり物」。必要以上に乱獲せず、山神の怒りに触れぬように、数々のしきたりと禁忌で自らを律してきました。たとえば、山に入れば日常語ではなく独特の山言葉(マタギ言葉)を用い、相撲や歌、口笛を吹くことは禁止、必要以上の物音はたてない…をはじめとして、マタギ集団ごとに厳しい作法が定められ、違反すると水垢離(みずごり)で身を清めなければならなかったといいます。
猟は、山小屋に寝泊りしながら、シカリと呼ばれるリーダーの統率のもとに、8〜10名の集団をつくり、ムカイマッテ(見張り役)、セコ(獲物の追い出し役)、ブッパ(銃を持つ射手)など各人が、その役割に忠実に行動しました。近年では、森林の減少やニホンカモシカなどの禁猟により、伝統的なマタギ猟で生計を立てる狩人は姿を消してしまいましたが、山への畏怖や感謝の念など、今に通じる自然との共存共栄の思想は、ブナ森林に暮らす生活文化のなかに息づいています。




参考文献・サイト
渡辺信夫監修『東北の街道』(社)東北建設協会
田口洋美『マタギを追う旅〜ブナ林の狩りと生活』慶友社
太田祖電、高橋喜平『マタギ狩猟用具』日本出版センター
旧阿仁町役場 http://www.kumagera.ne.jp/ani/


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