ルーツ探訪 2002年
4月

★ 野球


● 1800年代半ば、ウォール街の銀行マンによってつくられた野球のルール

 "野球ぐらい不思議なものはない。まずくて見ちゃいられねぇなどというものは一つもないのだ。まずけりゃまずいなりに味がある。それが証拠にどんな空き地のへぼ野球でも見物がいないことはない"と言ったのは詩人のサトウハチロー氏。"いい味""まずい味"を堪能する野球シーズンの到来です。
 イギリスで盛んに行われていた「クリケット」「ラウンダース」を基に、アメリカ各地で発達した野球は、1845年ニッカーボッカーというクラブの一員だったアレキサンダー・カートライトによって初めて規則が体系化されます。現在のようなベースボール正方形のダイヤモンドがつくられたのもこの時。カートライトはウォール街の銀行マンでもあり、数字がたくさん登場する細かいルールづくりはお手のものだったのかもしれません。カートライト・ルールによる初試合が行われたのは1846年6月19日。ニュージャージー州ホーボーケンで、アメリカの国技ベースボールが誕生します。



● 米国伝来のベースボールと日本独特の精神文化が融合して「野球」が誕生

 日本へ野球が伝わったのは、明治維新から5年後の1872(明治5)年。第一大学区第一番中学校(東京大学の前身のひとつ)に赴任してきたアメリカ人教師ホレース・ウィルソンが、母国から持参したボールとバットで学生たちに教えたのが始まりといわれています。野球はその後、武道精神や武士道といった日本の伝統的な文化と融合し、精神主義の色を強めながら"学生スポーツ"として独自の成長を遂げていきます。その主導的な役割を果たしたのが、厳しい練習で知られた旧制一高の野球部でした。
 一方で、社会人を中心としたチームも結成され始めます。伝来から6年目の1878(明治11)年、アメリカ帰りの鉄道技師平岡煕は、わが国初の組織的チーム「新橋アスレチック倶楽部」を発足します。ちなみに平岡は日本で初めてカーブを投げた人物。当時の野球は、打者が好むところに球を投げて(!)打たせるのが投手の役割でしたが、平岡が投げる球は回転するので誰も打てず「小手先でごまかす切支丹(きりしたん)ばてれんの魔法だ」と言う人が出る始末だったとか。1894(明治27)年には、それまで「玉遊び」「打球おにごっこ」「底球」などさまざまな名前で呼ばれていたベースボールに「野球」という和訳が登場。この絶妙な訳は、旧制一高OBであった中馬庚によるものとされています。
 やがて野球は大学から中学へと裾野を広げ、1915(大正4)年、全国中等学校野球大会が、1924(大正13)年には選抜大会が始まりました。こんにちの春・夏甲子園高校野球大会の前身です。子どもたちの間では、安全で柔らかいボールをつかった軟式野球が盛んに行われるようになりますが、この軟式用のボールは日本の発明品。1918(大正7)年、京都の小学校の先生と文房具屋さんが苦心の末につくりあげたものといわれています。



Key Word Column

始球式

 プロ野球ペナントレースが始まりました。期待でいっぱいの開幕戦に、賑わいと華やかさを添えるのが始球式。今年も各分野で活躍する著名人や人気のアーティスト・タレントが登場して話題となりました。
 日本で初めて始球式に臨んだのは早稲田大学の創設者・大隈重信です。1908(明治41)年、早大グラウンドで行われた早大VSリーチ・オール・アメリカンスター戦でのことでした。氏は1917(大正6)年、東京芝浦で開催された第三回極東オリンピックの時にも登場。この時投げた球は勢いなく、三本間を抜けて、ベンチに向かってコロコロと転がってしまったとか。
 始球式の最多登板者とされているのが、美濃部亮吉元東京都知事です。高校野球11回、都市対抗野球12回、プロ野球オールスター戦10回、日本シリーズ8回のなんと41回もお目見え。これは10年間だけの記録だといいますから驚きです。

参考資料
野球ふしぎ発見/鳥井守幸     毎日新聞社
にっぽん野球の系譜学/坂上康博  青弓社

←2002年3月号へ [ルーツ探訪]に戻る 2002年5月号へ→