ルーツ探訪
2000年
11月
▼お正月に行われていた七五三?

●将軍さまにあやかって、七五三は11月15日に。

 七五三は、三歳と五歳の男児、三歳と七歳の女児が行う子どもの歳祝い。幼子の健康と成長を祝って、晴れ着を着せ、神社・氏神などに参詣します。
 そもそも七五三は、正月の吉日か、誕生日に行われていました。それが11月15日の行事になるのは、9世紀から17世紀にかけて用いられていた宣命暦で、すべての祝い事に最良の日とされていたこと、また秋の実りを神に感謝する祭りの日であったことに由来するといわれています。さらに、徳川三代将軍家光の四男徳松(のちの五代将軍綱吉)の五歳の祝いを、慶安3(1650)年11月15日にとり行ったことも挙げられます。
 七・五・三は、奇数を縁起のよい数と考える中国思想にもとづくものですが、古い日本の社会では「七つ前は神の子」といい、社会的人格が認められていませんでした。七歳になって氏子入りして初めて、社会の一員として共同体に参加できるようになり、一方では罪も問われるようになったのです。
 江戸時代以降、関東地方の都市部を中心に流行した七五三の風習ですが、現在のようなかたちで全国的に一般化するのは、第二次大戦以後のことです。



●我が子を想う、親の気持ちはいつの世も同じ。

 七五三は、その昔、公家や武家で行われていた子どもの祝儀が原型といわれています。ここにご紹介しましょう。

■髪置(かみおき)・・・それまで髪を剃っていた三歳の男女が、髪の毛を伸ばし始める儀式。長寿や子宝に恵まれた人に儀式上の親になってもらい、白髪頭になるまで長生きするようにと、真綿の帽子を子どもの頭にかぶせました。

■袴着(はかまぎ)・・・五歳の男児が初めて袴をはく儀式。江戸時代には子どもを碁盤のうえに立たせて、儀礼上の親が裃(かみしも)をつけるという作法があったようです。

■帯解(おびとき)・・・七歳の女児が紐付きの着物にかわって、大人の帯をしめる儀式。魂を内にしっかりとどめ、身をもちくずさないようにという願いが込められています。

 めでたいから祝うのではなく、祝うことによってめでたくする七五三。いつの世も子を想う親の気持ちは、変わらないようです。


●千歳飴にお赤飯、めでた尽くしの七五三。

 振袖の丈(たけ)より長し千歳飴   石塚友二

 七五三に付き物の千歳飴は、松竹梅や鶴亀が描かれた袋のなかに、紅白の棒飴が入ったもの。江戸時代の初め、浅草で「千年飴」「寿命飴」として売られたのが始まりといわれています。「百歳千歳(ももせちとせ)」の健康と成長を願う縁起飴で、長い形状から命が延びるとして喜ばれます。
 さて、おめでたいハレの日に欠かせないものといえば、もち米にアズキを入れて蒸した「赤飯」。七五三のお参りのあとには、千歳飴とともに親類縁者に配る風習があるなど、ここでも人生の節目を寿ぐ食物として登場します。祝い事や慶事に赤飯を食べる習わしは、江戸時代中期から後期にかけて一般に広まり、明治時代になってすっかり定着しました。一方で、現在の習慣と同様に、単にモチ米を蒸した白蒸し(しらむし)は凶事用と区別されていたようです。
 赤飯はアズキの色を移して、モチ米を赤くすることに意味がありますが、アズキは胴割れしやすいという欠点があります。武士の時代には、これを切腹に通じる(!)といって嫌い、皮の破れにくいササゲを代わりに用いたということです。


参考資料
「年中行事事典」/三省堂
「年中行事を科学する」永田久/日本経済新聞社
「ものと人間の文化史 もち」渡部忠世・深澤小百合/法政大学出版局
「日本人と食べもの」田村真八郎/丸善ブックス


←2000年10月号へ [ルーツ探訪]に戻る 2000年12月号へ→