ルーツ探訪 2002年
9月

★ 相撲


● 農村で行われていた神事相撲が、宮廷の重要な年中行事「相撲節会」へ

 相撲は日本の「国技」。その発祥は、神代の伝説までさかのぼります。最も古い伝承は「古事記」にある、建御雷命(たけみかづちのみこと)と建御名方命(たけみなかたのみこと)の"国ゆずりの力くらべ"。また「日本書紀」には、垂仁天皇の7年7月7日、野見宿彌(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が天覧のもとに戦ったとあり、この時勝利した野見宿彌は、今でも相撲の神様として各地に祭られています。初めて史実として日本書紀に登場するのは、皇極天皇の元(642)年。百済(くだら:古代朝鮮国家)からの使者をもてなすため、力自慢の者を集めて、相撲をとらせたとあります。
 そもそも相撲は、農作物の豊凶を占う神事として、農耕が始まった弥生時代から民間で行われてきたものが、皇族や貴族に伝わったと考えられています。五穀豊穣を願う神事相撲を初めてとりおこなったのは、奈良時代末期の聖武天皇(在位724〜749年)で、平安期に入って桓武天皇(在位781-806年)のころからは恒例となり、引き継がれていくうちに国家的年占の重要な儀式、相撲節会(すまいのせちえ)に発展していきます。しかし、源平合戦たけなわの戦乱の世に移ると、三百数十年続いた相撲節会は、高倉天皇の承安4(1174)年を最後に廃絶されるのです。



● 土俵やルールの出現によって、荒ぶる格闘から鑑賞用の競技へ

 鎌倉時代に入ると、相撲は戦場における組み討ちの実戦訓練として重要視されるようになり、源頼朝も、流鏑馬(やぶさめ)、競馬(くらべうま)と並んで奨励したといわれています。一方、各地方では大衆娯楽としての土地相撲が育まれ、江戸時代に黄金期を迎える「勧進相撲」の母体となっていきます。そして戦国時代には、相撲を職業とする者もあらわれ、大名が強豪力士を抱える慣習が生まれます。四股名(しこな)を名乗るようになるのは、安土桃山時代から。織田信長はたいそう相撲を好み、しばしば大規模な上覧相撲を催したといいます。
 江戸時代になると、全国各地で勧進相撲が盛んになります。勧進とは本来、神社や仏閣の建立・修繕資金を募るためのものですが、次第に営利を目的とするものに変わっていきました。初期の頃は、戦国時代の荒々しい気風が残り、力士だけではなく浪人者も多く参加していたので、喧嘩口論、傷害沙汰が絶えず、たびたび禁止令が出される有り様でした。当時は土俵もなく「人方屋(ひとかたや)」といって、力士や見物人が輪をつくって囲むなかで行われていたため、乱闘騒ぎを引き起こすことも珍しくなかったのです。そこで心ある力士たちは株仲間(年寄制度)、会所(協会)組織を整え、決まり手や禁じ手を成文化し、相撲場には五斗俵を並べて、土俵をつくりました。徳川幕府が相撲興行を公認するのは、貞享元(1684)年。元禄(1688-1704)の頃には、ほぼ現在の相撲のような形になったといわれています。寛政元(1789)年には、谷風梶之助(宮城県仙台出身)、小野川喜三郎(滋賀県大津出身)に初めて横綱の免許が許され、相撲人気はますます高まっていきました。



Key Word Column

ハッキヨイ、ノコッタ

 「見合って」「時間です。手をついて」「待ったなし」・・・土俵に響く行司の声に、勝負への期待が高まっていきます。「ハッキヨイ」とは「発気揚々」がつまったもので、気分を高めて全力で勝負しようという意味。また「ノコッタ」は文字通り「残った」の意で、両力士とも土俵に残っている、勝負はまだついていないと知らせているのです。
 勝敗の審判を行う行司が、初めて登場するのは織田信長の時代といわれています。現在は、木村、式守の二家のみに受け継がれ、木村庄之助、式守伊之助2人の立行司(たてぎょうじ)を頂点に、三役格、幕内格、十両格、幕下以下格と続きます。この階級は、胸と袴に付いている飾り房(菊綴)や軍配の房紐の色で見分けることができ、足元についても、足袋に上草履(三役以上)、白足袋(幕内、十両格)、裸足(幕下以下)とはっきり決められています。立行司が短刀を帯びているのは、昔からのしきたりで、軍配の差し違いをした時は、腹も辞さないという覚悟をあらわしています。今でも立行司が差し違いをすると、協会に進退伺いを出すことになっているそうです。

参考文献

物語日本相撲史/川端要壽   筑摩書房
大相撲ものしり帖/池田雅雄  ベースボール・マガジン社
大相撲ミニ事典/新山善一   東京新聞出版局

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