ルーツ探訪
2000年
4月
▼お花見は、古代の信仰行事がはじまり?

 「桜前線」という言葉の響きに、本格的な春の訪れを感じる方も多いのではないでしょうか。私たちの心を魅了してきた、爛漫(らんまん)と咲き誇る艶姿。桜の花盛りの美しさを愛でる「花見」は、いつから行われるようになったのでしょう。
 まずは、花より“ルーツ探訪”。しばらくお付き合いいただきたいと思います。

●貴族もちょっと羽目を外したお花見?!

 四季を通じて咲く花は数あれど、単に「花見」という場合は、桜をあらわすことをご存知でしたか?薄桃色の花明かりの下でお弁当やお酒を楽しむ様子は、春の風物詩としてすっかりお馴染みですね。もともと花見は、花の観賞という風流なものではなく、山の神を迎え、物忌み(ものいみ)をするために家をあけて、集団で山遊びに出掛ける信仰行事でした。行われるのもだいたい決まった日で、西日本では三月節供やその翌日(4日)とする例が多く、東日本では卯月八日(うづきようか)に行う地域が多くみられました。
 野山に自生していた桜を、身近に植えるようになったのは桓武天皇の頃から。平安時代に入ると、賑やかな観桜の宴が開かれるようになり、貴族たちに風雅として愛されました。その様子は「ももしきの大宮人は暇(いとま)あれや 桜かざしてけふも暮らしつ(山部赤人)」《宮廷の人たちは、ひまがあるのだろうなぁ。桜を飾りとして髪にさして、今日も一日遊び暮らしたことである》という歌からもうかがえます。江戸時代になると、花見は庶民的なものとなり、たくさんの桜の名所が誕生します。



●桜は、自然環境のバロメーター。

 花見として最も古い記録は、弘仁三(812)年、嵯峨天皇が神泉苑で開いた観桜の宴であり、最も有名なのが慶長三 (1598)年、豊臣秀吉が京都醍醐寺の三宝院で行った「醍醐の花見」です。秀吉はみずから設計した庭で、贅を尽くした宴を繰り広げ、数百名にも及ぶ参会者を驚嘆させたといわれています。しかし秀吉はこの2ケ月後に病気となり、8月に死去。奇しくも最後の豪遊となりました。
 「三日見ぬ間の桜かな」やわらかな春風に誘われるように、ふもとから山へと、桜はそのつぼみを解いていきます。しかも、南北に長いわが国では、桜の見頃は3月中旬から6月中旬にかけてと長く、日本のどこかで花は盛りを見せてくれます。しかし、桜はデリケートな樹木、とりわけ大気の汚染には弱いのです。あでやかな桜の美しさは、元気で清らかな自然を映す鏡というわけです。



●「長命寺」「道明寺」。お寺にゆかり深い桜餅。

 「長命とやらがよいねぇ桜餅」軽やかな江戸川柳に登場する「長命」とは、桜餅発祥の地、東京向島にある長命寺のこと。作ったのは当時、門番をしていた山本新六です。享保二(1717)年、向島堤にある桜並木の清掃に追われていた新六が、たくさんの桜の落葉を何かに使えないかと考えました。そこで、まず作ってみたのが、桜の葉のしょうゆ漬け。しかし、これはまったくの売れずじまい。次に考え出したのが、小麦粉を溶いて薄く焼いた皮で、小豆餡(あん)をはさみ、それをあらかじめ塩漬けしておいた桜の葉で包んだもの。みずみずしい香りに包まれたこの餅菓子は、花見客に大評判。一躍江戸の名物となりました。その繁盛ぶりはたいへんなもので、一日に700とも1000ともいわれる数が売れたそうです。
 関東風の「長命寺」に対して、関西風の桜餅に「道明寺」があります。どちらも桜の葉に包まれているところは同じですが、皮の材料によって分かれます。小麦粉でつくった焼皮が関東風、あらくひいた道明寺粉でつくった餅で餡を包むのが関西風です。ちなみに道明寺粉は、大阪にある道明寺の尼僧が考案したといわれるもの。どうやら桜餅は、お寺にゆかりが深いようですね。



参考資料
「年中行事事典」田中宣一・宮田 登編/三省堂
「日本人のしきたりものしり辞典」樋口清之監修/大和出版
「現代こよみ読み解き事典」岡田芳朗、阿久根末忠編著/柏書房


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