ルーツ探訪
2000年
3月
▼彼岸のお参りはいつからはじまった?

 先祖のお墓参りをして、花を手向け、おはぎを供えて霊をなぐさめる・・・日本古来のゆかしい習俗「彼岸」。
 いまでもしっかりと私たちの暮らしのなかに息づく彼岸とは、どんな意味を持ち、いつから始まったのか、今回はちょっと難しいテーマに挑戦です。

●悟りの世界に到達できますように・・・

 「暑さ寒さも彼岸(ひがん)まで」と季節の節目にたとえられる「彼岸」は、現代では春分や秋分を中心とした前後3日間、計7日間をいいます。彼岸のはじめの日にあたる「彼岸の入り」は、春は3月18日頃、秋は9月20日頃にあたり、春分・秋分の日をそれぞれ「彼岸の中日(ちゅうにち)」、終わりの日を「彼岸の明け」といいます。
 少しむずかしい話になりますが、彼岸とは仏典の波羅蜜多(パーラミータ;菩薩の悟りに至る実践項目)という梵語を訳した「到彼岸」という語に由来しています。彼岸とは文字通り「向こう岸」。そこは菩薩が渡った悟りの世界であり、先祖の霊が安んじているところ。対して「こちら岸」を此岸(しがん)といい、生老病死の四苦がある娑婆(しゃば)の世界、すなわち生きている現世を指します。「生死の此岸を離れて、涅槃の彼岸に至る」、つまり“人はみな極楽往生したいという願い”によって、彼岸という習俗が生まれたのです。しかし、仏教思想を起源とするものの、彼岸の習慣は日本独自のものです。



●桓武天皇がはじめた彼岸会(ひがんえ)

 先祖の霊を供養する彼岸の法要は、延暦25(806)年、桓武天皇が、弟である早良親王の怨霊を鎮めるために行ったのがはじまりといわれています。かの源氏物語にも登場する彼岸は、春分・秋分の翌々日を「ひがんのはじめ」とし、11日後を「ひがんのはて」としています。
 その後、江戸時代に入って幾度か期間などが変わりますが、1843年の天保暦で、現在のように春分・秋分を中日とした7日間をいうようになり、明治以降の太陽暦においても、この形式が受け継がれて現在に至っています。
 ところで、彼岸はなぜ7日間あるのでしょうか。前述の「涅槃の彼岸に至る」ためには、「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」の六つの徳目を修行しなければなりません。彼岸の中日をはさんで、一日にひとつずつ修行し実践して、涅槃の境地に達するということから、彼岸は7日間あるというわけです。



●ある時は「おはぎ」、そしてある時は・・・

 ぼた餅の 来べき空なり 初時雨  (小林一茶)
 「どこからか、ぼた餅を配ってきそうなものだなぁ」というこの句にみられるように、彼岸にはぼた餅をたくさんつくり、仏様の供養として、親類やご近所にお互い配りあうのが古くからの習わしでした。最近ではどのぐらいこの習慣が残っているのでしょうか。
 ぼた餅は、今では一年を通じて「おはぎ」と言われることが多いようですが、春には、花の牡丹にちなんで「牡丹餅」「ぼた餅」、秋には萩の花になぞらえて「おはぎ」「萩の餅」などと呼びわけることもあります。また、こうした季節に寄せた風雅な名前のほかにも、いくつかの洒落た呼び名をもっています。
 おはぎは、炊きあがったもち米を、半つぶしぐらいまでこねて、それを好みの大きさに丸め、こしあんや粒あん、きなこなどをまぶしてつくります。このような作り方から、「北窓」(北の窓からは月が見えない。月知らず=搗き知らず)、「夜舟」(いつのまにか着いている=搗いている)、「隣不知(となりしらず)」(音を立てずにつくるので、隣りの家でも気がつかない)などの名前があります。
 もち米のふんわり感と、あんの甘やかさ。ひとくちごとに、やさしく懐かしい味わいが広がるおはぎ。彼岸には、ご先祖様への感謝とともにいただきたいものです。



参考資料
「年中行事を科学する」永田久著/日本経済新聞社
「現代こよみ読み解き事典」岡田芳朗、阿久根末忠編著/柏書房
「年中行事儀式事典」川口謙二、池田孝、池田政弘著/東京美術


←2000年2月号へ [ルーツ探訪]に戻る 2000年4月号へ→