わが町自慢の元祖、歴史を創った偉大な元祖、自称・元祖....わたしたちの回りには多くの「元祖」と呼ばれる存在があります。そんな様々な「元祖」についてこれから毎月取り上げていきます。
いい換えれば、「元祖」とはものごとの始まりであり、全て何かしらの起源があったからこそわたしたちの今の暮らしがある、といえます。中にはちょっと怪しい?元祖もあるかもしれませんが、風聞もまた世の習い。それもこれも合わせて楽しんでいただければと思います。
88. 公示から1カ月余りで太陰太陽暦から太陽暦へ。激動の明治時代に暦も入れ替わり〜「カレンダー」[12/16追加]
87. 水鏡から銅鏡、そしてガラス鏡へ。歴史と技術の進歩を映す〜「鏡」
86. およそ200年前、兵糧として開発。日本では石狩川の「サケ」を原料に製造開始〜「缶詰」
85. 西洋式クリーニング店が開業するのは幕末の頃。洋装の定着とともに、需要も増加〜「クリーニング」
84. 登場後しばらくは、灯火のガラスの上に「ススメ」「チウイ」「トマレ」と書いて、周知を徹底〜「信号機」
83. 屋台で揚げたてをほおばる。江戸の庶民に大人気! 日本のファーストフード〜「てんぷら」
82. コンビニ、スーパーの人気商品は、2000年の歴史をもつ超ロングセラー〜「おにぎり」
81. お酒の誕生と時を同じくして登場。組み合わせやアレンジで、レシピは星の数ほど。〜「カクテル」
80. “交通戦争”から子どもたちを守れ! 昭和40年代にぞくぞく誕生〜「歩道橋」
79. トランジスタからIC、LSI搭載へ、半導体の歴史とともに発展。もっとも身近なコンピュータ〜「電卓」
78. 風呂で敷くから「風呂敷」。商業や物流の発達に伴って、モノを包む布の総称に〜「風呂敷」
77. 起源は、中国の占星術。有力者や江戸幕府の庇護の下、日本において高度に発達〜「囲碁」
76. 16世紀頃のドイツで発祥。日本で初めて飾られてから今年で120年〜「クリスマスツリー」
75. 人力、水圧、蒸気、そして電動式へ。動力の変遷、技術開発とともにより高く速く、安全に〜「エレベーター」
74. 石炭から原油、そして天然ガスへ。原料は変わっても、暮らしを快適・便利に照らす「青い炎」は変わらず〜「ガス」
73. 梳き櫛から、飾り櫛へ。美しい細工が施された造形美が、緑なす黒髪を引き立てる〜「櫛」
72. “機械で洗濯するのは女らしくない”普及を阻んだ半世紀前の女性の意識〜「洗濯機」
71. なんとしても成功させたかった写真電送。“結果”を出したのは、外国製品ではなく、国産の技術力〜「ファクシミリ」
70. 富裕層向けの高価な輸入車から、国内メーカーの成長に伴い、一般人の乗り物に〜「自転車」後編
69. 車輪を前後に並べて、乗って走っても転ばない! 約200年前の発見が、開発の推進力に〜「自転車」前編
68. 石けんの元祖は臭かった?! 植物由来の原料に変えることでニオイを克服〜「石けん」
67. 手回しミシンに始まり210年余り。コンピュータ制御により思い通りに表現できる時代へ〜「ミシン」
66. 黎明期、各国がしのぎを削った開発。美しく鮮明に…進化を続け、いよいよ“地デジ”の時代へ〜「テレビ放送」
65. 高度経済成長期に登場。その後、アレルギー性疾患の増加に伴い、普及にも拍車が〜「空気清浄機」
64. 米ぬかからビタミンB1。日本人が世界で初めて、成分の抽出に成功!〜「ビタミン」
63. まったくの偶然から発見されたX線が、近代医学の前進と発展に大きく貢献〜「レントゲン」
62. 今から200年前、世界初の全身麻酔手術を成功させたのは、ひとりの日本人〜「麻酔」
61. ケガ人を救出、看護する・・・ギリシャ・ローマ時代から軍事活動の一環として始まった〜「救急」
60. 中国3000年の経験則を集めた伝統医療。効用が知られるにつれ、世界に広まる〜「鍼灸」
59. 1970年代に頻発。対策を講じ、克服したかにみえた公害が、近年再発の傾向に〜「光化学スモッグ」
58. しっかり洗浄、すぐに低温保存、十分に加熱。基本を守って、防ごう!〜「食中毒」
57. ジェンナーの種痘法開発から約2世紀。予防接種の普及により、世界から根絶された伝染病〜「天然痘」
56. 古今東西、人はその痛みに耐えた? 歯磨きに勝る予防法ナシ!〜「虫歯」
55. 薬の開発により治癒が可能に。過去の病とされながら、いまだに克服できない感染症〜「結核」
54. 近年急増の傾向。今や日本人の3人に1人が苦しむやっかいな現代病〜「アレルギー」
53. 無敵を誇った大横綱も勝てず。“万病のもと”は、かかったかなと思ったら無理せず休養〜「風邪」
52. ベルとグレイの発明合戦。そして、同日特許申請。勝敗を決したのはわずか2時間の差。〜「電話」
51. 婚約指輪、アクセサリー、身分の象徴・・・さまざまな役割を担ってきた〜「ハンカチ」
50. もっと遠くを、さらに鮮明に。宇宙の不思議を次々と解明してきた立役者〜「望遠鏡」
49. 「たたむ」が語源のたたみ。優れた機能は日本の気候風土にぴったり〜「畳」
48. 正確にはやく“数える”ことへの、さまざまな発見と工夫が発展の原動力に〜「そろばん」
47. “海の民”古代ポリネシアの人々が始めた、世界で最も古いスポーツ〜「サーフィン」
46. 浪人も内職に励んだ?!日本独自の和傘は、江戸時代中期から町人の生活必需品に〜「傘」
45. イギリス生まれ、フランスで考案された技術により筆記用具として進化。なめらかでやさしい書き味が魅力〜「鉛筆」
44. 私財を投じてでも。日本初の本格的な実測地図は、“ご隠居さん”が仕掛け人〜「地図」
43. 日本初の予報から120年。観測技術やコンピュータの発達により、精度もグーンとアップ!〜「天気予報」
42. インドの空を飛んだ世界初のエアメール。乗り物の発達とともにお届けもスピードアップ〜「エアメール」
41. 新しいレシピ、すてきな食のシーンを提案。献立づくりに悩む主婦の味方〜「料理番組」
40. “見せない” 商いから 、豊富な品揃えで“魅せる”商売へ。伝統ある呉服商から百貨店への大転換〜「デパート」
39. 「あきをとめ」「デザインを楽しむ」。機能性と装飾性を備えた洋服のかなめ〜「釦(ボタン)」
38. 2人に1人がマイク片手に熱唱。誕生30年で国民的レジャーに〜「カラオケ」
37. 幕府も許可した天下御免の富くじは、一攫千金を夢見る庶民に大人気〜「宝くじ」
36. 誕生から90余年。さまざまな時代を走り抜けてきた、手軽で便利な庶民の足〜「タクシー」
35. ルーツは1000年前のタルタルステーキ。アメリカの国民食、ファストフードの代名詞〜「ハンバーガー」
34. 5000年の時を重ねて。正しい時間を知りたいと願った、人類の情熱と英知の結晶〜「時計」
33. ホウキの座を奪取するのは終戦後。きれいな住まいの立て役者〜「掃除機」
32. “知の宝庫”起源は、今から4,500年前の古代メソポタミア〜「図書館」
31. 明治の半ば、伊藤博文が大正天皇に贈った特注カバンが元祖〜「ランドセル」
30. 週に一度は食卓に登場!今や本場インドをしのぐカレー大国に〜「カレーライス」後編
29. 五感だけを頼りに、スパイスと格闘。初の国産“調合”カレー粉誕生〜「カレーライス」前編
28. 苦難の末、日本の味と西洋の食を融合。銀座・木村屋発祥「あんパン」
27. 地域に新しい産業を。雪をも溶かす情熱でぶどうづくりに挑む。ワイン(後編)
26. 舶来の妙なる味わいを日本でも。国産ワイン第一号は山梨から。ワイン(前編)
25. 僧侶や貴族向けの高級食材「豆腐」。江戸時代から庶民の食卓に登場
24. ハイカラな店の雰囲気も“味わい”のうち。連日大入り、明治のビヤホール
23. 偶然の産物?ワラに包んだ煮豆がネバネバ糸引く食べ物に。古くて新しい健康食・納豆
22. アメリカの味を再現、日本で最初の“あいすくりん”は横浜生まれ。アイスクリーム(後編)
21. イタリア生まれ、冷凍技術の発達とともに美味しく進化。アイスクリーム(前編)
20. もっと早く、さらに便利に。宅配便の元祖は♪クロネコヤマトの宅急便
19. わらじや下駄を履いてきた日本人の足に合う靴を。明治3年は、製靴元年
18. 大手菓子メーカーが味と価格の大衆化に貢献、チョコレート
17. 日本生まれ。世界で愛される国際食〜インスタントラーメン
16. 子どもたちに甘くて楽しい夢を 国産キャラメルの元祖〜森永製菓
15. 日本のチーズづくり その始まりは、雄大な北海道の大地から
14. あつあつご飯の友だち、ふりかけ 元祖は、全国ふりかけ協会のお墨付き
13. 大阪生まれ、庶民の味 "めちゃうま"きつねうどん
12. 大阪発、今や人気は全国区 たこやき元祖、会津屋
11. はやい、おいしい、お手頃 世界初のレトルト食品・ボンカレー
10. 駅弁の元祖対決 最有力候補は宇都宮駅
09. ここから世界へ!光通信発祥の地、東北大学 電気通信研究所
08. 日本の焼肉店の元祖、東の「明月館」・西の「食道園」
07. 日本第一号地ビール、新潟県巻町・えちごビール
06. 蘭学・儒学・言語学“日本初”の系譜、一関・大槻家
05. 仙台発>>>美味三大元祖、冷やし中華そば・回転寿司・牛タン
04. クリームパンの元祖「中村屋」の創業者、相馬黒光(そうまこっこう)B
03. 日本初の自家用水力発電、三居沢(さんきょざわ)水力発電所
02. 日本で初めて国の天然記念物に指定された、東北大学理学部付属植物園
01. 現存する日本最古の学問所、旧有備館(きゅうゆうびかん)
00. 【皆さまへのお知らせ】
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本当の話 (既に証明されている) |
本当らしい (本当である確率が高い) |
ちょっと怪しい (よく聞くが真偽は不明) |
かなり怪しい (事実関係が証明できない) |
極く内輪の話 (限られた範囲で伝わる話) |
新年のカレンダーが文具店の店先を飾る季節となりました。カレンダーは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けた「暦(こよみ)」を記載したものです。暦には、太陽を基準とした「太陽暦」、太陽と月とを併用した「太陰太陽暦」、月齢を基準とした「太陰暦」 があります。実は、暦の元祖は「太陰暦」。古代バビロニアの僧侶たちによって、月の満ち欠けが一定の周期で行われることが発見され、それを基とした暦が編み出されました。ローマに受け継がれてからも、僧侶たちは絶えず月を観測し、新月には笛を鳴らして市民に知らせました。新月の次の日を「月の最初の日」と定め、金銭の精算をする基準日にしたといいます。
日本ではいつ頃、暦が使われるようになったのでしょうか。日本書紀には「553(欽明天皇14)年に、百済(古代の朝鮮半島南西部にあった国家)へ暦博士の来朝を求めた」とあります。また、602(推古天皇10)年は、観勅が来朝して暦法を伝え、日本の学生に学ばせたという記録が残っています。
現在の太陽暦(グレゴリオ暦)を使用するようになったのは、1873(明治6)年から。前年の1872年11月9日に太陰太陽暦からの移行が公布され、「来る12月3日を新暦の明治6年元日とする」と発表されました。1カ月もたたないうちに暦が変わることになった人びとの混乱ぶりは、いかほどだったでしょうか。しかし、社会は太陽暦にのっとって動いていましたが、市井の人びとの暮らしはまだまだ旧暦によるところが大きく、農村の種まきや行事・歳時記、冠婚葬祭などは太陰太陽暦にそって行われていました。昭和20年代までには、「新暦と旧暦を併用している」人が全国で半数近くもいたという調査もあるそうですから、暦の習慣も根強いものがありますね。また、12月3日に改暦されたことに基づき、この日を「カレンダーの日」と定めています。
現在ではさまざまなデザインのカレンダーが目を楽しませてくれますが、当初の「こよみ」は小冊子の形をとったものが主流で、暦屋の団体である領暦商社でしか発行できませんでした。1883年(明治16年)からは1枚摺りの略歴の発行が自由となります。この頃のいちばん人気のこよみは、伊勢の神宮司庁で発行されていた伊勢暦。ここでしか買えない“地域限定品”といったところですね。1903年(明治36年)には“日めくり”カレンダーが大阪でお目見え。日めくりには旧暦も併記され、美しい台紙に告知や広告が入った物で、会社などが大量につくり、年末の挨拶として得意先やお客さまに配布しました。今日、主流となっているカラー写真の入った“月めくり”カレンダーが多く流通するようになるのは、1945年(昭和20年)以降のことです。
2007年の日めくりカレンダーも残り少なになりました。光陰矢のごとし、という言葉も浮かびますが、流れてゆく時間は、いついかなる時でも、私たちに平等に与えられているものです。それをどのように使うかは、一人ひとり次第。悔いなく十全に、日々を重ねていきたいものですね。
参考文献・サイト
全国団扇扇子カレンダー協議会 http://www.zenkyo.net/
11月11日は「鏡の日」。11は鏡に映しても11と読める鏡像文字であることから、全日本鏡連合会が2006年に制定しました。
鏡の起源は、水面を利用する「水鏡」にあるといわれます。ギリシア神話には、水に映る自分の姿に恋をしてしまうナルキッソスが登場します。鏡に映った自分の姿を“自分である”と認識できる能力を「鏡映認知」といいます。これは人間以外ではサルやイルカで確認されていて、動物の知能を測る手掛かりとされています。ちなみにチンパンジーなどは、毛繕いに役立てることができるそうです。水鏡の次に登場するのは、磨き上げた石や金属(銅を主体とした合金)を利用した鏡。古代エジプト(紀元前3000年〜)ではすでに銅鏡が使われていたようです。
わが国へは紀元前1〜2世紀頃に、中国の前漢(B.C.202〜A.D.8)から銅鏡が伝わり、有力な豪族の祭祀(さいし;神や祖先を祭ること)に使われていました。古墳時代(4世紀初めから7世紀)になると、国内でもつくられるようになります。初めは、中国の様式をまねていましたが、次第に日本独自の文様が背面に施されるようになりました。平安時代の後期になると、華やかな唐風(中国風)に代わり、自然の風物(草花、鳥)を描いた日本独特の優しい文様を持つ和鏡へと発展していきます。この頃は、貴族の化粧道具としてだけではなく、神仏の奉納物としての役割も果たしていました。室町時代には、鏡に柄(握って持つところ)をつけた柄鏡がお目見え。それまで背面に付けていた鈕(ちゅう;持つためのつまみ)が不要になったため、背面全体にのびのびと文様がつけられるようになりました。江戸時代になると新しい鋳造法による量産が可能となり、銅鏡は広く庶民へと広がっていきました。
一方、14世紀の初め、ベニスのガラス工が、水銀アマルガムをガラスに付着させて鏡をつくる方法を発明しました。金属鏡よりも反射の優れた「ガラス鏡」の誕生です。日本へは、1549(天文18)年に来日したスペインの宣教師フランシスコ・ザビエルが贈り物として持ち込みました。その後、幾度かにわたってガラス鏡の製法が伝えられたものの、残念ながら技術が定着することはありませんでした。しかし、時代が下がって江戸時代半ばまでには、国内でもガラスの調達が可能となり、それに水銀引きをしたガラス鏡(鬢鏡(びんきょう)と呼ばれた)が製造されるようになりました。
明治に入り、舶来物のガラス鏡が市場を賑わしますが、一方で、国内で水銀を使用しない銀引き法で鏡がつくられるようになります。しかし、材料となる素板は輸入板ガラスに頼らなければなりませんでした。明治末になると、長い間の念願であった国産板ガラスの製造が始まり、それが鏡の素板として使用されるようになりました。国産品の誕生です。その後は、技術開発により、よりはっきりと映す鏡へと性能を高めていきました。
「人の手本・行動の規範とすべきもの」をあらわす言葉として「鑑(かがみ)」があります。自分は、鑑のような存在であるかどうか、時には心の鏡に映し出してみたいものですね。
参考文献・サイト
東京都鏡商工業協同組合 http://www.mirror.or.jp/
10月10日は「缶詰」の日。長期間保存ができ、開けてすぐ、または少し手を加える加熱のみで、そのまま食べることができる缶詰は、その特質から兵糧(軍隊の食糧)として発達してきた側面があります。
時は、18世紀の後半。ヨーロッパ各地での戦争に明け暮れていたフランスでは、遠征時の食糧補給、とりわけ新鮮な食材の確保に頭を悩ませていました。そこで1795年、政府は懸賞金をかけて、陸軍糧食となる食品保存法を募集しました。それに応えたのが、料理店や醸造業を営む傍ら、食品に関するさまざまな研究に取り組んでいたニコラ・アペール。彼は1804年、ビンに食品を充填したのち、密封し、加熱殺菌するという「缶詰の原理」を発明しました。この方法は、現在の缶詰製造技術にもつながるすぐれたものでしたが、ビンのため重くて割れやすいという欠点があったのです。それから6年後、イギリスのピーター・デュランが容器に「ブリキ」を用いる方法を開発します。当時は、缶切りという道具がなく、「ノミとオノで開けてください」という注意書きがあったといいます。現在では、容器そのものに開封用プルトップなどがついたイージーオープン缶が主流になっていますね。
さて、アペールの時代、発酵や腐食の原因は「空気によるもの」と考えられていましたが、1861年、フランスのルイ・パスツールが微生物の存在を発見。アペールの技法を応用した低温殺菌法を開発したことで、缶詰の品質が向上していきます。その後、製造方法はアメリカに渡り、南北戦争の携行食糧として重宝され、缶詰の生産は急速に拡大していくこととなります。
日本においては1871(明治4)年、長崎の外国語学校に勤務する松田雅典が、同僚のフランス人レオン・ジュリーの手ほどきで試作したイワシ油漬缶詰が、国内初のものとされています。本格的な生産が始まったのは1877(明治10)年。北海道石狩市に官営の工場がつくられ、石狩川を遡上するサケを原料とした缶詰の商業生産が始まりました。創業したのが10月10日という記録により、日本缶詰協会ではこの日を「缶詰の日」と制定しています。ちなみに当時は、「管詰」という字があてられていました。明治後期の日清、日露戦争を契機に、缶詰産業は発展し、生産量も増加していきましたが、あくまでも輸出用、あるいは軍需用であり、一般には普及することはありませんでした。多くの人が初めて口にするのは、1923(大正12)年の関東大震災の以降。海外から送られてきた支援物資のなかに缶詰が含まれていたためでした。
缶詰生産量の推移をみると、戦後の1950(昭和25)年でおよそ12万8千トン、経済成長の波に乗り、生産量は増えていき、1980(昭和55)年のおよそ120万トンでピークを迎えます。その後、減少傾向に転じましたが、近年では横ばいを維持、2003(平成15)年の生産量は、約45万トンとなっています。最近では、災害時などの非常食としての注目を浴びています。備えあれば、憂いなし…家庭でも積極的に備蓄を進めたいものですね。
参考文献・サイト
社団法人日本缶詰協会
http://www.jca-can.or.jp/
「クリー(9)ニン(2)グ(9)」の覚えやすい語呂合わせ、9月29日は「クリーニングの日」です。1982(昭和57)年、全国クリーニング生活衛生同業組合連合会とクリーンライフ協会が、さらなる普及を目的に定めました。
さて、日本での洗濯業は、室町時代、公卿や身分の高い武士を顧客に持つ紺屋(こうや:染物屋)が、副業として始めたとされています。専業になるのは、江戸時代のなかば。当時は女性二人が一組となって、お客さんの家に出向き、灰汁(あく)を使い、主に木綿の着物の洗濯をしていました。身分の高い武士や豊かな商人が着る高級衣料は、悉皆屋(しっかいや:仕立てや洗い張りなど、着物の手入れをするところ)を通じて、京都の洗い物屋へと送られました。ここでは、洗剤として灰汁のほかに、米のとぎ汁、白小豆などを使い、しみぬきにはうぐいすの糞や大根の汁、お湯も利用していました。仕上げは姫糊(ひめのり:米を柔らかく煮てつくった糊)を使って、張り仕上げをし、砧うち(きぬたうち:木槌で布を打って、つやを出したり、やわらかくしたりする)もされました。長崎では「異国張り」と呼ぶアイロンによる仕上げもあったようです。
1859(安政6)年、横浜の青木屋忠七に、「外国人衣類仕洗張」という営業許可書が出され、居留地外国人向けの洗濯業が始まりました。本格的なクリーニング業は、長崎で西洋洗濯を学び、1861(文久元)年頃、横浜で店を構えた渡辺善兵衛によって始められたとされています。この頃の洗い方は、水あるいはお湯、ソーダと石けんを使う「ランドリー」という方法でした。やがて、洋服を着る人が増えてくると需要も増加し、各地に西洋式のクリーニング店が登場しました。
現在クリーニングの主流である「ドライクリーニング」が日本で初めてお目見えするのは、明治時代の末。一般化するのは戦後のことです。さて、この「ドライクリーニング」、乾いた状態でクリーニングするのではなく、“水のかわりに”汚れを溶かす洗剤(石油系溶剤など)につけこんで洗浄します。この方法が発明されたのは、1800年代半ばのフランス。ある仕立屋が、衣類についた油性のシミがテレピン油で落ちることを偶然発見したことから広がりました。そのためアメリカでは、ドライクリーニングをフランス式クリーニングと呼んでいた時代があったといいます。
総務省の調べによると、一世帯当りの年間洗濯代は2005(平成17)年が9,485円。1992(平成 4)年の19,243円をピークに、ここ20年で最低の支出金額です。これは家庭用洗濯機の大型化や高度化、ドライマーク対応の家庭用洗剤が普及してきたことが背景にあるようです。(財)東京都生活衛生営業指導センタ−「環衛業に係る消費生活調査」(平成8年度)によると、クリーニング店への依頼が減った理由として、「自宅でのクリーニングを増やした」が87.3%も占めています。しかし、大切な衣類は、やはり洗濯のプロに相談するのが賢明かもしれませんね。
参考文献・サイト
全国クリーニング生活衛生同業組合連合会
http://www.zenkuren.or.jp/
タイムスリップ横浜
http://www.timeslip-y.jp/motomati/clean.html
8月20日は「交通信号の日」。1931(昭和6)年のこの日、銀座の尾張町(銀座4丁目交差点)や京橋交差点などをはじめ、34カ所の市電交差点に、日本初の三色灯の自動信号機が設置されたことに由来する、とのことですが、実は、道路用の信号機はそれよりも以前に存在していました。鉄道用に至っては1872(明治5)年の開通とともに登場しています。今回は主に道路用の信号機について、元祖を尋ねてみましょう。
大正時代から昭和の初めにかけての交通信号の創始期には、警察官の「挙手の合図」や、「信号標板」などによって交通整理が行われていました。信号機の第一号は、1919(大正8)年、東京・上野広小路にお目見えします。木の板のオモテウラそれぞれに「ススメ」「トマレ」と書かれたものを、警官が“手動”で回転させ、提示する形式のものでした。車が珍しかった時代ののどかさが伝わってきますね。
我が国初の“自動”交通信号機が登場するのは、1930(昭和5)年3月。東京の日比谷交差点に設置されたハイカラな形の信号機は、アメリカ製で、灯器を交差点の中央に置くタイプでした。冒頭でご紹介した自動信号機(1931年に登場)は、“国産”の3色信号機であり、また多くの箇所に設置されたという意味で、日本初といえるのかもしれませんね。当時は、色の意味が周知されていなかったため、ガラスのうえに「ススメ」「チウイ」「トマレ」と書かれていました。
現在では知らない人のいない交通ルールの基本、信号は左から緑、黄、赤(左側通行の国の場合)ですが、これは「CIE:国際照明委員会」が定める国際規格です。CIEで規定している信号の色は、赤・緑・黄・白・青の5色で、それぞれ色度の範囲や光度などが定められています。一般には馴染みのない白と青は、航空信号などに使われています。さて、ここでちょっと不思議に思いませんか? 国際規格で定められている「緑(Green)信号」を、どうして「青信号」と呼ぶのでしょう。それは、日本では古くから、緑のことも青と呼ぶ習慣があって、信号が導入された当初、多くの人が「あお」と認識してしまったから、という説があります。一方では、色の三原色と同じく赤・青・黄を、信号の色に対比させたともいわれています。
平面交差点において信号処理が必要になるのは、各々の道路から交差点に流入する交通量が1時間当たり500台以上になったとき、が目安とされるそうです。日本全国には約18万7千基(2004年3月末)の信号機があり、すみやかな通行と交通安全を支えています。
参考文献・サイト
警察庁 警察の歴史〜信号機の歴史 http://www.npa.go.jp/kouhousi/police-50th/history/signaler/index.html
株式会社建設技術研究所編著『道なぜなぜおもしろ読本』山海堂
交通博物館編『知られざる歴史と魅力 交通博物館のすべて』JTBキャンブックス
浅井建爾著『道と路がわかる事典』日本実業出版社
すし、スキヤキ、しゃぶしゃぶ、てんぷら…といえば、外国人に好まれる日本料理の代表でしょうか。毎月23日は「てんぷらの日」。元はといえば大暑の頃である7月23日とされていて、暑さにバテないようにてんぷらを食べて体力をつけようというものでした。
てんぷらの名の由来については、諸説入り乱れていますが、もとはポルトガル語であるという意見が根強く、中世の末、わが国に伝わった南蛮料理が、長崎、大阪、江戸と伝わっていくうちに、形を変え、定着していったものと考えられています。今でも、京阪以西の地域では、関東でいうところの「さつまあげ」を「てんぷら」と呼んでいます。
てんぷらは江戸時代に入り、庶民の食べ物として人気を博するようになります。提供したのは、日本のファーストフード「屋台」。百万都市・江戸は、郷里に妻子を残して江戸詰めになった藩士、上方からやってきた大店(おおだな)の使用人、建設工事の職人(火事が多かった江戸での復興工事に携わる)など、単身男性の多い都市でした。武士はともかく、使用人や出稼ぎなどの庶民に有難がられたのが、「てんぷら」「にぎりずし」「そば」「鰻の蒲焼」などを売る屋台だったのです。その場ですぐに口に出来る手軽さは“せっかち”な江戸っ子にもぴったりでした。また、てんぷらのように油をつかう料理は、火の元になりかねないということで、屋内での営業が禁止されていたという背景もあります。
その頃のてんぷらは、タネ(江戸前の魚介類) に串を刺し、水で溶いた小麦粉をつけて揚げ(現在では卵を入れる)、屋台の店先に置いてある大根おろしと天つゆをつけて食べました。野菜を素材とした、いわゆる精進揚げは「野菜揚げ」と区別されていたようです。仕事の合間や小腹がすいたときに、アツアツの揚げたてを買い食いでき、ハイカロリーでお腹も満足させてくれるものでしたが、“立ち食い”という無作法な食事形態からも、武士が食べるものではないとされていたようで、『近世職人尽絵詞』(鍬形寫ヨ筆、1804〔文化元〕年)には、「天麩羅」と大きな看板を掲げた屋台のまえで、二本差しの侍が手ぬぐいでほおかぶりをし、隠れるようにてんぷらを買っている姿が描かれています。
19世紀に入ると、高級魚をネタとする屋台があらわれるなど、てんぷらは転換期を迎えます。次いで、食べ物屋評判記に専門店が登場するなど、料理屋風の店舗を構えた店(内店)で提供されるようになっていきました。しかし、精製度の低い油を使用していたため、匂いや換気という問題もあり、店の前にしつらえた屋台などで揚げ、すぐにお座敷に運ぶような工夫がなされていたようです。
てんぷらはタネに衣をつけて、油で揚げるというシンプルな料理ですが、サクッとした食感に揚げるのはなかなか難しいようです。コツは、衣をよく冷やし、混ぜすぎないこと。梅雨空が続く季節、せめててんぷらはカラッと揚げたいものですね。
参考文献・サイト
大久保洋子著『江戸のファーストフード』講談社選書メチエ
平野雅章著『和食の履歴書』淡交社
吉川誠次、大堀恭良共著『日本・食の歴史地図』生活人新書NHK出版
暑くて食欲のない時でも、好きな具を入れて、香ばしい海苔を巻いたおにぎりなら食べられるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。実は、たいへん古い歴史を持つおにぎり。1987(昭和62)年、石川県鹿島郡鹿西(ろくせい)町(現・中能登町)の杉谷チャノバタケ遺跡から、弥生時代中〜後期のものと思われるおにぎりの化石が見つかりました。大きさは底辺が5センチ、高さ8センチ、厚さが3センチ。表面などから米粒の形が見てとれ、ジャポニカ種のもち米と推測されています。中能登町では6月18日を「おにぎりの日」とし、町おこしの祭りやイベントを開催しています。6は「ろくせい町」、18日は毎月の「米食の日」にちなんでいるそうです。
さて、おにぎりの直接の起源は、平安時代の屯食(とんじき)にあるとされています。これは、もち米を蒸したものを楕円形に握り固めたもので、宮中や貴族の家で行事や催し物があった際に、下仕えの人びとに配られたものでした。箸をつかわずに食べるため、あまり上品ではないものとされていましたが、簡単で便利な食物ゆえ、戦時の兵糧(ひょうろう)や農作業の弁当として重宝がられていきました。
一方、鎌倉時代末期になると、鉄製の釜が普及し始め、うるち米を炊いた米飯が食べられるようになります。そして、おにぎりが戦いに挑む武士たちの必需品になっていくにつれて、“焼く”調理法が広がっていきます。焼きおにぎりは、香ばしさが加わりおいしくなる上、傷むのを遅らせることができ、一挙両得でした。江戸時代になると、武士の間でおにぎりを食べることが定着し、屯食と呼ばれていた頃のように、下賎な食べ物というイメージはなくなりました。現在のように海苔を巻いたおにぎりが登場するのは、江戸時代の中頃。紙のようにすいてつくる板(乾)海苔が発明されてからのことです。
「おにぎり」「おむすび」「むすび」「握り飯」の違いは何でしょうか。「おにぎりは三角形で、おむすびは俵型だ」「いや、おむすびこそが三角だ」「関西ではおにぎり、関東はおむすびと言う」など諸説あり、定まっていません。また、おにぎりは「鬼を切る=わざわいを退ける」、おむすびは「お結び=良縁を結ぶ」につながるとされ、TPOによって使い分けている地域もあるそうです。
おにぎりは、コンビニエンスストアやスーパーマーケットのお弁当コーナーの売り上げを左右する立て役者。各社とも新製品の開発に躍起です。しかし、その2000年以上もの歴史を思うとき、丸型、三角、俵型のかわいらしい姿には威厳と風格すら漂います。超ロングセラーおにぎり。口いっぱいにほお張る幸せをいただきましょう。
参考文献・サイト
酒井伸雄著『日本人のひるめし』中公新書
永山久夫著『イラスト版たべもの日本史』河出書房新社
農林水産省「消費者の部屋」 http://www.maff.go.jp/soshiki/syokuhin/heya/HEYA.html
5月13日は「カクテルの日」。1806年のこの日、アメリカの雑誌に、カクテルの定義が初めて掲載されたことにちなんでいます。当時は「酒(種類は何でもよい)に砂糖、水、ビターを加えてつくる刺激的な飲み物」とされたようですが、現在では酒と酒、あるいは酒と薬味・果汁・炭酸飲料など2種以上を混ぜ合わせたアルコール入りのミックス・ドリンクが、広い意味でのカクテルと分類されます。水割りやロックはカクテルか否か、については意見の分かれるところのようです。
さて、“混酒”という点からいえば、カクテルの歴史は、酒類の誕生と時を同じくします。たとえば、古代エジプトでは、ビールにハチミツやショウガを、古代ローマではワインに海水を混ぜて飲まれていたといいますし、古代中国ではワインに馬乳を加えたものがあったようです。カクテルは幾度かの転換期を経て、発展していきますが、大きな影響を与えたものに「蒸留酒の発明」があります。ビールやワインといった醸造酒は、あまりアルコール度数が高くありません。ウイスキー・ブランデー・ジン・ラム・ウォッカといった強い蒸留酒は、飲み口をよくするために、他の飲み物と混ぜて飲むというスタイルが定着していきました。また、新大陸発見により中南米からもたらされた香辛料は、醸造酒や蒸留酒に独特の味と芳香をつけることに活かされ、カクテルのバリエーションも広がっていきます。そして、1870年代の製氷機の開発により、氷を使うことを前提としたレシピが生まれ、今日のようなキリリと冷やしたスタイルのカクテルが、四季を通じて楽しめるようになりました。
日本では、明治初期、外国貴賓を接待する社交場だった鹿鳴館(ろくめいかん)で、カクテルがお目見え。華々しく“日本デビュー”を飾ります。その後、大正時代に入って登場した下町バーでも提供されるようになり、広がっていきますが、本格的なブームが到来するのは、戦後しばらく経ってのことです。
カクテルは、ベースになる酒や組み合わせる材料によって、無限の種類が作られると言ってもよいでしょう。同様に「カクテル」の語源も、諸説入り乱れています。ここでは代表的なものをご紹介しましょう。『メキシコはユカタン半島の港町に大英帝国海軍の船が入港したときのこと。ひとりの海兵が、地元のバーテンダーの少年が木の枝を使っておいしそうなドリンクをつくっているのを見た。当時のイギリスには「お酒を混ぜる」という習慣はなかったため、その酒の名前を聞いてみたところ、少年は使っていた木の枝のことを聞かれたのだと勘違いし、「コーラ・デ・ガジョ」と答えた。これを英語に直訳した「雄鶏の尻尾(tail of cock)」が、やがて「カクテル」となった』というもの。他にも、まことしやかに伝わる説がいつくもありますが、この際、真偽の追究はほどほどにして、冷えたカクテルでもいただきましょうか。
参考文献・サイト
アサヒカクテルガイド http://www.asahibeer.co.jp/cocktailguide/
久保村方光監修『カクテル入門』日東書院
4月25日は「歩道橋の日」。1963(昭和38)年のこの日、大阪駅前に日本初の横断歩道橋がつくられたことから…とされますが、実はさかのぼること4年前、愛知県西枇杷島町(現・清須市)に日本最初の歩道橋がお目見えしていました。
人や自転車のみが利用する橋を「人道橋(じんどうきょう)」といいますが、そのなかで車道や鉄道を立体的に渡るための橋を歩道橋と呼びます。道路の下に整備されたものは「横断地下歩道(地下道)」です。これらを設置する目的は、交通渋滞の緩和(信号によらず道路を横断できる)、そして何よりも横断者の安全な通行にあります。歩道橋は昭和40年代に建設ラッシュを迎えますが、それは交通事故の深刻な増加を受けてのことでした。
昭和20年代、戦後の復興に伴って、国内では徐々に自動車台数が増えていきました。この時代、子どもたちの遊びといえば、外遊び。交通安全意識を徹底されていなかった、つまり車の危険性に不慣れな学童が、不幸にも犠牲者となる出来事が相次ぎました。昭和26年には、交通事故死亡者のうち15歳以下の子どもの占める割合が38%に達しています。昭和30年代に入って本格的な「車社会」が到来すると、ますます交通事故が増え、「交通戦争」なる言葉が生まれました。年間の交通事故死亡者数は1万人を超え、いかに人を車から守るか、という課題の解決に向けて登場したのが「横断歩道橋」です。冒頭の日本初の歩道橋も、付近で起きた小学生の交通死亡事故をきっかけとして設置の機運が高まったのです。
車の脅威から子どもたちを守ってきた歩道橋ですが、高度成長が終わり、少子化が始まると、交通事故が減少。“テレビゲーム”などの流行とともに、外遊びの機会が減ったことも、こと交通事故に関してはプラスに働きました。代わって、交通弱者としてクローズアップされてきたのが、高齢者や体の不自由な人びとです。階段がある歩道橋は、“人にやさしい”施設とは言い難い点があります。そこで、エレベーターやエスカレーターを設置したり、階段ではなくゆるやかな斜路にしたりするなどの試みがなされていますが、いずれも建設や維持に費用がかかることもあって、すべての歩道橋に導入するのは難しい現実があります。一方、昭和40年代につくられた歩道橋は、老朽化、または利用者がほとんどいなくなったという理由で撤去されるケースも増えてきました。今こそ、歩道橋など必要のない、安心・安全な交通社会が待ち望まれています。
参考文献・サイト
歩道橋のはなし http://www.saneigroup.jp/hodokyo/index.php
3月20日は「電卓の日」。1974(昭和49)年のこの日、日本の電卓生産数が世界一になったことを記念して、(社)日本事務機械工業会が制定しました。
さて、「電子式卓上計算機」こと「電卓」が登場する以前は、機械式計算機(手動式・電動式)、電気式計算機(リレー〔継電器〕を使用したもの)、電子式計算機(プログラム内蔵式ではない)などが一部の企業などで使われていました。この状況に一石を投じたのが、機械式計算機の歯車を真空管に置き換えた世界初の電卓。1963(昭和38)年、イギリスのBell Punch and Sumlock-Comptometerによって発売されました。これに触発された日本の各メーカーは、本格的に電卓の開発に着手。60年代半ばまでには、各社トランジスタ式の製品が揃います。こんにち電卓といえば、手のひらに載る計算機というのが一般的なイメージですが、この頃は、まさに卓上…つまり机を占領するような大きさであり、重量は20〜30s、そして非常に高価なものでした。これを小型化・高機能化し、価格を引き下げるためには、トランジスタに代え、当時の最先端の半導体技術であったICやLSIを電卓に搭載する必要がありました。
まず先鞭をつけたのが、シャープ。1967(昭和42)年には世界初のIC計算機、2年後には、またしても世界初となるLSI電卓を製作し、商業的成功を収めます。電卓は、縦25×横13×高さ7pまで小さくなりましたが、各社は胸ポケットに入るぐらいの小型化に向けて、開発競争を繰り広げます。1971(昭和46)年、ビジコン社はワンチップLSIを搭載した、世界初のポケット電卓を開発。まさに手のひらサイズの電卓は、大きな驚きをもって迎えられました。
このワンチップLSIの登場によって、多くのメーカーが電卓製造に参入し、価格競争が激化していきます。1972(昭和47)年にはカシオが当時の相場の3分の1という低価格の商品を発売、爆発的なヒットを記録します。電卓は、会社に一台の時代から、一人一台の時代へ。大衆化に拍車がかかります。さらに1973(昭和48)年、シャープが世界初となる液晶表示電卓を、その3年後には太陽電池を搭載した電卓を発売します。電卓市場はカシオ、シャープの2強体制となり、残る課題である「薄型化」に向けてしのぎを削ることとなるのです。
1983(昭和58)年、ついにカシオが発売した厚さ0.8oというクレジットカードサイズの電卓によって、20年にわたる小型化・薄型化の開発競争は決着をみます。この電卓は、デザインの歴史に影響を与えた優れた作品として、MoMA(ニューヨーク近代美術館)に収蔵されています。
その後、電卓は高機能化追求の時代を迎え、1980年代には辞書機能を持つタイプがお目見え。後に電子手帳へと発展し、1990年代に登場する携帯情報端末(PDA)へとつながっていくのです。
参考文献・サイト
電卓博物館 http://www.dentaku-museum.com/
カシオ電卓総合案内ネット http://dentaku.casio.co.jp/
さて、問題です。2月23日は何の日でしょう。…正解は、2(つ)2(つ)3(み)で「風呂敷の日」です。大きな布でモノを包むという行為は、布の存在とともに始まったことは想像に難くありません。こうした布は、奈良・平安時代には「平包(ひらつつみ)」「古路毛都々美(ころもづつみ)」などと呼ばれており、奈良東大寺の正倉院に納められている宝物(ほうもつ)も、収納物の名称が墨書された布に包まれています。まさに“シンプル・イズ・ベスト”と呼びたい一枚布は、現在の風呂敷に至るまで形や使用方法の変化はほとんど見られず、素材や染織方法、意匠文様が、時代とともに変化・発展を遂げていきました。
風呂敷というからには、お風呂と関係があるのでは? と誰もが思うことでしょう。布と風呂とがつながっていくのは室町時代。3代将軍・足利義満は、大湯殿(おおゆどの)を建てた折、全国の大名を風呂でもてなしました。大名たちは、脱いだ服を家紋入りの絹布に包んで、他の人の衣服とまぎれないようにし、風呂上りにはその絹布のうえで身づくろいをした、という記録が残っています。風呂で敷くから「風呂敷」、確かに言いえて妙です。
風呂敷が広く浸透していくのは、江戸時代に入ってから。銭湯の誕生と大いに関係があります。人々は、手ぬぐいや垢すり、軽石、ぬか袋などの湯道具を、風呂敷に包んで出掛けました。やがて他人のものと区別しやすいように家紋や屋号を染め抜く人が出てきました。呼び名は、江戸前期までは前述の「平包」と「風呂敷包み」が混在していましたが、次第に風呂敷に統一されていったようです。そして必ずしも風呂で使うものではなく、モノを包む布の総称として定着していきます。それは商業や物流の発達とも大きく関わっています。自慢の商品を風呂敷に包み、さっそうと売り歩く商人たち。屋号のマークが印された風呂敷は、さながら現代のブランド名入りの買い物バッグといったところでしょうか。とりわけ呉服屋さんの風呂敷などは、女性たちの熱い視線を集めたに違いありません。
中国の「包袱(パオフー)」、韓国の「褓子器(ポジャギ)」、トルコやパキスタンの「ボーチャ」、東アフリカの「カンガ」…風呂敷に似た布は世界各国にみられます。しかし我が国では、平包み、隠し包み、お使い包み、ふたつ包み、巻き包み、ビン包み、スイカ包み…など、用途と形にあわせた繊細で美しい包み方を発達させてきた歴史があります。何度でも使え、収納にもかさばらない風呂敷の柔軟性と利便性は、昨今の“エコな暮らし”にも適うものです。包装紙やレジ袋に替わるものとして、日本の伝統文化・風呂敷にもっと注目していきたいものですね。
参考文献・サイト
日本風呂敷協会 http://furoshiki.homepage.jp/index.html
1月5日は語呂合わせで「囲碁の日」。(財)日本棋院では、この日「打ち初め式」が行われます。
中国が起源とされる囲碁は、占星術のひとつが変化・洗練されたものといわれています。少なくとも春秋・戦国時代(紀元前8〜3世紀)には成立していたようで、政治・軍略・人生のシミュレーションゲームとして広まっていきました。『論語』『孟子』の中にも囲碁の話題が登場しますし、君子の教養として「琴棋書画(きんきしょが:順に音楽、囲碁、書道、絵)」が挙げられ、囲碁は身につけるべき心得とされていました。
日本には、奈良時代に遣唐使として中国へ渡った吉備真備(きびのまきび)が持ちかえったという伝承がありますが、大宝律令(701年)のなかに囲碁に関する項目があるなど、もっと以前に伝わっていたと考えられます。奈良東大寺の正倉院には、日本最古の碁盤が収められています。平安時代には貴族のたしなみとして好まれ、『枕草子』『源氏物語』などの文学作品にも、囲碁に興じる描写が出てきます。
室町時代になると、囲碁は貴族から武士・僧侶へ、次第に市井の人びとの間へと広がるとともに、セミプロが出現し、有力者たちは互いに競わせるなどしました。戦国時代には、春秋時代の中国同様、戦(いくさ)のシミュレーションとして盛んになります。室町末期には、日海(のちの本因坊算砂)が囲碁の第一人者として登場。算砂は、信長、秀吉、家康の師でしたが、3人の中では信長がいちばん強かったのだとか。
江戸時代には、本因坊家、井上家、安井家、林家の4家が、碁の家元と呼ばれるようになり、幕府からの庇護の下、優秀な棋士を育て、切磋琢磨しあいました。新しい定石・戦法が次々と生み出され、黄金期を迎えます。しかし、明治時代になると江戸幕府の崩壊とともに、囲碁界はその基盤を失ってしまいます。棋士たちは囲碁の火を絶やすまいと熱心に対局を続け、1878(明治11)年には、新聞にはじめて碁譜が掲載されます。
1998〜2003年にかけて連載された『ヒカルの碁』(原作ほったゆみ、漫画小畑健、監修梅沢由香里)により囲碁ブームが起こったのは記憶に新しいところですが、残念ながら若手の育成が遅れている日本勢は、国際大会などで中国・韓国の棋士を相手に苦戦を強いられています。
「幽玄(ゆうげん:余情を感じさせる深い趣)」「忘憂(ぼうゆう:人生の悩み・心配事を忘れさせる)」「手談(しゅだん:言葉をつかわずに、心の会話ができる)」、これらは囲碁の別称です。最近は、ネット碁などを通じて、その深い魅力に触れる人が増え、世界中にアマチュア愛好家の輪が広がっています。
参考文献・サイト
日本棋院の楽しい囲碁入門教室 http://www.nihonkiin.or.jp/lesson/index.htm
もうすぐクリスマス。色とりどりのライトやかわいらしいオーナメントを付けたツリーを飾っているご家庭も多いことでしょう。12月7日は「クリスマスツリーの日」。これは1886(明治19)年、横浜で外国人船員のために、日本初のクリスマスツリーが飾られたことに由来します。ディスプレイ用として、国内で初めて登場するのは1904(明治37)年。明治屋の店頭装飾としてお目見えしました。
さて、こんにちではクリスマスの華やぎになくてはならないツリーですが、いつ頃から飾られ始めたのでしょうか。そもそもツリーの歴史は、古代の樹木崇拝にたどりつくといわれています。ものみな枯れ果てる冬でも、落葉しない常緑樹には災いを遠ざける力が宿っていると信じられており、樹木を飾り立て、冬至のお祝いをしていました。クリスマスツリーは、そうした伝統的な風習をキリスト教徒が取り入れたもので、16世紀頃のドイツから広まったとされています。室内に常緑樹を持ち込み、色つきの紙や小さな人形、お菓子や角砂糖で飾り立てました。クリスマスが終わると、樹をゆさぶって落ちたものをもらうことができたといいますから、子どもたちはさぞかし楽しみだったのではないでしょうか。その後、各国の習俗や文化と結びつき、様式や装飾を変化させながら、キリスト教圏の国々へ広がっていきます。イギリスでは、1846年、ビクトリア女王とアルバート公のロイヤルファミリーが、クリスマスツリーのまわりに集う写真が公開されたことをきっかけに、ツリーを飾ることが大流行します。これがアメリカにも伝わり、1856年、第14代大統領フランクリン・ピアースは、初めてホワイトハウスにクリスマスツリーを持ち込みます。
今では当たり前のことですが、クリスマスツリーが初めて電飾されたのは、電球が発明された3年後の1882年のこと。のちに発明王エジソンの会社の社長となるエドワード・ジョンソンが自宅のツリーに赤・白・青、合わせて80個ほどの電球をつけました。1895年、第24代大統領グローバー・クリーブランドがホワイトハウスのツリーを電球で装飾するに至って、電飾スタイルの人気が決定的なものになります。
世界で最も有名なクリスマスツリーのひとつと言えば、ニューヨーク・マンハッタン中心部の高層ビル「ロックフェラーセンター」前に設置される巨大なツリー。74回目となる今年は、コネティカット州から運ばれた高さ約27メートル、重さ約9トンのノルウェートウヒに3万個の電球が灯されました。クリスマスツリーといえども、こちらは1月6日までそのきらびやかな姿が楽しめるそうです。
参考文献・サイト
日本クリスマス博物館 http://www.christmasmuseum.jp/index.html
11月10日は「エレベーターの日」。1890(明治23)年のこの日、日本初の電動エレベーターが登場したことを記念して、社団法人日本エレベータ協会が制定しました。設置されたのは、高さ52メートルの展望台「凌雲閣(りょううんかく)」、通称“浅草12階”。当時12階建てといえば、超高層建築。赤レンガ造り、八角形の高塔は、文明開化の象徴として、多くの見物客を集めていました。しかし、監督官庁からエレベーターは危険とみなされ、ほどなく利用が中止されてしまったといいます。「電動式」という条件を除けば、1842年、水戸藩主徳川斉昭によってつくられた好文亭(水戸偕楽園)のエレベーターが日本初として挙げられます。これは手動の「つるべ式」で、食事などを運ぶ小型のものでした。
さて、エレベーターを「滑車とロープを用いて上げ下ろしをする装置」と定義するならば、紀元前から存在していたようです。知られているところでは、浮力の発見や正確な円周率を求めたアルキメデス(紀元前287年−212年)が考案したホイスト(荷揚げ装置)があります。荷物の運搬用として使われ、もちろん人の力によって動かされていました。エレベーターに人力以外の動力が導入されるには、それから2000年以上の歳月が必要とされたのです。。
19世紀に入ると、水圧、続いて蒸気機関を動力とするタイプがお目見えし、エレベーターは新しい時代を迎えるかに思えました。しかし、非常に速度が遅く、そのうえロープが外れたり切れたりする落下事故が後を絶たず、安全な乗り物とは言えなかったのです。そんなエレベーターに光明が射すのは1852年。アメリカのE・G・オ−チスが、画期的なシステム「非常停止装置」を発明しました。オーチスはそれから2年後、ニューヨークのクリスタルパレス博覧会でデモンストレーションを実施。観衆の前で、自らエレベーターに乗り込み、ロープを切らせ、安全性を実証してみせたのです。1889年、オーチス・エレベーター社は世界初の電動式を開発。それは当時、建設ラッシュだった都市部の高層ビルに次々と採用され、ニューヨークの摩天楼化が進んでいきました。
エレベーターがさらに近代化への歩みを速めるきっかけとなったのは、1903年に登場したカウンターウエイト方式です。「つり合おもり」と訳されるこのシステムは、井戸のつるべと同じ原理で、エレベーターのカゴと反対側におもりを吊すことで、カゴを効率よく昇降させるもので、超高層ビルへの設置を可能とし、安全性能と速度を飛躍的に向上させました。
現在、世界で一番速いエレベーターは、2004年秋に開業した「台北国際金融センター(TAIPEI101)」にあるもので、分速1010メートルで運行します。TAIPEI101の登場までは、横浜ランドマークタワーの分速750メートルが最速でした。ちなみにこれらのエレベーターは、日本の技術で製作されています。
※JIS(日本工業規格)では、長音符号を除いて「エレベータ」と表記しますが、本文では「エレベーター」といたしました。
参考文献・サイト
『モノづくり解体新書 五の巻』日刊工業新聞社
(社)日本エレベータ協会 http://www.n-elekyo.or.jp/index.html
「ガス」の存在が初めて明らかにされたのは、17世紀の半ば。ベルギーの化学者ヨハン・ヘルモントは、石炭を燃やすと、可燃性の気体が得られることを発見。これをギリシア語の「カオス(混沌とした状態)」に例えましたが、その後、転じてガスと呼ばれるようになりました。そのガスを利用した“照明”を発明したのは、イギリス人の技師ウィリアム・マードック。1792年に成功するや、ガス灯は欧米各都市の街路に整備されていきました。そして、エネルギー源の主役は石炭からガスへ。その使い勝手の良さから照明用はもとより、暖房用・調理用へと活躍の場を広げていったのです。
さて、日本で初めてガスの明かりが灯ったのは、1872(明治5)年10月31日のこと。横浜市の大江橋から馬車道・本町通りにかけて十数基のガス灯が設置されました。日本の都市ガス事業の先鞭をつけたこの日は「ガス記念日」(1972年、日本ガス協会が制定)とされています。この頃のガス灯は、現在使われている電球の15ワットぐらいの明るさしかありませんでした。しかし、闇夜を照らすものといえば提灯ぐらいしかなかった時代のこと、人々はガス灯の出現に度肝を抜かれたといいます。ガス灯は、20世紀の初頭に全盛期を迎えたのち、1915(大正4)年頃から徐々に電灯に取って代わられ、1937(昭和12)年にはとうとう姿を消してしまいます。しかし近年、「ガス灯のある町」を謳う自治体や地区が増え、ちょっとしたブームになっています。確かに独特の青い光は、夜の町並みをロマンチックに演出してくれる効果があるようです。
ガスの青い炎は、昔も今も変わりありませんが、その原料は時代と共に変化してきました。1940年代後半までは、前述の石炭が都市ガスの原料のほとんどを占めていましたが、1950年代になると、石炭に代わって「原油」からガスをつくる技術が開発され、高度成長期を支えました。1965年以降は、公害の原因とならないガスが求められ、ナフサやLPG(液化石油ガス)の導入が進んでいきます。ちなみに現在、ガスは都市ガスと、ボンベで供給されるプロパンガスに大きく分けられますが、後者にはこのLPGが使われています。そして1970年代以降、「脱石油」の潮流を受けて登場したのが、天然ガス(LNG:液化天然ガス)です。LNGは埋蔵量も豊富で、世界の広い地域に分布し、安定して輸入できることもあり、今や都市ガスのほとんどがLNGとなりました。
実はガスには色も匂いもありません。あの不快な臭いは、万が一ガスが漏れた時のために、わざとつけているのです。もちろん「ガス漏れ警報器」の設置もお忘れなく。
参考文献・サイト
東京ガス http://www.tokyo-gas.co.jp/index.html
(株)マスオ ガス燈事業部 http://masuo.co.jp/gaslight.html
日本LPガス協会 http://www.j-lpgas.gr.jp/index.html
櫛(くし)の日…元祖発見をお読みいただいている方ならば、語呂合わせで「9月4日かな」とピンとくるかもしれませんね。美容にたずさわる人が櫛に感謝し、また人々の美容に対する意識を高めてもらおうと1978(昭和53)年に定められたそうです。
日本における櫛の歴史はたいへん古く、約5〜6000年前の縄文前期の遺跡から、赤い漆塗りの櫛が出土しています。また、3〜6世紀の古墳時代のものとして、髷(まげ)に櫛を挿している女子埴輪が見つかっています。これらの櫛は、歯が長い縦型の櫛ですが、古墳時代も後期になると、現在も使われている横型の櫛になっていきます。
女性の髪が結い上げられるようになる江戸時代までは、“おすべらかし”の時代が長く続き、櫛も髪を梳(す)くという用途以上にはあまり発展しなかったようです。『万葉集』には黄楊(つげ)櫛の歌が登場し、現在でも梳き櫛には最適とされる材質が使われていたことがわかります。
江戸時代になると、装飾の役割をもつ「飾り櫛」として使われ始めます。初期の明暦(1655-57)までは、べっ甲製などが大名の奥方といった一部の女性に愛用されるのみでしたが、元禄年間(1688-1704)にもなると大衆化が進み、一般の町女房や下級武士の妻女が、結い髪を飾るようになります。この頃の櫛は、べっ甲、象牙、金銀、真鍮、ガラス(ビードロ)、馬爪、牛爪などでつくられており、それに、螺鈿(らでん)や蒔絵(まきえ)、透かし彫りなどの細工によって、花鳥風月や人物、物語、風景などが巧みに表現されていました。櫛はどんどん華やかになっていき、とうとう明和年間(1764-72)には、黄楊の飾り櫛は野暮なものの代名詞になったといいます。また、時代毎に流行があり、たとえば宝暦(1751-63)年間には朱塗りの櫛がもてはやされましたし、文化文政期(1804-30)には櫛よりもかんざしが多く用いられました。そして、江戸も末期になると、着物の裏地に凝る趣味人のように、意匠を櫛の裏側に施すことが粋とされたようです。
文明開化の明治時代に入ると、日本髪が不衛生、不経済、不便などの理由で、西洋風の髪型が奨励されるようになり、洋髪と日本髪を折衷したような新風俗が次々と生まれました。櫛も小ぶりになったものの、職人が競って見事なものを作り上げ、「銘」を入れるなどのブランド化が進みます。また、これまでになかった材質としてセルロイドが登場。安価でおしゃれなものが大量に出回り、女性たちの人気を博しました。
昭和になって、ショートヘアやパーマネントウェーブが流行。いよいよ本格的な“断髪”が始まると、飾り櫛の需要は徐々に減っていきます。しかし、実用の機会が少なくなった現在でも、精巧な工芸品として愛でる人も少なくないようです。なるほど、美しい髪の守り神として、手元に置いておくのもすてきですね。
参考文献・サイト
大原梨恵子『黒髪の文化史』築地書館
ポーラ文化研究所コレクション〔4〕『世界の櫛』ポーラ文化研究所
夏です。洗濯機が大活躍というご家庭も多いことでしょう。8月1日は「洗濯機の日」。この日は、国土交通省が制定した“水の日”でもあり、水に縁のあるものとして定められたそうです。
着ているものが汚れたら水で洗う…洗濯という行為が、有史以前から行われていたことは想像に難くありません。紀元前1800年頃のエジプトの壁画には、石の上に置いた布を棒で叩いている姿が描かれているそうです。こうした叩き洗いは、今でも世界各地で行われていますし、足で踏んだり、石や木に打ちつけたりする洗濯方法があります。日本でも、中世の絵巻や江戸時代の浮世絵に、踏み洗いの様子を見ることができます。しかし、私たちが“昔ながらの”と思い浮かべる洗濯方法は、やはり「たらい」と「洗濯板」を使ったものでしょうか。衣類などを一枚一枚手でしごきながら、ゴシゴシと洗う方法は、冬場に限らず、主婦にとっては過酷な仕事でした。そんな重労働から解放してくれたのが、洗濯機だったのです。
まずは1850年代、洗濯槽の中に取り付けられた棒を手で回す手動式(!)の洗濯機が登場します。1860年代には、動力に“エンジン”を利用したタイプが登場し、洗濯専門店などで使われたようです。アメリカで、電気式の洗濯機が発明されるのは1907年。日本にやってくるのは、それから15年後。三井物産がアメリカ・ソール社のかくはん式洗濯機「ソアー」を輸入します。そして、いよいよ、初の国産洗濯機がお目見えするのは1930年、ソール社の技術を導入した芝浦製作所(現・東芝)が発表しました。その名も「ソーラー」は価格370円。当時、銀行員の初任給が約70円だったといいますから、かなり高価なものだったようです。
戦況下では、ぜいたく品として生産が中止になるものの、戦後間もなく再登場。しかし、市場の反応はいまひとつ。消費者の声を集めたところ、「機械で汚れが落ちるのか」といったハード面への不安のほか、「機械で洗濯するのは女らしくない」「怠け者だ」といった意見があったといいます。そうした古い先入観や意識を払拭しようと努力が続けられていた1953年、三洋電機から国内初の噴流式洗濯機が発売されます。ここにきて便利さや快適性への憧れが一気に高まり、価格も手ごろになったことも手伝い、洗濯機の普及に拍車がかかります。「白黒テレビ」「冷蔵庫」と並んで、三種の神器と呼ばれたのもこの頃です。1960年には、全世帯のほぼ半分が洗濯機を持つまでとなりました。
現在、洗濯機は大きく分けて「全自動」「2槽式」「ドラム式」の3種類。最近は、乾燥機能付きが人気のようですし、軽い汚れなら洗剤がいらないといった超音波洗濯機も話題となりました。節水、節電、消音、洗浄力、布痛み対策…進化を続ける洗濯機は、これからも主婦の味方があり続けることでしょう。
参考文献・サイト
日刊工業新聞社MOOK編集部『身近なモノの履歴書を知る事典』日刊工業新聞社
東芝電気洗濯機75年の歩み http://www.toshiba.co.jp/living/exhibition/05/history/laundry.htm
三洋電機洗濯機事業50年の歩み http://www.sanyo.co.jp/cc/sw50th/index.html
松下電器探検キッズ http://www.discovery.panasonic.co.jp/index.html
7月20日は「ファクシミリの日」。1981(昭和56)年のこの日、郵政省(当時)が東京・名古屋・大阪の三都市間でファクシミリ電送を開始しました。ファクシミリ(ファックス、ファクス、FAX)とは、通信回線を通じて、画像情報を遠隔地に電送する機器、あるいは仕組みのこと。ラテン語のfac simile(同じようにする)が語源とされています。
最近では、ファクシミリ機能付きの電話をお持ちのご家庭も多いようですが、一般の人が自由に回線をつなげるようになったのは、電電公社(現NTT)が公衆回線を開放した1972(昭和47)年から。では、ビジネス用として、いつ頃からファクシミリが使われるようになったのでしょうか。それは1928(昭和3)年、昭和天皇のご即位にあたって、新聞社が「写真」を京都・東京間でやり取りしたのが始まり。実用化の第一号です。
今も昔も、新聞社は速報性が命です。天皇の御大典を前に、各新聞社は工業技術先進国であったドイツ、フランスなどから「写真電送装置」を導入。実験を重ねますが、なかなかうまくいきません。一方、日本電気(当時)の技術部長・丹羽保次郎と若手技術者の小林正次は、NE式と名付けた写真電送装置の発明を公表していましたが、舶来品偏重の気風にあって、関心を寄せられることはありませんでした。
さて、なんとしても写真電送を成功させたい新聞社は、藁にもすがる思いで、この「国産」技術を試みました。すると、結果は大成功。鮮明な画像をやり取りすることができたのです。しかし、この時すでに10月。11月10日の即位式まで1カ月を切っており、技術者は不眠不休で調整を続けます。そして、いよいよ当日。皇居を出発した天皇陛下の写真は、即座に大阪に送られ、号外に掲載されました。その後も、京都御所、伊勢神宮でのご様子は、大阪から東京に電送され、新聞紙面を飾ったのでした。
ところで、ファクシミリは、電話の発明に先んじること33年前の1843年に、イギリスのアレクサンダー・ベインによって特許の申請がなされています。しかし、この段階では実用化に至らず、1925年を前後して、欧米で相次いで試作されました。アメリカ・ベル電話研究所方式、ドイツ・シーメンス方式、フランス・ベラン方式などは、いずれも世界の第一線で活躍する研究者が開発したものですが、「国産技術」で実績を残した“天皇即位”後は、日本における研究開発が世界の先頭を走ることとなり、現在も世界シェアの90%以上を独占しています。
参考文献・サイト
日刊工業新聞社MOOK編集部『身近なモノの履歴書を知る事典』日刊工業新聞社
自転車はいつ頃、日本にやってきたのでしょうか。正確なところはわかっていませんが、幕末から明治にかけて来日した外国人が持ち込んだとみられています。慶応元(1865)年に発行された「横浜開港見聞誌」には、三輪車(トライシクル)に乗った外国人女性の図が描かれています。明治10(1877)年には、早くも“国産”のミショー型(ボーンシェイカー)が登場。フレームは鉄製、他はほとんどが木製でしたが、日本古来の鉄砲鍛冶や大工の技術をもってすれば、舶来品を模倣することはたやすかったようです。当時、クルマといえば、人力車か大八車。人々には大きな驚きをもって迎えられたことでしょう。早速、各都市で時間貸し(レンタル)が行われ、新しもの好きの若者を中心に人気を博しましたが、運転に不慣れなためケガ人が続出。危険な乗り物として、評判はよくなかったようです。
明治の半ばまでには、現在のものとほぼ同じ構造の歯車・チェーン駆動式のセーフティ型が輸入されるようになります。しかし、イギリスやアメリカ製の自転車はひじょうに高価で、所有できたのはごく一部の富裕層のみ。時代の先端をゆく乗り物として、時に新聞ネタになるほどでした。一方で、いち早くその利便性と機動力に注目したのは逓信省。明治25(1892)年、電報配達用として自転車を採用します。続いて各デパートでも、配達用の商業車として、盛んに用いるようになります。明治29年(1896年)には日本人の手による最初の自転車競走が、上野不忍池畔で催されました。大衆娯楽の少なかった時代、自転車レースはかなり盛況だったようです。いよいよ明治末から大正にかけて、日本にも本格的な重工業時代が到来し、国産自転車の量産体制が整います。価格も安定し、一般人にも手の届くものになっていきます。昭和恐慌のさなかにあっても、需要は増え続け、「自転車は不況に強い」と評されたほどです。
さて、みなさんは自転車にも税金が課せられていた時代があったことをご存知ですか。明治4(1871)年、東京において車税を徴収し、道路修繕費に充てることが定められました。初年度となった明治5年の対象はたったの2台。その後、地方税に移されますが、資産家の持ち物から商工業者の必需品(配達用)になるにつれ、自転車税は次第に負担の大きいものになっていきます。ついに国内保有台数が470万台を超えた昭和2(1927)年、東京で廃税運動が起こり、全国へと飛び火。結局、自転車荷車税が撤廃されたのは昭和33(1958)年のことでした。
今や全国民の1.86人に1台の普及率を誇る自転車。おしゃれなデザインやカラー、高度な機能には目を見張るものがあります。環境にやさしく、手軽な交通手段として、またスポーツやレクリエーションの友として、交通ルール違反〜特に社会問題となっている路上放置など〜には十分に気をつけて、スイスイと乗りこなしたいものです。
参考文献・サイト
佐野裕二『自転車の文化史』文一総合出版
岸本 孝『走るクスリ 自転車の事典』文園社
自転車文化センター http://www.cycle-info.bpaj.or.jp/japanese/
(財)自転車産業振興協会 http://www.jbpi.or.jp/
五月晴れのさわやかな風を切ってスイスイと…サイクリングが楽しい季節になりました。毎年5月は自転車月間です。わが国の自転車保有台数は約6859万台(平成15年自転車産業振興協会『自転車統計要覧』)、ざっと1.86人に1台の普及率になります。自転車最大の利点は、人間の脚力を動力源とし、燃料がいらないところ。騒音や排気ガスとも無縁です。それでも時速15〜20q前後と、歩いたときの5倍以上の速さで移動することができます。競技選手ともなると時速60qを出しますし、世界記録はなんと100q超です。ここで、自転車の始祖について尋ねてみましょう。
時は18世紀末のフランス。なんと木馬(!)の前脚と後ろ脚にあたる部分に車輪をつけた乗り物(セレリフェールと呼ばれていた)を使った賭け事レースがおこなわれていました。木馬にまたがって懸命に両足で地面を蹴るのはオトナの騎手。こんにちでは笑い種になりそうなものですが、ここで注目すべきは、2つの車輪を前後(タテ)に並べて使ったという点。実は、この発想は人類の歴史上初めて、というべきものだったのです。その後、自転車は欧州の産業革命を背景に、まさに日進月歩の勢いで、開発・改良が進んでいきます。1817年には、ドイツのドライス男爵がセレリフェールにハンドルを付けたドライジーネを製作。これはほとんどが硬い木材でつくられていましたが、対岸のイギリスではすべて鉄製の丈夫なタイプが登場。いずれも商品化され、ホビーホース、ダンディホースなどの呼び名を与えられ、当時の新興勢力だった市民層に普及していきました。そして、イギリスの鍛冶屋カークパトリック・マクミランがペダルでこぐ方式(ただし現在のような回転式ではなく、歩くように前後に動かす)の自転車をつくったのは1839年。ここで“足蹴り時代”は終わりを告げます。
ここで、SOAP(石けん)の語源となった伝説をご紹介します。古代ローマ時代、“サポーの丘”周辺にある土を洗い物に使うと、不思議なほど汚れが落ちると言い伝えられてきました。なぜでしょう? ここでは、いけにえの羊を焼いて神に捧げる儀式がおこなわれていましたが、滴り落ちた脂が、燃やした木のアルカリ性灰と混じり合い、そこに水分が加わって、天然の石けん成分が生み出されていたのでした。サポー(SAPO)が、SOAPに転じたという訳です。
それから二十余年を経た1861年、フランスのピエール・ミショーが、前輪の軸にペダルをとりつけた新タイプを発表(現在の子供用三輪車の原理)。故障しやすく、動かすのに力が要ったマクミラン式にとってかわります。また、初めてブレーキがつけられ、安全面も向上しました。しかし、乗り心地はほめられたものではなかったようで、イギリスではボーン・シェイカー(骨ゆすり)と呼ばれました。しばらくして、前輪を大きくすればするほどスピードが出ることがわかり、前輪は巨大に(最終的には大人の背丈ほどに)、後輪はつけたしのように小さくなります。この改良型は、オーディナリィ(普通)型と呼ばれていましたが、あまり「普通」じゃないところがユニークですね。オーディナリィのデザインは優美で完成度が高く、今でもアンティーク自転車の図案として、しばしば登場します。
試行錯誤の自転車の発達史に、一応のピリオドが打たれるのは1879年。イギリスのハリー・ローソンによって、現在のものと同じ方式の歯車・チェーン駆動のセーフティ型がつくられます。それから8年後、イギリスの獣医ダンロップが自転車用空気タイヤを発明するに至り、現在のものと遜色ない自転車がお目見え。行動半径を広げてくれる安全で快適な乗り物として、普及にも拍車がかかります。
参考文献・サイト
佐野裕二『自転車の文化史』文一総合出版
岸本 孝『走るクスリ 自転車の事典』文園社
自転車文化センター http://www.cycle-info.bpaj.or.jp/japanese/
(財)自転車産業振興協会 http://www.jbpi.or.jp/
今回は4(よい)月26(ふろ)日「よい風呂の日」にちなみ、入浴の友「石けん」について、その歴史を尋ねてみましょう。
石けんの最古の記録は、紀元前2500年頃のメソポタミアまでさかのぼることができます。シュメール人が残したタブレット(粘土板)には、製造方法がくさび形文字によって刻まれており、石けんは油とポタシュ(炭酸カリウム)でつくる、ポタシュはタマリンド、ナツメヤシ、マツカサ、カシワ、ブナの灰からつくると記されています。また、皮膚病には硫黄石けんを用いる事、と書かれるなど、そのほとんどは薬用であったと考えられています。一方、洋の東西を問わず、古くから用いられてきた洗浄料といえば、灰汁(アク)。植物を燃やした灰を水に溶かして得られる上澄み液には、炭酸カリウムが含まれ、そのアルカリ分が油を溶かすのです。
ここで、SOAP(石けん)の語源となった伝説をご紹介します。古代ローマ時代、“サポーの丘”周辺にある土を洗い物に使うと、不思議なほど汚れが落ちると言い伝えられてきました。なぜでしょう? ここでは、いけにえの羊を焼いて神に捧げる儀式がおこなわれていましたが、滴り落ちた脂が、燃やした木のアルカリ性灰と混じり合い、そこに水分が加わって、天然の石けん成分が生み出されていたのでした。サポー(SAPO)が、SOAPに転じたという訳です。
さて、こんにち石けんといえば、よい香りがするものの代名詞ですが、8世紀のヨーロッパで石けんづくりが盛んになった頃は、原料が動物油脂由来のため不快な臭いがするものでした。試行錯誤の末、オリーブオイルと海藻灰ソーダを使った匂わない石けんが開発され、12世紀以降、イタリア・スペインの地中海沿岸の各都市で工業的につくられるようになります。ちなみに日本語の「シャボン」は、石けん製造で隆盛を誇ったイタリアの都市サボナを語源としています。
そのシャボンが日本に初めてもたらされたのは、1543(天文12)年、種子島にポルトガル船が漂着した際といわれます。当時は貴重な医薬品だったシャボンの最も古い記録は、石田三成(1560−1600)が、博多貿易商の神谷宗旦に宛てた礼状で、「しゃぼん」の文字が見られます。その後明治に入り、浴用と洗濯用の需要が拡大するに伴い、政府主導により国内の石けん生産が始まります。明治10年には、全国で13の工場を数えるまでとなりましたが、品質が悪く、とりわけ身体に使用する化粧石けんは舶来品に太刀打ちできなかったのです。そこで、輸入ブランドに対抗すべく、良質の銘柄石けんが量産され始めました。1890(明治23)年に発売された「花王石鹸」は、今でもお馴染みです。この頃、洗濯用は「洗い石けん」、化粧石けんが「顔石けん」と呼ばれていましたが、どちらも一般家庭にとっては高価であり、昔ながら生活の知恵〜洗顔料にはぬか袋や洗い粉(小豆、大豆などを臼でひいたもの)、洗濯には灰汁などを使う〜が活かされていました。石けんが広く普及するのは本格的な工業化を迎えた明治30年代後半、大正の声を聞いてからでした。
参考文献・サイト
江夏 弘『お風呂考現学』TOTO出版
左巻健男監修『石けん・洗剤100の知識』東京書籍
日本石鹸洗剤工業会 http://www.jsda.org/t00top/index.html
花王製品の相談室 http://www.kao.co.jp/soudan/answer/body/soap/ans_11.html
針には動物の骨を、糸に植物の繊維などを使って、獣の皮などを縫い合わせる…石器時代からおこなわれてきた「縫う」行為。長らく手作業によっていた縫製の手段に、機械が取って代わるのは産業革命以降。1790年、イギリスのトーマス・セントが小さな穴を開けた布の上に糸を乗せ、それを下に押し込んで鎖縫いをする皮革用ミシンの製作に成功、特許を取得します。社団法人日本縫製機械工業会では、ミシンの発明200年を記念して、1991(平成3)年から3月4日を「ミシンの日」(3と4の語呂合わせであることは、お気付きですね)とし、ホームソーイングの普及促進に取り組んでいます。ちなみにミシンは、sewing machine(裁縫機械)の「マシン」が転訛したものといわれています。前述のセントによるミシンは、量産されることはありませんでしたが、1834年にはアメリカのウォルター・ハントが2本の糸を使う錠縫い式のミシンを開発し、これにより自動縫製の原理が確立されました。1850年代までには、現在のものとほぼ同じ構造のミシンが登場、アイザック・M・シンガー(シンガーミシンの創業者)によって改良が重ねられ、いよいよミシンは普及段階に入ります。
日本へは、江戸後期に来航したペリー提督が、13代将軍徳川家定に献上したとも、1860(万延元)年、咸臨丸(かんりんまる、日米修好通商条約の批准書を交換するため訪米)がアメリカから持ち帰ったともいわれています。そして、明治の声とともに、輸入は本格化。洋装化の歩みに合わせて、普及台数も増えていきます。当初、大きなシェアを占めていたのはドイツ製のミシン。日本に市場を求めた、後発のシンガー社は、徹底した他社製品の下取りや、「月賦購入制度」つまり分割払いを導入し、どんどん販売実績を増やしていきます。
一方、パイン裁縫機械製作所(現・蛇の目ミシン工業)を興す小瀬與作は、“一人勝ち”のシンガー社に対抗すべく、純国産ミシンの開発製造に着手。同じ志を持つ技術者と共同し、ついに1929(昭和4)年、国内初の標準型ミシンを完成させます。しかし、高価なミシンをシンガー社のように“月賦制”で売ろうとするも、資金力がありません。そこで代わりに取り入れたのが月賦の頭金を「積み立ててもらう」方法。これにより、頭金が用意できなかった人たちも、憧れのミシンを手に入れられるようになったのです。
手回しミシンに始まったミシンの歴史。1930年代には両手が自由に使える足踏みミシンが主流となり、1950年代半ばには電動ミシンが登場、電子ミシン、そしてコンピューターミシンは日本が生みの親となりました。コンピューターミシンは、パソコンを通じて、図案をメモリーカードに取り込み、ミシン本体にセットするだけで、デザインした通りの縫い方や刺しゅうを完成させるというすぐれもの。ミシンは、縫う役割を超えて、自由な発想を手軽に表現できる機械へと進化を遂げたようです。
参考文献・サイト
日刊工業新聞社MOOK編集部編 『身近なモノの履歴書を知る事典』日刊工業新聞社
『モノづくり解体新書 番外編』日刊工業新聞社
『続・モノづくり解体新書 三の巻』日刊工業新聞社
社団法人 日本縫製機械工業会 http://www.jasma.or.jp/
シンガーミシン http://www.singerhappy.co.jp/sewing/index.html
蛇の目ミシン工業株式会社 http://www.janome.co.jp/
2月1日は「テレビ放送記念日」。1953(昭和28)年のこの日、NHK東京放送局が、日本初となるテレビの本放送を開始しました。記念すべき第一声は「JOAK−TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」。午後2時、東京・内幸町の東京放送会館から発信されました。当時の受信契約数は866台、受信料は月額200円。ちなみに当時のテレビ受像機、いわゆるテレビの値段は約18万円、サラリーマンの初任給がおおよそ8000円の時代ですから、多くの人にとっては高嶺の花。駅前や電器店の「街頭テレビ」につめかけては、野球やプロレスに熱狂する姿がみられました。その後の“神武景気”の好況感の中で、テレビは冷蔵庫・洗濯機とならび「三種の神器」に挙げられ、7万円台の普及型も登場。テレビを囲んで一家団欒…が、日常の風景となっていきます。
さて、ここでテレビの歩みについて、駆け足で振り返ってみましょう。20世紀に入ると、世界では多くの科学者が開発を競い合っていましたが、テレビ放送(送受信ともに機械式)の実験に初めて成功したのは、イギリス人技師ジョン・L・ベアード(1888-1946)。1925(大正14)年のことです。翌年、日本では“テレビの父”浜松高等工業学校の高柳健次郎(1899-1990)が、送像側にニポー円盤(機械式)、受像側には世界で初めてブラウン管(電子式)を用い、『イ』の字を映し出しました。このときの走査線の数は40本。画像の精度を上げる、つまり走査線の数を増やすためには、送受信ともに電子式でおこなうテレビジョン・システムが必要でした。欧米諸国で実験放送が盛んに試みられる中、全電子式テレビがお目見えするのは1927(昭和2)年、アメリカのファイロ・T・ファンズワーズによる快挙でした。そして1933(昭和8)年、アメリカのウラジミール・K・ツヴォルキン(1889-1982年)がアイコノスコープと呼ばれる電子式送像機を発明するに至り、テレビ放送は、その実現に向けて大きな一歩を踏み出すこととなります。1935(昭和10)年、ドイツで世界初の定期試験放送が開始され、翌年にはイギリスBBCが一般向けに本格的な放送をおこなっています。
わが国ではテレビ放送のスタートから7年後にはカラー放送が開始され、さらに従来のVHFに加えて、UHFによる中継用電波が割り当てられ、テレビ電波は全国の世帯93%をカバーするまでとなりました。そして、現在の方式である地上アナログテレビジョン放送は2011年(平成23年)7月24日に停波される予定となっており、いよいよ地上デジタルテレビジョン放送(地デジ)時代へと突入します。
参考文献・サイト
日本放送出版協会編 『〔放送文化〕誌にみる昭和放送史』日本放送出版協会
荒俣宏著『TV博物誌』小学館
“空気・水・安全”、これは昔から日本人が考える「無料(タダ)モノ」だそうです。しかし、近年では少し様変わりしてきており、「日常生活のなかであまりコストを意識しないもの」として、「空気」「水」に次いで「太陽エネルギー(光・熱)」を挙げる人が増えています。省エネを合言葉に、自然エネルギー活用の気運を感じるとともに、安全といわれ続けてきた日本の治安の悪化について考えさせられる結果となっています。ちなみに8位には「ポケットティッシュ」がランクイン。これは繁華街などで配られる広告入りのポケットティッシュのことです。(データはダイキン工業『第2回現代人の空気感調査』2002年12月)。
なくてはならない空気。いくらタダとはいえ、その“質”も気になるところ。最も空気を意識する季節は? の問いに多くの人が「花粉のシーズン」と答えています(同『第1回現代人の空気感調査』2002年6月)。(社)日本電機工業会では、空気清浄機の需要が一気に高まる春先の花粉飛散シーズンに先駆けて、正しい理解を深めてもらうことを目的に、1月19日(いいくうき)を「空気清浄機の日」と定めました。この記念日は2006年からのスタートです。
空気清浄機が日本に初めてお目見えしたのは、高度経済成長真っ只中の1962年。扇風機や換気扇の専門メーカー・松下精工は、ファンに3層構造のフィルターを取り付けた、わが国初の空気清浄機を売り出します。都市部の大気汚染が社会問題となるなど、空気清浄機への潜在ニーズは高いと見られていましたが、実際には鳴かず飛ばず。しかし1980年代に入って、アレルギー性疾患などが増えるにつれ、空気清浄機にこれまでにない注目と関心が集まります。そして折よく廉価品が登場したことも手伝い、普及に弾みがつきます。1986年には同社から煙センサー搭載の製品が発売され、使い勝手がアップ。最近では、空気清浄機の心臓部ともいえる集じんフィルターの性能がどんどん進化し、0.01ミクロン(1ミクロンは千分の1ミリ)未満の超微粒子を捕集できるタイプが登場しています。今や都市部を中心に、4軒に1軒という割合で使用されているといわれる空気清浄機。ハウスダスト(チリ・ホコリ)、タバコの煙、アレルギーの誘因となるアレルゲン(花粉やダニのフン・死骸など)、カビ胞子、雑菌、ウィルス、車の排気ガス、ホルムアルデヒド、生活臭などを一網打尽。ただし、一酸化炭素は除去できないことを付け加えておきましょう。
参考文献・サイト
日刊工業新聞社MOOK編集部編 『身近なモノの履歴書を知る事典』日刊工業新聞社
『続・モノづくり解体新書 二の巻』日刊工業新聞社
(社)日本電機工業会 http://www.jema-net.or.jp/
ダイキン工業(株) http://www.daikin.co.jp/
12月13日は「ビタミンの日」。1910(明治43)年のこの日、鈴木梅太郎博士が、米ぬかから抽出した、脚気(かっけ)を予防する成分「オリザニン」を東京化学会で発表したことにちなみ、2000(平成12)年「ビタミンの日」制定委員会によって定められました。博士の発表から1年後には、ポーランドのカシミール・フンクが同じ成分の抽出に成功、「生命(vital)に必要な」と「窒素を含むアミン化合物「(amine)」を合わせて、「vitamin」と名付けました。その後、いろいろなビタミンが発見され、中にはアミンの性質を持っていないものも含まれますが、名前はそのまま使われています。
ビタミンという言葉は普段からよく見聞きしますし、実際に医薬品やサプリメント(健康補助食品)として摂り入れている方もいらっしゃることでしょう。ビタミンとは「極めて少ない量で、身体の代謝に重要に働きをしているにもかかわらず、体内で作り出すことができない化合物」と定義されます。体内では作れないので、食物からバランスよく摂取しなければならない、というわけです。人に必要なビタミンは13種類あり、水に溶けやすい「水溶性」と水に溶けない「脂溶性」とに大別されます。さて、いくつご存知ですか?
●水溶性(9種)・・・ビタミンC、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンB6、ビタミンB12、葉酸、ナイアシン(ニコチン酸)、パントテン酸、ビオチン
●脂溶性(4種)・・・ビタミンA、ビタミンD、ビタミンE、ビタミンK
これらのビタミンが長期にわたり不足すると、それぞれに特有の欠乏症(たとえば、ビタミンB1は脚気、ビタミンCは壊血病、ビタミンAは夜盲症、ビタミンDはくる病)があらわれることが知られています。食生活が豊かになった今日、欠乏症の心配はまったくと言っていいほどなくなりましたが、極端な偏食・ダイエットによる予備軍、潜在的欠乏症が心配されています。そうした不足を補う目的で、薬やサプリメントに頼ることも多いようですが、摂りすぎによる害〜ビタミン過剰症に関しても、心に留めておいたほうがよいかもしれません。厚生労働省では13種のすべてのビタミンについて推奨量を、さらに、ビタミンB6、葉酸、ナイアシン、ビタミンA・E・Dについては「上限量」を定めています。上限量を超えて摂取し続けると、健康障害のリスクが高まるとされています。ビタミンを通常の食事で摂り入れている程度では、過剰症の心配はありません。しかし、医薬品やサプリメント等を利用する際は、定められた用法・用量を守るとともに、いくつかを組み合わせて摂取している場合は、ラベルに明記してある含有量を計算してみるとよいでしょう。推奨量や上限量は、「日本人の食事摂取基準(2005年版)」に詳しく記されています。
参考文献・サイト
NPO日本サプリメント協会著 『サプリメント健康バイブル』小学館
渡辺忠雄・榎本則行編『最新食品学−総論・各論−』講談社
「ビタミンの日」委員会 http://www.gak.co.jp/vitaminh/
日本ビタミン学会・(社)ビタミン協会
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/vsojkn/gen-vit01.htm
近代医学の偉大な発見のひとつといえば、「X線」が挙げられるでしょう。エックス線と聞いてピンとこなくても「レントゲン」といえば、ほとんどの人が経験済みなのではないでしょうか。メスを入れることなく、人体内部の撮影ならびに観察を可能としたX線は、1895年11月8日、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(1845〜1923)によって発見されました。“レントゲン”は発見者の名前にちなんでいるのですね。社団法人日本放射線技師会では、毎年11月2日から8日までを「レントゲン週間」としています。
さて、レントゲンがX線を見つけたのは、まったくの“偶然”からでした。クルックス管(真空放電の実験を行う、内部に陰極をもつ真空ガラス管)を使って陰極線の実験をしていた際、管を厚い紙でおおい、研究室を真っ暗にしているにもかかわらず、通電すると近くに置いてあったスクリーン(シアン化白金バリウムを塗ったもの)が、緑がかった黄色に明るく光っているのを目にします。驚いたレントゲンは、クルックス管とのあいだに1組のトランプや2インチ(約5p)の厚さの本を置いてみましたが、それらに影響されることなくスクリーンは蛍光を発しました。当初、実験に失敗しているか、自分が幻覚を見ているのではないかと心配したというレントゲンですが、さまざまな実験を通じ、光線の性質を明らかにしていくなかで、歴史的な大発見であることを確信し、“正体不明”を意味するX線と名付けました。とりわけ注目したのは、物を透過する性質で、たとえば皮膚や筋肉は通過し、骨や金属はくっきりと写し出されました。かくも神秘的な現象を、初めて分かちあった相手は妻のベルタ。左手を6分かけてX線写真として撮影し、骨と指輪を写すことに成功します。聡明なベルタの驚き様に、レントゲンは大喜びだったといいます。この功績によりレントゲンは、1901年第1回ノーベル物理学賞を受賞しますが、科学の発展は万人に寄与すべきであると考え、特許などによって個人的に経済的利益を得ることは一切ありませんでした。そしてX線の正体は発見から17年の間、謎のままでしたが、ただちに医学の分野で応用され、今なお医療の現場ではなくてはならない診断方法として利用されています。
X線の発見は、当時の物理学界に大きな反響を呼び起こし、翌1896年にはフランスの物理学者ベクレルが、ウラン鉱石からX線に似た光線が出ていることを見つけます。1898年にはポーランド出身の科学者キュリー夫人が、フランスで夫ピエールとともにウラン鉱石からラジウムとポロニウムを発見、放射能と放射線の存在を確認し、名付けています。さらに1899年、イギリスの物理学者ラザフォードは、放射線にはアルファ線、ベータ線、ガンマ線の3種があること、そして原子の中心には原子核があることを突き止めています。こうしてレントゲンのX線発見に始まり、多くの研究が重ねられていくなかで、放射線は医療、工業、エネルギー、農業など、さまざまな分野で利活用されるようになりました。
参考文献・サイト
マイヤー・フリードマン/ジェラルド・W・フリードランド、鈴木邑訳 『医学の10大発見〜その歴史の真実〜』ニュートンプレス
(社)日本放射線技師協会 http://www.jart.jp/
私たちは“痛み”によって身体の異状を知ります。病気を治すための治療や手術もまた、多くは痛みを伴うものです。苦痛からの解放と克服は、今も昔も医学が掲げる最大目標です。
薬を使って人為的・一時的に知覚を失わせる医療技術に「麻酔」があります。世界で初めて全身麻酔下における手術を成功させたのは、実はひとりの日本人。1804年10月13日、華岡青洲(はなおかせいしゅう、1760−1835)は自作の麻酔薬を使って、乳がんの摘出手術を行いました。日本麻酔科学会ではこの日を「麻酔の日」と定めています。
紀州(和歌山県)で医師の子として生まれた青洲は、長ずるに及んで、京都でオランダ流の外科術を学びます。そこでは麻酔も施されず、苦しむ患者の姿がありました。心を痛めていた青洲は「中国の三国時代、『曼陀羅華(まんだらげ)』という薬草を使って、病人を眠らせて治療していた華陀という名医がいた」という話を耳にし、それからの人生を麻酔薬開発のために捧げると決心するのです。懸命な青洲のために、自ら人体実験を申し出たのが、嫁姑の確執を繰り広げていた母・於継と妻・加恵(この辺りは有吉佐和子の小説『華岡青洲の妻』に詳しい)。薬の副作用による加恵の失明という不幸に見舞われながらも、20余年を費やし、曼陀羅華(朝鮮あさがお)とさまざまな薬草を組み合わせた秘薬・通仙散(麻沸散)を完成させます。この麻酔薬を使って、前述の乳がん手術の他、瘤、舌がん、痔疾、結石などの難手術を次々と成功させ、青洲のもとには全国から多くの患者が訪れました。当時、残念ながらこの業績が世界に広がることはありませんでしたが、1954年、国際外科学会において青洲の偉業が発表され、シカゴにある付属の栄誉会館で「世界の外科医療に貢献した人物」として称えられています。
人類は紀元前から、経験的に薬草・アルコールなどを麻酔や鎮痛薬として活用していきましたが、麻酔法に科学の目が注がれるのはルネッサンス期。19世紀以降は、次々と新しい成分や方法が開発されました。近代麻酔法の父といわれているのが、アメリカの歯科医師モートンで、1846年エーテル麻酔を用いた公開手術に成功しました。1853年には世界初の麻酔専門医スノーが、イギリスのビクトリア女王が第4子のレオポルド王子を出産する際に、クロロホルムによる無痛分娩を成功させたことで、麻酔は急速に普及していきます。
麻酔は、体全体に行われる全身麻酔と、下半身など体の一部に施される局所麻酔とに大きく分けられます。また、麻酔方法として、麻酔ガスを呼吸とともに吸入させる、静脈麻酔剤を血管から注入する、直腸内に麻酔剤を入れる(主に小児)、脊髄や神経幹、皮膚などに麻酔剤を注射する、口腔などの粘膜面に塗る…などがあります。一番適切な麻酔薬、方法を選び、手術中だけではなく、術後の疼痛管理を行うのは麻酔科医。何よりもつらい痛みをコントロールしてくれる心強いお医者さまです。
参考文献・サイト
富士川游、小川鼎三校注『日本医学史綱要2』平凡社
酒井シヅ『絵で読む江戸の病と養生』講談社
(社)日本麻酔科学会 http://www.anesth.or.jp/
和歌山県情報館 http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/ren/web/ren11/rekishi.html
9月9日は重陽(ちょうよう)の節句。菊の節句ともいわれ、菊花を浮かべたお酒を飲んだり、「着せ綿(わた)」といって菊の花に綿をかぶせて香りを移し、それで顔を拭いて長命を願ったりする習いがあります。今も昔も人々の大きな願い〜長寿と健康をおびやかすものに、急な怪我や病気があります。生命の緊急時に、俄然心強い存在となってくれるのが、救急業務・救急医療です。9月9日は「救急の日」。9(きゅう)9(きゅう)の語呂合わせも覚えやすいこの日は、救急業務ならびに救急医療に対する理解と認識を深めてもらうとともに、救急医療関係者の意識の高揚を図ることを目的に、昭和57(1982)年、消防庁によって定められました。
患者を迅速に搬送し、適切な看護を施す救急活動は、今日、どの国でも日常的に取り組まれていますが、その起源は、戦争が組織的におこなわれ、傷病兵の救出が軍事活動の一環としてとらえられるようになったギリシャ・ローマ時代にさかのぼるといわれています。しかし、“救急”という概念が確立されるのは、18世紀末。戦場での緊急治療活動を定めたナポレオン指揮下のフランス陸軍においてです。1860年代のアメリカ南北戦争時は、北軍、南軍ともに救急活動に力を注ぎましたが、衛生面などの問題があり、思うような成果をあげることができませんでした。20世紀の初めには、いよいよ救急自動車が登場。当時は、病院や消防、警察のほか、タクシー会社、病院設備のレンタル会社、果ては葬儀屋(!)が兼業している場合が多く、いずれも医師やそれに準ずる資格を持つ専門家が同乗することはなく、速やかに最寄りの病院に搬送することが救急活動のすべでてした。近代的な救急技術が開発されていくのは1960年代以降。「救急医療」の発展と「救急制度」の展開が相互に影響を与えながら、急速に発展していきます。
日本における救急業務は、1934(昭和9)年、横浜市と名古屋市において始められました。市町村ごとにバラバラだった救急車の形や装備が統一されるのは、1963(昭和38)年。消防法の改正により、救急業務は消防機関の業務として位置づけられることとなります。その後、先進諸外国と比べて低い救命率などが問題となり、1992(平成4)年、救命救急士制度が導入されました。それまで救急車の任務は患者を病院に運ぶことであり、救急隊員は止血や酸素吸入といった応急処置しかできませんでした。しかし、救急救命士は医師の指示を得ながら、より高度な救命行為をおこなうことができます。
2004(平成16)年度の消防庁「救急・救助の概要」によれば、全国における救急出動件数は約503万件で、なんと約6.3秒に1回、救急車が出場していることになります。国民の27人に1人が救急車で搬送されていることになりますが、なかには風邪やかすり傷などでも「タクシー代わりに」一一九番通報するケースも多く、緊急性の低い出動については有料化する等の議論がなされています。
参考文献・サイト
総務省消防庁 http://www.fdma.go.jp/index.html
夏休み。宿題そっちのけで遊んでばかりでは、そのうち“お灸を据えられる”ことになりかねませんよ。8月9日(8=はり、9=きゅう)は「鍼灸の日」。インドの伝統医学アーユルヴェーダと並び、世界で最も古い起源を持つといわれる「中国医学」は、鍼・灸をはじめとして、あんま、気功、漢方薬、薬膳、太極拳、呼吸訓練法などがあり、その多くは私たち日本人にとってもおなじみです。
少なくとも3000年の歴史をもつといわれる「鍼灸」は、黄河流域を中心とした北方圏にルーツをもつといわれます。土地がやせて、植物の種類も少なかった当域では、煎じ薬などに頼れなかったため、鍼灸やあんまなどの物理療法が生まれました。一方、さまざまな種類の植物に恵まれた揚子江流域および南方の地域では、薬草を見つけ、それらを煎じて飲む漢方薬が発達したとされています。口伝えによって連綿と継がれてきた鍼灸の経験則や理論体系は、戦国時代(紀元前403−221年)からまとめられ始め、秦から漢代にかけて「黄帝内経(素問・霊枢)」に編まれ、これが中国医学の原典となっています。さて、「病気を治す」という同じ目的に立つ西洋医学と中国医学ですが、その基本的な考え方には大きな違いがあります。病原菌やがん細胞などの病原物質によって引き起こされた(とする)病に対して、手術や薬によってアプローチしていく西洋医学に対し、中国医学では身体はひとつの小宇宙であり、心身のバランスに乱れがあったときに病気が起こるとしています。鍼灸や漢方薬・手技は、身体にもともと備わっている自然治癒力を高めるためのものであり、それらを施すことで患者自身が病を癒していくというわけです。中国医学が病気ではなく“病人を治す”といわれるゆえんです。
日本では、允恭天皇(いんぎょう:412−453年)のころ、新羅(しらぎ:古代の朝鮮半島南部の国)からきた鍼灸師に脚の治療を受けた、とあるのが鍼灸に関するもっとも古い記録です。その後、仏教の伝来とほぼ時を同じくして、本格的に中国から伝えられ、701(大宝元)年に制定された大宝律令には、鍼博士が鍼生(弟子)を教育することなどが記載されていて、鍼灸は国の医療として取り入れられていきました。鎌倉・室町時代になると、僧侶のなかに鍼灸医術を得意とする「僧医」が多くあらわれ、仏教とともに鍼灸を普及させていきます。とりわけ灸は、手軽な民間療法としての地位を確立していきます。安土桃山時代には京都の御薗意斎(みそのいさい)により、それまでの鉄鍼のほかに金や銀製の鍼がつくられ、江戸時代には杉山和一が、現在も使われている「管鍼法(細い筒に針を入れて皮膚に打ち込む方法)」を考案するなど、日本人の体質に合わせた繊細な鍼灸術へと進化してきました。
長らく東洋のものとされた鍼灸ですが、アメリカ等のマスコミで大々的に効果が紹介されるにつれて、注目を集めることとなり、科学的研究・評価が注がれてきました。ついにはWHO(世界保健機構)からも適応疾患が認められるなど、医師の診察によらない医療=代替医療として、世界各国で広く取り入れられるようになっています。
参考文献・サイト
社団法人日本鍼灸師会 http://www.harikyu.or.jp/
林 義人『代替医療革命』廣済堂出版
蒲原聖可『代替医療〜効果と利用法』中公新書
本多勝一『はるかなる東洋医学へ』朝日新聞社
7月18日は「光化学スモッグ」の日。1970(昭和45)年のこの日、日本では初めての光化学スモッグが発生。東京都杉並区で体育の授業を受けていた高校生が突然、目の痛みや頭痛を訴えて倒れ、40数名が病院に運ばれるなど、都内では約5200人、埼玉県では400人余りの被害者を出しました。
1940年代にアメリカ・ロサンゼルスで、その発生が報告され、当初「ロサンゼルス型スモッグ」とよばれた光化学スモッグ。これは、自動車や工場などから排出される窒素化合物(NOx)や炭化水素が、強い紫外線を受けて光化学反応を起こし、オゾン、PAN(パーオキシアセチルナイトレート)、アルデヒドなどの「オキシダント(過酸化物の総称)」を含むスモッグとなった状態のことをいいます。「スモッグ」とは煙(スモーク)と霧(フォグ)の合成語で、もともとは石炭が一度に大量に消費されることによって生じる濃い煙のことを指していましたが、光化学スモッグも実際に白くもやがかかったようになります。オキシダントは強い酸化力を持ち、高濃度では眼・のどへの刺激や呼吸困難を招き、植物の生育にも影響を与えます。1973(昭和48)年、当時の環境庁ではオキシダント濃度の環境基準値などを定め、2倍の濃度が続けば注意報を、4倍では警報を発令することとしました。深刻な社会問題となっていた光化学スモッグが改善傾向をみせるのは、自動車エンジンの改良や工場に対する大気汚染物質の排出規制が進んだ1970年代後半以降。1980年代ともなれば警報が発令されることもなくなり、私たちは光化学スモッグを克服したかにみえました。
しかし近年、忘れ去られていた公害・光化学スモッグが都市部で再発生しています。2002年7月には全国で18年ぶりとなる光化学スモッグ警報が千葉県で発令されました。注意報が出される回数も年を追うごとに増える傾向にあります。そして1970年代と大きく様相が異なるのは、原因物質が減少しているにもかかわらず、発生しているという点です。その要因として「紫外線の増加」「ヒートアイランドの影響」「(原因物質の)海外からの飛来」などの仮説が立てられていますが、さらなる研究が待たれています。
●光化学スモッグから身を守る! 注意報などが発令されたら・・・
光化学スモッグは、主に4月から10月にかけて(特に太平洋高気圧に覆われる7〜8月)、日差し・気温ともに高く、風が弱い、などの気象条件がそろったときに発生しやすくなります。光化学スモッグ注意報が発令されたときは、@なるべく屋外に出ないようにする(気管支ぜん息の既往症のある人、乳幼児、高齢者などは、特に注意が必要)、A屋内においても窓やカーテンを閉める、B眼がチカチカする、涙が出る、のどが痛いなどの症状が出たら、最寄りの保健所に連絡する。洗眼やうがいを試みても良くならない場合は医師の診察を受ける、など各自が十分に注意する必要があります。また、環境省では、光化学スモッグの注意報・警報の発令状況と大気汚染測定結果(時間値)をチェックできるサイト(携帯版)「そらまめ君(大気汚染物質広域監視システム)http://sora.nies.go.jp/」を開設しています。
参考文献・サイト
20世紀の日本環境史/北海道大学大学院 教授 石井邦宣監修
社団法人産業環境管理協会
酸性雨と大気汚染/片岡正光・竹内浩士 三共出版
環境省大気汚染物質広域監視システム
http://w-soramame.nies.go.jp/
6月11日は雑節のひとつ「入梅(にゅうばい)」。立春から数えて127日目にあたるこの日から約30日間が「梅雨」と呼ばれます。もちろんこれは暦の上でのこと。南北に長い日本では地方によって1カ月以上のずれがある上、北日本においては梅雨の現象は顕著ではありません。気象庁から出される「梅雨入り」「梅雨明け」が季節の話題となりますが、訂正したり、取り消されたりすることもあり、いかに科学技術が進歩したとはいえ、気まぐれなお天気が相手では苦労も多いようです。梅雨の語源は「梅の実が熟する頃」からきているようですが、黴(かび)が生じやすいことから「黴雨(ばいう)」の文字も当てられます。
高温多湿でカビが生えやすい時期に心配されるのが「食中毒」です。食中毒は@細菌性(サルモネラ属菌、腸炎ビブリオ、カンピロバクター、ブドウ球菌、O-157など)、Aウイルス性(ノロウイルス)、B原虫類、C自然毒(ふぐ、毒キノコ、有毒植物など)、D化学性(重金属、農薬など)に分けられます。生活環境における衛生状態が格段に向上した昨今ですが、食中毒の患者数は過去45年間ほとんど変化なく、毎年2〜3万人を数えます。一方、食中毒の発生原因は、食環境の変遷とともに様変わりしていく傾向にあります。魚介類が食卓の中心だった時代は、海産性の生鮮品と密接にかかわる腸炎ビブリオが多く見受けられました。その後、食生活の欧米化に伴い、サルモネラ属菌やウェルシュ菌、カンピロバクター菌など、食肉を由来とする菌が増えています。また近年では、ノロウイルスによる冬期の食中毒が増えている点も懸念されます。
食中毒の発生場所は、全体の約20%を家庭が占めるという統計があります。これは飲食店に次ぐ数字。以下に、家庭でできる食中毒予防策をご紹介します。まず購入にあたっては、新鮮なものを選び、表示がある場合は消費期限なども確認します。冷蔵や冷凍などの温度管理が必要な食品を購入したときは、寄り道などせずに、なるべく早く持ち帰り、すぐに冷蔵庫に入れるようにします。家庭での保存にあたって気をつけたいのが、冷蔵庫や冷凍庫の詰め過ぎ。容量の7割ぐらいを目安としましょう。庫内の温度上昇を防ぐためにも、ドアの開閉はすみやかに。しかし、冷蔵庫の過信は禁物です。食材は早めに使いきるようにします。そして、調理前にはもちろん、生の肉・魚・卵を取り扱ったあとも、手指をせっけんでしっかりと洗います。包丁やまな板などの調理器具も、食材が変わるごとに(特に生の肉・魚は注意が必要)、こまめに洗浄します。冷凍食品などは短時間で解凍し、一度で使い切りましょう。使わないからといって冷凍・解凍を繰り返すと食中毒菌が増える場合があります。調理するときは、食材の中心部まで火を通し、75℃以上で1分以上加熱します。できあがった料理はすぐに食卓へ。作り置きをする場合は冷蔵または冷凍し、食べるときは十分に加熱します。食中毒予防の基本は「(菌やウイルスを)付けない・増やさない・やっつける!」。しっかり守って、夏を乗り切りましょう。
参考文献・サイト
厚生労働省 食中毒・食品監視関連情報
http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/
食品衛生の窓
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/shokuhin/
財団法人ちば県民保健予防財団
http://www.kenko-chiba.or.jp/
社団法人日本食品衛生協会
http://www.n-shokuei.jp/
今回は5月14日の「種痘記念日」にちなみ、天然痘のお話です。怖がらずにお付き合いください。古来、人類はさまざまな伝染病に苦しんできましたが、天然痘もそのひとつ。インド発祥とされるこの伝染病は、天然痘ウイルスによって発病。高熱に引き続いて、化膿性の発疹ができ、高い確率で死に至ります。また、運良く治ったとしても、厄介なあばた(痘痕)を残す陰惨な病だったのです。古くはエジプトのラムセス5世(B.C.1157没)のミイラの顔面にも、天然痘の病変と思われる痕跡がみられます。ヨーロッパへは十字軍遠征(12世紀頃)の折に伝わり、16世紀以降は繰り返し大流行が起こりました。しかし、麻疹(はしか)などと同様、一度感染すると生涯を通じてかからないことが経験的に知られており、天然痘患者の膿疱を未感染者に接種する人痘種痘法が、危険性を省みずおこなわれてきました。そんななか、イギリスの一開業医だったエドワード・ジェンナー(1749-1823)は、牛の世話をしている女性から「牛痘(ウシがかかる天然痘、人に感染しても軽い症状ですむ)を病んだことのある人は天然痘にかからない」と聞きます。ジェンナーは、牛痘の感染が天然痘に対する抵抗力をつくったのではないかと考えます。その仮説を証明するために研究や実験を重ね、1796年5月14日、8歳の少年に牛痘を接種(種痘)し、その後、天然痘を植えても感染しないことを確認しました。これがワクチンによる「予防接種」の第一号であり、ジェンナーは人為的に抗原となる病原体を植えつけることにより、より恐ろしい病原体から身を守る免疫をつくることに成功したのです。当初、ジェンナーの種痘は賛否両論の嵐のなかで迎えられました。しかし、成功例が増えていくにつれて、その効果は広く認められるようになっていき、種痘は予防法として普及していきます。
日本における天然痘は、ヨーロッパよりも格段に早く、6世紀の仏教の伝来とともに大陸から伝わってきました。735(天平7)年から1838(天保9)年までの1100年余りの間に、58回の大流行があったといわれ、時に権力者の衰退を招くほどでした。牛痘種痘法は江戸時代後期に伝わり、明治以降は政府主導のもとに実施されますが、明治から大正にかけて少なくとも4回の流行を経験しています。それでも、死者の数は年を経るごとに減っていき、1955(昭和30)年、1人の患者を最後に、日本での天然痘は撲滅されました。世界的にも、1960年代にWHO(世界保健機関)による対策が強化され、ついには1980(昭和55)年、WHO総会において「天然痘根絶」が高らかに宣言されました。さて、過去のものと思われていた天然痘の脅威ですが、2001(平成13)年9月に起きたアメリカ同時多発テロと、それに続く炭そ菌テロの影響により、生物兵器への悪用が懸念され、各国でワクチンの備蓄が進められています。一度は人間の英知と努力によって克服した伝染病、再び人間の手によってよみがえさせられることだけは、決してあってはならないことです。
参考文献・サイト
緒方洪庵と大坂の除痘館/古西義麿著 東方出版
東京都薬剤師会北多摩支部 http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_12.html
古くは明眸皓歯(めいぼうこうし:美しい目と白い歯)、そして、ひと頃話題となったCMで“芸能人は歯が命”と謳われる通り、白く美しい歯は、今も昔も美の象徴です。食べ物を咀嚼(そしゃく)する、言葉の発音を明瞭にする、口元のバランス・容貌を保つ等、体の重要な機能を果たしていることも忘れてはなりません。4月18日は「よ(4)い(1)歯(8)の日」。ちなみに11月8日は・・・そうです、「いい(1・1)歯の日」です。どちらも日本歯科医師会が定めています。
「よい歯」の最大の敵は、何といっても虫歯です。さまざまな研究から、虫歯の歴史は、人類の食生活の変化とともに刻まれてきたことがわかっています。たとえば狩猟や採取生活を行っていた頃の人類の化石からは、あまり虫歯の跡は見つかっていません。たびたび見受けられるようになるのは、農耕生活を始めた約1万年前から。でんぷん(糖質)を含む米や麦、芋などを、熱を加えて調理加工して、より虫歯になりやすい環境で食べるようになったことが原因のようです。そして、爆発的に増えていくのは、各国において砂糖が大量に流通するようになった時代からといわれています。これには虫歯ができるメカニズムが大いに関係しています。口の中にはさまざまな細菌がいますが、なかでもストレプトコッカス・ミュータンスは、糖分が大好き。歯の間などに残った食べカスを原料にして、歯の表面にネバネバとした、水に溶けない塊をつくります。これが歯垢(しこう)です。歯垢のなかの細菌は、しょ糖を次々と分解して、乳酸などの酸をつくります。体のなかで一番硬いといわれる歯の表面のエナメル質も、この強い酸にあってはひとたまりもなく、溶け出していき(脱灰)、虫歯になるのです。
古今東西、人々が昔から虫歯に悩まされていたことは想像に難くなく、古代エジプトのミイラからは、歯を削って金を詰めるなどした治療痕が多く見つかっているそうです。世界で最も古い入れ歯(らしきもの)は、紀元前2500年前のエジプトの遺跡から発見されています。日本でもすでに奈良時代の頃から、入れ歯があったようです。虫歯や歯周病を防ぐ方法は、ていねいな「歯磨き」に尽きるのですが、楊枝などを使って歯の隙間にはさまった食べ物を取り除くことは、原始の時代から行われていたとみられています。仏教を開いた釈迦は、特に歯磨きの大切さを説いています。その方法は、菩提樹の小枝を噛んでブラシのようにほぐして磨くといったものでした。こうした「歯木」は歯ブラシの原形ともいえるものです。「歯を磨く」という考えは、仏教の伝来とともに日本へもたらされました。以来、1400年の伝統です。虫歯ゼロを目指して、毎日の暮らしの中で、しっかり実践していきたいものですね。
参考文献・サイト
歯の健康学/江藤一洋編 岩波新書
おもしろい歯のはなし60話/磯村寿賀人 大月書店
おもしろ歯の博物誌/斎藤安彦 創英社、三省堂書店
日本歯科医師会 http://www.jda.or.jp/
全日本ブラシ工業協同組合 http://www.ajbia.or.jp/
WHO(世界保健機関)によると、世界では毎年約200万人もの人が結核によって命を落としています。結核の歴史は人類の歴史とともに古く、紀元前5000年頃のものとされる人骨に、その痕跡を認めることができます。はっきりとした原因もわからず長らく人類を苦しめてきた病の原因、結核菌がドイツの細菌学者ロベルト・コッホ博士によって発見され、ベルリン大学で発表されたのは1882年3月24日。これにより診断と治療への道が開かれ、1944年特効薬ストレプトマイシンが発見されたのを筆頭に次々と抗結核薬が開発されました。しかし、前述のように世界的には未だに根絶できていないという状況を受けて、1997年、WHOでは世界保健総会において3月24日を「世界結核デー」と定めました。
日本では、縄文時代に大陸から伝わったとみられていますが、戦国時代まではごくまれな病気で、江戸時代を下るにつれて徐々に拡がっていきました。時代劇に出てくる「労咳(ろうがい)」とは結核のことです。18世紀に起こった産業革命と都市への人口集中とともに、爆発的な流行を引き起こした西欧諸国のように、日本においても明治以後、急速に蔓延(まんえん)していきます。紡績業などに携わった女工の寄宿舎や軍隊など、劣悪な環境下での集団生活が結核菌の温床となったのです。このあたりの様子は、女工哀史を描いた小説・映画「あゝ野麦峠」で知る人も多いでしょう。1950年頃まで年間の死亡者数は10数万人にのぼり、「国民病」「亡国病」などと恐れられた死因の第1位でした。その後、医療や生活水準の向上により、過去のものとなったと思いきや、2004年に新たに結核と診断され登録された患者は31,638人、死亡者は2,336人を数えています。いまだに最も危険な感染症であることに変わりはありません。
結核は、重症患者(タンの中に結核菌が出ている人)のせきやくしゃみによって飛び散った結核菌を吸い込むことによって(空気感染)、主に肺に炎症を起こす病気です。しかし、感染しても必ず発病するわけではなく、通常は身体の免疫機能が働いて、結核菌の増殖を抑えます。こうした休止期間を経て、加齢や糖尿病、大きな手術などで抵抗力が落ちた時に、眠っていた体内の菌が目を覚まし、発病するというケースが増えています。また、自己判断で治療を中断してしまったことによる薬剤耐性菌の発生も、新たな問題として挙げられています。
こんにち結核は治る病気です。早期発見・治療に努めることで、本人の重症化や感染の拡大を防ぐことができます。結核の初期症状は風邪とよく似ています。2週間以上の長引くせき、タン、微熱、寝汗、疲労感が続いたら、迷わず病院へ。こうした症状が1ケ月以上続く人の25人に1人が、結核患者と診断されています。
参考文献・サイト
結核の文化史/福田眞人 名古屋大学出版会
忍び寄る感染症/町田和彦 早稲田大学出版部
財団法人結核予防会結核研究所 http://www.jata.or.jp/
日本医師会健康の森 http://www.med.or.jp/forest/index.html
2月20日は「アレルギーの日」。石坂公成・照子両博士(夫妻)がアレルギー疾患の診断を大きく進歩させた「IgE抗体」を発見し、1966(昭和41)年のこの日、アメリカのアレルギー学会で発表したことにちなみ、1995年、(財)日本アレルギー協会が定めたものです。アレルギーという症状が科学的かつ本格的に解明され始めたのは、20世紀に入ってからですが、古くから人々を苦しめてきたことは記録が物語っています。紀元前3000年頃に君臨した古代エジプト王の墓標には、ハチに刺されて死亡したことが刻まれており、これはハチアレルギーによるアナフィラキシー・ショック(アレルギー症状が全身に及びショック状態を引き起こす)と考えられています。また、ギリシャのルクレチウス(B.C96〜55年)は、「ある食べ物は、人によっては毒になる」という意味のことを述べており、食物アレルギーではないかと推測されます。ヨーロッパでは中世の頃に、木あるいは草の花粉によって“感冒症状”がでることがすでに知られていました。これは日本人の10人に1人が罹っているといわれる花粉症です。
「私、パソコンアレルギーなの」などと日常会話の中でもよく使われるアレルギーという言葉は、1906年、オーストリアの小児科医ピルケによって提唱されました。Allergyとは、ギリシャ語のallos(異なった)とergon(作用)を組み合わせたもので、「変わった反応」を意味します。そもそも人間の体は、細菌やウィルスなどの外敵が侵入した際に、生体を守るための防衛システム=免疫反応が働きます。しかし、体にとって害ではない花粉や食物などを敵と認識し、それらに過剰な反応を起こすことで、気管支喘息や花粉症、食物アレルギー、アトピー性皮膚炎、じんましんといったさまざまな症状を引き起こすのがアレルギー。現在、日本人で何らかのアレルギーに苦しむ人は30%を超えると推定され、さらに年々増加の傾向にあります。欧米の先進諸国でも同様の現象がみられていますが、このようにアレルギー性疾患が世界的に急増している原因としては、食生活の変化(食品添加物の摂取も含めて)、大気汚染や環境の悪化、断熱・気密性の高い住居におけるダニ、カビの発生、合成洗剤や薬品等の化学物質、ストレス社会の影響・・・などがあるといわれています。現代病ともいえるやっかいなアレルギーは、まだ謎が多く、明らかにされていない点もありますが、まずはアレルゲン(抗原:原因となる異物)を取り除くことが治療の第一歩。原因物質は、血液検査や皮膚テストによってわかりますから、アレルギーかなと思ったら、決して自己判断はせず、医師の診断をあおぎましょう。
参考文献・サイト
アレルギーとアトピー/矢田純一 裳華房
からだとアレルギーのしくみ/上野川修一 日本実業出版社
詳しくわかるアレルギーの薬/中川武正 法研
財団法人日本アレルギー協会 http://www.jaanet.org/
1月9日は「風邪の日」。1795(寛政7)年のこの日、第4代横綱・谷風梶之助が風邪のため亡くなったことに由来します。「谷風の前に谷風なく、谷風のあとに谷風なし」と称えられた勧進相撲黄金期の主人公は、本名を金子与四郎といい、1750(寛延3)年、名字帯刀を許された仙台の豪農に生まれました。幼少の頃からずば抜けた身体能力を持ち、五斗俵を一度も休むことなく1里半(約6q)も持ち運んだとか、四斗俵を両手に持って柏子木がわりに打ったとか、怪力にまつわる逸話には事欠きません。189p、162sの堂々たる体躯は、当時はさぞかし目を引いたことでしょう。かつて力士の最高位は大関でしたが、その中でも最も優秀な力士に対し、相撲の家元・吉田司家から与えられたのが「横綱」の称号。谷風は、寛政元(1789)年、吉田司家から初めて横綱免許を授与された力士であり、力量だけではなく人望もある大横綱でした。優勝相当成績21回、九場所(5年間)で63連勝。「土俵のうえでワシを倒すのは無理。ワシが横になっているところを見たければ風邪に罹った時に来い」と豪語したときに流行した感冒は「たにかぜ」とよばれました。それから10年余りのち、谷風は皮肉にも流感によって命を落とします。まだ現役の44歳でした。
人は年に平均5〜6回風邪を引くといわれます。風邪とは正式には風邪症候群、または風邪疾患群といい、主にウィルスによって引き起こされる呼吸器系の急性炎症をいいます。風邪の原因となるウィルスは200種類以上あるといわれ、感染したウィルスによって症状に違いが見られます。なかでも最も恐れられているのが、インフルエンザウィルスによるものです。高熱と強い全身症状をもって急激に発症し、高齢者や小児は時に重症化することがあります。また、強い感染力が特徴で、またたく間に流行が拡大します。これまでにも1918年のスペイン風邪、1957年のアジア風邪、1968年の香港風邪、1977年のソ連風邪など、世界的な猛威をふるいました。ちなみにインフルエンザという言葉は、14世紀イタリアのフィレンツェでつかわれていた「寒さの影響」「星の影響」を意味する“インフルエンツァ”が変化したものといわれています。
インフルエンザは咳やくしゃみ、つばなどの飛沫(ひまつ)とともに放出されたウィルスを吸入することによって感染します。流行している間は、人混みを避けたほうがよいようですが、現実的には難しいですね。また、インフルエンザウィルスは湿度に弱い性質があるので、室内では加湿器などを使って適度な湿度(50〜60%)に保つことがすすめられています。マスクも一定の効果があるようです。体を暖かく保つ、帰宅時には手洗い・うがいを行う、十分な休養とバランスのとれた食生活で常日頃から体力や免疫力を高めておく・・・などの基本的な心がけが、風邪予防の近道のようです。
参考文献・サイト
厚生労働省 http://www.mhlw.go.jp/index.html
国立感染症研究所感染症情報センター
http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/
healthクリック http://www2.health.ne.jp/
大相撲ミニ事典/新山善一 東京新聞出版局
今では「電話」といえば、携帯電話をイメージされる方が多いかもしれませんね。2004年3月現在、携帯電話・PHS加入者数は約8666万人(総務省調べ)、全人口の約68%が手にしていることになります。一方、加入電話(固定電話)は1997年の6,153万台をピークに、2002年には5,100万台まで減少しています。これも時代の流れなのかもしれません。
12月16日は「電話の日」。1890(明治23)年のこの日、東京−横浜間で日本初の電話事業が始まりました。アメリカのグラハム・ベルが電話を発明してから14年後のこと。日本は世界でいちばん早くベル電話機を輸入し、官庁などで実験的に使用していましたが、電話創業となると世界で31番目。当初の加入者数は、東京155名、横浜42名でした。1899年には、東京−大阪間が開通し、その翌年、新橋駅と上野駅に日本初の公衆電話(みずから働く、自働電話と呼ばれました)が設置されています。
電話を発明した人物は、前述のグラハム・ベル(1847-1922)とされていますが、実は、その栄光の陰に埋もれてしまった人物がいます。エリシャ・グレイ(1835-1901)です。1876年2月14日、奇しくもベルとグレイは同じ日に電話の特許申請を行います。運命を左右したのは時間。ベルは午前11時頃、グレイは午後1時頃の出願で、わずか2時間の差でした。一方、発明王・トーマス・エジソン(1847-1931)は、その1年後、ベルの電話機を改良し、炭素型マイクを発明。ベルのものと比べて3倍以上の感度があったこのマイクは、日本でもつい最近まで“黒電話”に使われていたものであり、100年以上にわたって支持された性能を誇っています。
さて、誕生の地アメリカにおいてさえ、初めは「電気仕掛けのおもちゃ」と揶揄された電話ですが、1876年10月、合衆国建国100周年を祝う万国博覧会において、著名な科学者を前に行った公開実験が成功を収めるや否や、急速にその存在が知られていきます。ちなみにベルの電話機を初めて通った外国語は、二人の日本人留学生が発した日本語であったとされています。ベルはこの時、「日本語でも通じるのだから、世界で通用する」と思い至ったのだとか。現在、世界最大手の情報通信会社として知られる「AT&T」は、ベル自らが設立した世界初の電話会社が前身となっています。
参考文献
明治電信電話ものがたり/松田裕之 日本経済評論社
11月3日は「ハンカチーフの日」。1983(昭和58)年、日本ハンカチーフ連合会が定めたものです。「なぜこの日が?」と理由をお話しする前に、ハンカチの歴史を紐解いてみましょう。
古代エジプトの時代には、すでに存在したと見られているハンカチ。後世の私たちが知る手がかりは遺跡や古墳からの出土品にありますが、ダシュール王女(紀元前3000年頃)の墓から発見された麻の端切れは、それが手をふいたり、汗を押さえたりするための布、すなわちハンカチだったのではないかと推測させます。長らく高貴な人々、または男性のものとされたハンカチの事象が変わってくるのは中世に入ってから。女性や広い階層の人々に広がり、ヨーロッパ各地で婚約のしるしとしての役割を担うようになります。現在のエンゲージリングのようなものでしょうか。16世紀も後半になると、レースや刺しゅうが施され、ハンカチはその装飾性を高めていきます。この頃のハンカチの多くは、大判の四角い麻製だったようですが、なかには四隅に金や銀のタッセル(飾り房)がついているものもありました。なかなかおしゃれですね。
さらにハンカチのファッション性が競われるようになるのは、18世紀。それまでの正方形に加え、長方形、三角形、長円形などが登場し、精緻なレースや刺しゅう、時には宝石などをあしらわれるようになります。こうした豪華なハンカチは、上流階級の人々のアクセサリーになり、 “レースで家柄がわかる” とまでいわれたフランスの宮廷では、美しいレースを手に入れるためにお金と情熱が注がれ、それが技術の向上へとつながっていきました。そして、様々だったハンカチの形が統一されることになるのはルイ16世の時代。王妃マリー・アントワネットの進言によって「国内のハンカチはすべて正方形にせよ」という布告が出されます。冒頭で述べた「ハンカチーフの日」はマリー・アントワネットの誕生日(11月2日)に最も近い祝日という理由で11月3日と決められました。
日本にハンカチがもたらされるのは、明治に入ってから。鹿鳴館時代から急速に広まっていったといわれています。そして、今や日本は世界で一番のハンカチ・マーケットにまで成長しました。紙ナプキンやエアタオル、携帯用ティシューの普及などにより、若い世代を中心にハンカチを持たない人が増えているようですが、バッグやポケットに入っている清潔なハンカチは、やはり身だしなみの基本。出掛けるときには「ハンカチ持った?」と自分に問いかけたいものです。
参考サイト
ブルーミング中西株式会社 http://www.blooming.co.jp/
Mode21.com http://www.mode21.com/fashion/handkerchief.html
空の透明度が高くなる秋から冬は、天体観測に最適なシーズンです。
10月2日は「望遠鏡の日」。1608年のこの日、オランダのメガネ技術者ハンス・リッペレイ(?-1619年)は、遠くのものが近くに見える望遠鏡の特許権を、オランダ国会に請求しました。
申請は、類似品があるとして却下されますが、これが望遠鏡の始まりといわれています。噂を聞きつけ、さっそく購入したのはオランダ軍。
入港する船を、敵か味方かいち早く判断するために活用しました。初期の望遠鏡は「スパイグラス」と呼ばれましたが、それなりの理由があったというわけです。
さて、望遠鏡を遠くにいる敵ではなく、夜空に向けた人物がいました。
イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイ(1564-1642年)です。
リッペレイの望遠鏡に改良を加えた自作品で天体観測を続けたガリレオは、月にはクレーターと山があること、木星には4つの衛星があること、銀河は無数の星から成り立っていること、などを発見しました。
そして、惑星が太陽のまわりを公転しているというコペルニクスの理論を支持するに至り、宗教裁判にかけられた事件は有名です。
同じ頃、ドイツの数学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630年)は、凹レンズと凸レンズを組み合わせたガリレオ式望遠鏡を改良し、1611年、凸レンズ2枚を使った「ケプラー式望遠鏡」をつくりあげます。
これは像が上下さかさまになるものの、高い倍率でも広い視野が得られるといった特長がありました。
現在でも屈折望遠鏡のほとんどが、この方式でつくられています。
すぐれた望遠鏡を得たケプラーは観測を重ね、天文学史上もっとも重要な発見のひとつといわれる、“ケプラーの法則”を見出します。
しかし、ガラスのレンズで光を集める望遠鏡では、波長によって異なる場所に焦点が結ばれるため、対象物がボケて見えるという欠点がありました。
それを解決したのが、“万有引力の法則”でつとに有名なイギリスの数学者・天文学者のアイザック・ニュートン(1643-1727年)です。
早くから屈折望遠鏡の限界を感じていたニュートンは、1668年、凹面鏡を使って光を集める「反射望遠鏡」を完成させました。その後、技術の進歩とともに、さまざまな方式の精度の高い望遠鏡がつくられ、宇宙の新しい発見を次々ともたらしてくれました。
日本での望遠鏡の歴史は、1613(慶長18)年、イギリス人使節が徳川家康に献呈したことに始まるといわれています。
そしてこんにち、日本が世界に誇る望遠鏡といえば、1999年、ハワイのマウナケア山頂に築いた巨大光学望遠鏡「すばる」です。
これは反射鏡の直径が8.2メートルと、一枚鏡としては世界一の大きさ。
地上望遠鏡としては世界最高クラスの性能を持ち、その能力は、たとえば東京から富士山頂にある野球ボールを見分けられるほど、だそうです。驚きですね。
参考文献
巨大望遠鏡への道/吉田正太郎、裳華房
ハッブル宇宙望遠鏡 150億光年のかなたへ/エレイン・スコット 小林等、高橋早苗訳、筑摩書房
9月24日は「畳の日」。
「環境衛生週間」の始まりの日であり、「清掃の日」であることから、全国畳産業振興会が定めました。
でも、なぜ清掃の日なのでしょう?
かつてよく見られた季節の風物詩に「畳干し」があります。
これは春と秋の年2回、よく晴れた日に畳を部屋から起こして庭に並べ、陽に当て風を通し、叩いてホコリを払うという畳のメンテナンス法。
きちんと 手入れ=清掃 することで、畳本来の良さが保たれますよ、ということをアピールしています。
また、春の畳干しの頃である4月29日(みどりの日)も「畳の日」。
こちらは原料であるイグサの美しい緑色にちなんでいる、ということです。
日本古来の文化の多くは、中国大陸から伝来してきたものですが、畳は先人が生活の知恵から生み出した日本固有のものです。
湿気が多く、夏暑く冬寒いといった風土にあって、“調湿” “断熱”機能を持つ畳は、最も快適に過ごせる建材でした。
近年では、防音効果や空気をきれいにする作用などがあることも、科学の目によって明らかにされています。
また、柔道場において、選手を激しい衝撃から守っているのも、畳の“天然のクッション性”です。
日本最古の歴史書である古事記には「畳」の文字が見えますが、これはこんにちで言う“むしろ”のようなものであったろうと考えられています。
それを何枚も重ねて用いたことが、畳の語源(敷物を何枚もたたむ、すなわち積み重ねる)となっています。
現在のような厚みをもった畳になるのは、平安時代。貴族の邸宅では、板敷きの間に座具や寝具として、ところどころに置かれるようになりましたが、使う人の位によって、畳の厚さや縁(の生地)が決められていました。
部屋全体に敷きつめ、床材として使うようになるのは、室町時代以降。
しかしまだ畳は富の象徴であり、一般人のものとなるのは江戸時代の中期、さらに農村においては、明治時代を待たなければなりませんでした。
ところで、みなさんは時代劇の江戸市中が描かれたシーンで、畳を大八車に乗せて引越しをする庶民の様子を目にしたことはありませんか。
これは、長屋では畳はあらかじめ敷かれてあるものではなく、借家人が運び込んで使うものだったためです。
畳はたいせつな財産。そのため前述のように、手入れをして長持ちさせる工夫を怠りませんでした。
近年、住まいの床材はフローリングが人気のようですが、ごろりと寝転べる畳のくつろぎ感も捨てがたいもの。
そこで最近では、フローリングに敷いて使用する「置き畳」などの商品もあるようです。
これなら“起きて半畳、寝て一畳”のことわざを実践できそうですね。
参考サイト
図解畳技術宝典/樫村長次 理工学社
よみがえれ! イグサ/船瀬俊介 築地書館
全国畳産業振興会 http://www.xpress.ne.jp/~tatami/
全日本畳事業協同組合 http://www.stannet.ne.jp/zentatami/
参考サイト
ソロバンの歴史/J.M.プッラン 塩浦政男訳 みすず書房
(社)全国珠算教育連盟 http://www.soroban.or.jp
トモエ算盤梶@http://www.soroban.com
雲州堂 http://www.unshudo.co.jp
参考サイト
日本サーフィン連盟 http://www.nsa-surf.org
フルイドライディング技術研究所 http://www16.plala.or.jp/fluidriding/
参考サイト
ムーンバット株式会社 www.moonbat.co.jp
しばた洋傘店 www.hakata-kasaya.co.jp
日吉屋商店 www.wagasa.com
王子製紙株式会社 www.ojipaper.co.jp
参考文献
日本鉛筆工業協同組合 www.pencil.or.jp
三菱鉛筆梶@www.mpuni.co.jp
トンボ鉛筆 www.tombow.com
参考文献
ちずのこしかた/うんのかずたか 小学館スクウェア
伊能忠敬測量隊/渡辺一郎編著 小学館
図説伊能忠敬の地図をよむ/渡辺一郎 河出書房新社
記念日の本/生活情報研究会編 ごま書房
参考文献・サイト
こんなにためになる気象の話/饒村 曜 ナツメ社
気象のしくみ/饒村 曜 日本実業出版社
記念日の本/生活情報研究会編 ごま書房
気象庁 http://www.jma.go.jp/
参考文献・サイト
郵便創業120年の歴史/郵政省郵務局郵便事業史編纂室 ぎょうせい
みんなの郵便文化史/小林正義 鰍ノじゅうに
記念日の本/生活情報研究会編 ごま書房
参考文献・サイト
記念日の本/生活情報研究会編 ごま書房
参考文献・サイト
ボタン事典/潟Aイリス大隅浩監修 文園社
(社)日本釦協会 http://www.jah.ne.jp/~jbutton
ボタンの博物館 http://www.iris.co.jp/
参考文献・サイト
全国カラオケ事業者協会 http://www.japan-karaoke.com
※文中データは「カラオケ白書2003/全国カラオケ事業者協会」より
参考文献・サイト
(財)日本宝くじ協会 http://www.takarakuji.nippon-net.ne.jp
大江戸暮らし/大江戸探検隊編 PHP研究所
おもしろ江戸の雑学/北村鮭彦著 永岡書店
参考文献・サイト
くるまたちの社会史/齊藤俊彦著 中公新書
(社)東京乗用旅客自動車協会 http://www.taxi-tokyo.or.jp/
参考文献・サイト
食べるアメリカ人/加藤裕子著 大修館書店
世界おもしろ比較文化紀行U ビッグマックプリーズ!!/小屋一平著 心交社
日本マクドナルド梶@http://www.mcdonalds.co.jp
参考文献
(社)日本時計協会 http://www.jcwa.or.jp/
時計と人間/織田一朗著 裳華房
時と時計の最新常識100/織田一朗著 ホーム社
腕時計の誕生/永瀬唯著 廣済堂出版
参考文献
(社)日本電機工業会 http://www.jema-net.or.jp/
生活を変えた技術/(社)日本機械学会編 技報堂出版
参考文献
図書及び図書館史/寺田光孝 加藤三郎 村越貴代美共著 樹村房
図書館の歴史/寺田光孝 藤野幸雄共著 日外アソシエーツ
国立国会図書館 http://www.ndl.go.jp
(財)日本図書館協会 http://www.jla.or.jp
参考文献
(社)日本かばん協会ランドセル工業会 http://www.randoseru.gr.jp
(株)クラレ http://www.clarino.com
参考文献
丁髷とらいすかれい/金田尚丸 遊タイム出版
たべもの歴史散策/小柳輝一 時事通信社
とんかつの誕生/岡田哲 講談社選書メチエ
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