ルーツ探訪
2001年
1月
Q  教えて下さい。

 1月はなにかと着物を着る機会が増えます。いつも気になるのですが、どうして"左前(ひだりまえ)"に着てはいけないのでしょうか。


A  お答えします。

●1200年以上も前から、着物は右前。

 着物は右前に着るのが当たり前で、左前に着るのは「死んだときだけ」「早死にする」などといい、たいへん縁起の悪いこと、いわばタブーとされています。これは仏式の葬儀で、死者に着せる経帷子(きょうかたびら)を左前にすることから連想されたことなのでしょう。葬儀では、ふだんとは逆にするしきたりが多いのです。
 さて、この「左前」ですが、着物に馴染みのない人には、ちょっとわかりにくいかもしれません。着る人からみて、先に左側の衽(おくみ=前身ごろに縫いつけた半幅の布)をつけてから、その上に右側の衽を重ね合わせたのが左前。もちろん正しくは右→左の順で重ねる右前になります。ちなみに洋服の場合、紳士服の襟合わせは右前、婦人服は左前になっています。
 古墳時代の埴輪、そして法隆寺五重塔にある塑像(そぞう)には、右前、左前両方の襟合わせが見られますから、600年代までは特別の決まりはなかったのでしょう。それが右前と統一されるのは、719(養老3)年のこと。「続日本紀(しょくにほんぎ)」元正天皇2月3日の条に『初メテ天下ノ百姓ヲシテ襟ヲ右ニ令ム』とあり、この詔勅(しょうちょく=天皇が述べた言葉)以来現在にいたるまで、実に1200年以上の長きにわたって日本人は右前の着方をしてきたのです。



●右前と定めたのは女帝。

 わが国において、最初に服飾の制度を打ち出したのは推古天皇(在位592-628年 )で、聖徳太子の冠位の制定に始まります。以後、奈良時代には何度となく服制が改正され、新しい服飾令が次々と発布されます。また奈良時代は女帝が活躍した時代としても知られていますが、服装に対して女性ならではの関心と感性が反映されたのではないでしょうか。実は前述の元正天皇もそのひとり。右前と定めたのは女帝だったのです。
 奈良時代は中国の文化を積極的に取り入れており、服飾令もそのほとんどは中国や韓国の服制にならっていました。"右前"も大陸の習わしに従ったものなのでしょう。また、この世はすべて陰と陽との対比で成り立っているとする中国渡来の思想、陰陽説による「左=先」「右=後」に、着付ける側から従ったともいわれています。
 時代につれて着物の形態が変わっても、1200年以上も変わらずに守り継がれてきた「右前」のしきたり。これぞまさに日本古来の伝統ですね。




ことわざdeなるほど
〜左にまつわる言葉あれこれ〜

 やれやれ・・・というつぶやきが聞こえてきそうな"左前になる"とは、物事が思うようにならないこと。特に商売などがうまくいかず、金回りが悪くなることです。
 一方、うらやましいなぁとため息混じりの"左団扇で暮らす"は、生活の心配がなく、ゆったりと安楽に暮らすという意味。利き手ではない左手で、ゆっくりとうちわや扇を使う様子からでた言葉です。
 うちわを杯に変えて"左利き""左党"といえば、お酒好きの人のこと。金鉱を掘る人や大工さんなどが、左手に鑿(のみ)をもつことから出たもので、「のみ手」と「飲み手」とを掛けたといわれていますが、実際、酒杯は左手に持つ人が多いようです。あまり大きな声ではいえませんが"左巻き"は、変わった人をさす俗語。今ではあまり使われなくなりました。
 世界の多くの国では、右は光・聖・直・正しいなどを、左は闇・俗・曲・汚れなどを意味するようです。しかし古く日本では、左は神秘的な方向をいい、左大臣は右大臣よりも上位でした。


参考資料
陰陽で読み解く日本のしきたり 大峡儷三/PHP研究所
語源辞典/講談社

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