ルーツ探訪
2001年
8月
Q  教えて下さい。

 「土用丑の日にうなぎ」を広めたのは、江戸時代の科学者・平賀源内といわれていますが、これって本当ですか?(長野県 Tさん)


A  お答えします。

●「本日土用丑の日」のキャッチコピーで千客万来

 あるうなぎ屋の主人に商売繁盛の名案はないかと問われた平賀源内。「本日土用丑の日」と一筆したため、「これを戸口に貼っておくように」とアドバイスします。うなぎ屋が指示通りにしたところ、店前には長蛇の列が・・・「土用丑の日うなぎ」の由来には諸説ありますが、江戸時代の博学多才の人・平賀源内が考え出したという説が定着しています。一方で、神田のうなぎ屋、春木屋善兵衛の料理人魂から生まれたという説もなるほどと頷けます。盛夏の頃、得意先のお屋敷から注文を受けた春木屋では、良品を届けようと、土用の子・丑・寅の3日間に蒲焼をつくって土の中に埋めておきます。7日後に取り出したところ、丑の日の品が一番おいしく、傷んでなかったため、土用丑の日うなぎの風習が広まったというものです。しかし、そもそも丑の日には「う」のつくものを食べると縁起が良いとされており、それは"梅干し"でも "うどん"でも"瓜"でもよかったのです。それが「うなぎ」となる背景には、宣伝の知恵が見え隠れします。
 江戸時代以前、うなぎは筒切りにしたものを串に刺して焼き、荒塩をふって横ぐわえにガブリといっていたようです。その形が蒲の穂に似ていたことから「蒲焼」の名が付いたと伝えられていますが、味の方はあまりほめられたものではなかったとか。のちに、割(さ)いて開いた身に、串を数本打って、タレを塗りながら焼く調理法を取り入れてから、うなぎはおいしいものの仲間入りをします。その割き方ですが、関東の背割りに対して、関西は腹開き。武士の都であった江戸では、腹を切る(切腹)を忌んで背から開きました。調理法も、関東風は白焼きのあと蒸して脂を抜き、それからふっくらと焼き上げるあっさり系、一方の関西では蒸さずにそのままこんがりと焼きあげるこってり系です。



●昔も今も暑中のスタミナ食、うなぎ

 現在、日本のうなぎ消費量は、年間なんと5億尾。世界の約半分のうなぎを日本人が食べている計算になります。うなぎは古来より栄養豊富な食品として珍重されていたようで、奈良時代の歌人・大伴家持の歌「石麻呂に吾物申す 夏痩せに良しといふものぞ 牟奈岐(むなぎ=うなぎ)漁り食せ(万葉集)」からもうかがえます。実際、うなぎはビタミンA、B群、D、Eなどが豊富に含むビタミンの宝庫であり、他にもからだに必要なミネラル分、カルシウム、亜鉛、鉄、DHA(必須脂肪酸のひとつ)などがたくさん。まさに夏バテを実感する土用丑の日にふさわしい活力源です。



ことわざdeなるほど
 さてここで、うなぎにまつわる江戸小話をひとつ。ある和尚が、生臭物(なまぐさもの=魚や肉の類)のうなぎを隠れておろそうとしたところへ、檀家がひょっこり顔を出します。驚いて目をむく檀家に、和尚、少しもあわてず首をかしげ「はてさて、不思議なことがあるものですぞ。昔から山の芋は年をとればうなぎに変わるなどというのを、ウソであろうと疑っておりましたが、ほら、ご覧なされ。山の芋を吸い物にしようかと思っていたら、みるみるうなぎになってしまいましたぞ」。ことわざにも「山の芋がうなぎになる」という表現があり、これは【1】突然あり得ないことが起こり、想像もできないものに変化すること、【2】身分の低い者が突如出世すること、それぞれのたとえとなっています。食べ合わせが悪いものとして「うなぎと梅干し」がよく引き合いに出されます。これは江戸時代の儒者・貝原益軒が著した「養生訓」に載っている戒めですが、現在では迷信であるとされています。実際に食べ合わせてみて実験した研究所があるそうですから、その安全性はお墨付きです。「うなぎ登り」の気温、ならば暑気払いはやっぱりうなぎ、ですね。


参考資料
江戸風流「食」ばなし(堀 和久著)/講談社
江戸食べもの誌(興津 要著)/朝日文庫
大江戸美味草紙(杉浦日向子著)/新潮社
岩波ことわざ辞典/岩波書店

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