ルーツ探訪
2001年
3月
Q  教えて下さい。

 雛祭りのお飾りについてですが、男雛、女雛、左右どちらに飾るのが正しいのでしょうか?(新潟県 辺見さん)


A  お答えします。

●女の子の健やかな成長と幸せを願って。

 ご質問にお答えする前に、雛祭りのルーツについてちょっとふれてみます。雛祭りは、人日(じんじつ=正月七日、七草の節供)、端午、七夕、重陽(ちょうよう)とならぶ五節供のひとつ、上巳(じょうし)の節供です。私たちには桃の節供としておなじみですが、こちらは女の子のお祭りにふさわしい華やかな呼び名ですね。
 上巳の節供とは、3月のはじめの巳(み)の日に、水辺に出て禊(みそぎ)を行い、お酒をくみ交わして災厄(さいやく)をはらった古代中国の行事です。この風習が日本に渡ってくると、神事のお祓いとなり、草や紙でつくった人形(ひとがた)で体を撫で、災いや穢れなどを移して、海や川に流す習俗となりました。これは今でも風雅な「流し雛」として、鳥取や和歌山県の一部で伝承されています。
 やがて「人形信仰」に使われた簡素な人形が、技術の進歩とともに装飾的なものとなり、観賞用として愛でられるようになっていきます。そして今日のように雛壇のうえに飾られるようになったのは、江戸時代の初め。徳川家康の孫娘で、後水尾天皇の中宮として入内した東福門院和子が娘・興子(おきこ)内親王の幸せを祈ってつくった座り雛が、その始まりといわれています。



●京都式?東京式?それぞれにワケがあります。

 さて、ここからが本題です。現在、男雛は右(向かって左)、女雛は左に飾ります。しかし、京都では男雛を左(向かって右)、女雛を右に飾ることが多く、これは、左上位であった宮廷儀式の伝統にしたがっているものです。
 前に、東福門院和子が娘・興子内親王のために飾り雛をはじめたと述べましたが、興子内親王はやがて即位して、奈良時代以来860年ぶりの女帝・明正天皇となります。江戸では、徳川家の流れをくむ天皇にあやかり、女雛を上位の左に置いたという説もあります。しかし、当時の江戸の風俗画などを見ると、特に決まりはなかったようで、それがおおいに意識されることになるのは、明治23年以降のことです。
 この年の2月11日(現:建国記念の日)、全国の小学校に対して御真影(天皇・皇后のお写真)が下賜されましたが、明治天皇は右(向かって左)、皇后は左になるように立たれていました。これは文明開化の時代の流れを受けて、右上位の国際儀礼にのっとったものです。さらに昭和3年秋、昭和天皇が即位の御大礼をあげられた際の写真も、天皇は右に、皇后は左に並んでおられ、以後、東京式の内裏雛の位置は、男雛が右(向かって左)、女雛が左という形が定着したといわれています。
 日本古来の伝統に基づいた京都式と、新しい時代を映した東京式。それぞれに歴史と理由があって、どちらが正しいということはないようですね。




ことわざdeなるほど
 ♪あかりをつけましょ ぼんぼりに お花をあげましょ 桃の花〜♪と歌われるとおり、3月3日は桃の節供です。古くから中国では、桃には魔よけの力があるとされ、桃の木でつくったものを門戸に立てたり、身につけたりしていました。
 桃は、花を楽しむ花桃(はなもも)と、実を採るための実桃(みもも)に分けられます。「桃栗三年、柿八年」〜桃と栗は三年、柿は八年かかって、やっと実がなるということわざです。これはもじりの多い表現で、たとえば尺八の修行をあらわした「首振り三年、ころ八年」、また、ぽつぽつとした苔と波を描けるようになるまでの画工の修行期間をいった「ぽつぽつ三年、波八年」、さらには舟を操る用具の修得期間を表現した「櫓三年に、棹八年」などがあります。いずれもその道を極めるためには、何事にも並大抵ではない鍛錬が必要ということを説いています。最後に「唯識(ゆいしき)三年、倶舎(くしゃ)八年」は仏教の修行や教義を理解することの困難さをあらわしたもの。いずれも三と八が対になっている点が興味深いですね。


参考資料
年中行事を「科学」する 永田久著/日本経済新聞社
日本を楽しむ暮らしの歳時記 春号/平凡社
陰陽で読み解く 日本のしきたり 大峽儷三著/PHP研究所
岩波ことわざ辞典/岩波書店


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