ラグビー
● その名の通り!イングランドのラグビー校が生みの親
フットボールに類する遊技や球技は、有史以前といわれるほど古くから、また洋の東西を問わず楽しまれてきましたが、現在世界で広く行われているラグビーやサッカーは、19世紀イングランドのパブリック・スクール(伝統ある名門の私立中等学校)が母胎となって確立されたものです。
中世のイングランドでは、その荒っぽさと危険性ゆえに、たびたび禁止令が布かれたにもかかわらず、庶民のあいだで熱狂的にフットボールが行われてきました。この民俗的なスポーツは、18世紀後半から19世紀初めにかけて、上流階級の子弟が通うパブリック・スクールで打ち興じられるようになります。ゲームのやり方は学校によってまちまちでしたが、「下級生いじめの手段に使われる乱暴なスポーツであった」「ボールを手で扱うことが一定の条件下で認められていた」「ボールをドリブル・キックするだけでなく、しばしばスクラムが形成された」など、現在のラグビーとサッカー両方の特徴をもった共通点が見受けられました。
しかしフットボールを通じて公然といじめが行われていたことを、保護者たちが見過ごすはずはありません。やがて新興中産階級(ブルジョアジー)の台頭とともに、1830年代にはパブリック・スクールの改革が推し進められます。その中心人物といわれたのが、ラグビー校の校長トーマス・アーノルドでした。同校長は、フットボールをルールによって規律あるスポーツにし、それを通じて生徒たちのあいだに秩序を築き、心身を鍛練しようと考えたのです。1845年には生徒たちがつくる委員会によって、37条のフットボールのルールが起草されます。2年後、イートン校においてもルールが定められますが、「ボールは手で扱えない」「ゴールはクロスバーの下を通り、2本のゴールポストの間を通過した時点で得点」など、大きく2つの点でラグビー校のルールと異なっていました。ここで、ラグビーとサッカーは対照的な歩みを始めるのです。
● 楕円球が転がりはじめて100年余。高く厚い世界の壁にタックル!
日本におけるラグビー元年は1899(明治32)年。イングランドのケンブリッジ大学でラグビーの経験があり、当時、慶応義塾大学の英語教授をしていたエドワード・B・クラークが、同大に留学経験のある田中銀之助の協力を得、生徒たちに指導し始めたといわれています。それから2年後の1901(明治34)年には、日本初の試合が行われます。対戦カードは、唯一の日本人チーム慶應義塾大VS横浜居留地の外人クラブ。結果は5対35(当時は1ゴール5点)と大敗を喫してしまいます。初めて横浜外人クラブを破ったのは1908(明治41)年、勝利までに9年の歳月を費やしました。勝利といえば、現在までの日本選手権最多優勝は、"Steelers"こと神戸製鋼の通算9勝、続いて"北の鉄人"新日鐵釜石(現釜石シーウェイブスRFC)の8勝。連勝記録はどちらも並んで7勝です。
一方、国際舞台では1987(昭和62)年から始まったワールドカップ(4年に一度開催)4大会すべてに出場していますが、勝利は通算で1勝のみという残念な結果に終わっています。現在のラグビー3強と言えば、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ。ヨーロッパ勢では、ラグビーの母国イングランドと、フランスが強豪に挙げられます。いよいよ来年10月〜11月には、ワールドカップ第5回大会が、オーストラリアで開催されます。もちろん我らがシャパンも、アジア地区予選を勝ち抜き、出場の切符を手にしました。ガッチリと声援のスクラムを組んで応援しましょう。