ルーツ探訪
2001年
7月
Q  教えて下さい。

 花火を見物していたら「たまや〜」「かぎや〜」という掛け声を耳にしました。これってなんのことですか? (東京都 祭りっこさん)


A  お答えします。

●技を競い合った江戸の花火師「玉屋」「鍵屋」

 もともとは軍事用の狼煙(のろし)として始まった花火ですが、天下泰平の世になると観賞用の大花 火が発達します。ご質問の「たまや〜、かぎや〜」は、江戸の二大花火師「玉屋」と「鍵屋」のこと です。
 夏。江戸の人々の大きな楽しみは、太陽が沈んだ夕刻から納涼をかねて散策に出掛けることでした 。冷房などかなわなかった時代、蛍狩、蓮見、虫聞きなど、自然の中に涼を求めて楽しんだのです。 なかでも、江戸っ子の大のお気に入りは、隅田川のそぞろ歩きでした。江戸前期、隅田川に架かって いた橋は、両国・新大橋・永代のわずか三橋のみ。なかでも両国橋あたりはもともと盛り場だったの で、夏ともなれば輪をかけて涼み客が集まったのです。旧暦5月28日から8月28日までは夕涼みの期 間とされ、水茶屋や飲食の物売り、見世物小屋、寄席などは夜半までの営業が許可されました。両国 橋付近は押し合いへし合いの人だかり。隅田川には大小の涼み船と物売りのウロ船に埋めつくされて 、その混雑ぶりは船づたいに向こう岸まで歩いていけるといわれたほどでした。賑やかさも格別だっ た両国の納涼は、江戸文化を象徴する年中行事だったのです。



●世界の夜空を焦がす、日本の花火師たちの心意気

 両国で盛大に打ち上げ花火が行われるようになったのは、享保18(1733)年5月28日の川開きから。前年、飢饉や疫病流行による死者がたくさん出たため、8代将軍吉宗はその供養のための水神祭りを催しました。その際、両岸の水茶屋や船遊びの客が花火を上げさせたのが名物となり、それからは納涼の期間中、パトロンがつけば毎夜でも花火は打ち上げられるようになりました。両国橋の上流には玉屋、下流に鍵屋の花火船がそれぞれ陣取って、夜空に咲く花の華やかさを競い合ったのです。それを見た江戸の人々は「た〜まやぁ〜」「か〜ぎやぁ〜」と声を掛けて興じたのでした。
 江戸時代の花火は「和火」といって、硝石・硫黄・木炭などを原料とした黒色火薬が使われていたため、現在の花火のような鮮やかさはありませんでした。しかし花火師は、原料を自由自在に使いこなし、大がかりな仕掛け花火も考案しました。花火の色彩が賑やかになっていくのは、明治に入って塩素酸カリウムなどさまざまな化学薬品が輸入されるようになってから。そして、玉屋・鍵屋に続く名人花火師たちによって、より精巧に豪華に、進化を遂げた日本の花火は、世界でも類を見ない美しさで知られるようになりました。現在では24カ国へ輸出され、日本の花火師たちの心意気が、たくさんの国々の夜空を彩っています。



ことわざdeなるほど
 花火の競演を繰り広げた玉屋と鍵屋ですが、実は玉屋は鍵屋の暖簾(のれん)分けで、6代目鍵屋の番頭をつとめていた清七が独立し、玉屋市兵衛を名乗りました。しかし、技術も人気も玉屋のほうが高く、当時の浮世絵には玉屋の花火船ばかりが描かれました。まさに「青は藍より出でて、藍より青し=弟子が師より優れている」ですが、あまりにも玉屋玉屋の声ばかりが掛かったそうですから、これでは「味方見苦し=一方だけをひいきするのは、みっともないこと」ですね。 こうして「飛ぶ鳥を落とす=きわめて威勢が盛んなこと」勢いの玉屋でしたが、天保14(1843)年4月に、両国吉川町(現中央区)の自宅から失火し、町並みの半丁ほどを類焼させてしまいます。折しも12代将軍家慶の日光社参中だったため、特に重い罪に問われ、玉屋は所払い(追放)の処分を受け、廃業を余儀なくされます。「人は一代、名は末代=人の生命は一代限り、しかしその業績は末永く後世に伝えられる」。花火のように、はかなく消えてしまった玉屋の偉業も、「た〜まやぁ〜」の掛け声にその名残をとどめています。


参考資料
年中行事事典/三省堂
江戸の盛り場考(竹内誠著)/教育出版
江戸年中行事図聚(三谷一馬著)/中公文庫
日本人の「しきたり」ものしり辞典(樋口清之監修)/大和出版
岩波ことわざ辞典/岩波書店

←2001年6月号へ [ルーツ探訪]に戻る 2001年8月号へ→