元祖発見! 2007年
12月

 わが町自慢の元祖、歴史を創った偉大な元祖、自称・元祖....わたしたちの回りには多くの「元祖」と呼ばれる存在があります。そんな様々な「元祖」についてこれから毎月取り上げていきます。
 いい換えれば、「元祖」とはものごとの始まりであり、全て何かしらの起源があったからこそわたしたちの今の暮らしがある、といえます。中にはちょっと怪しい?元祖もあるかもしれませんが、風聞もまた世の習い。それもこれも合わせて楽しんでいただければと思います。


■ 目 次 ■

88. 公示から1カ月余りで太陰太陽暦から太陽暦へ。激動の明治時代に暦も入れ替わり〜「カレンダー」[12/16追加]
87. 水鏡から銅鏡、そしてガラス鏡へ。歴史と技術の進歩を映す〜「鏡」
86. およそ200年前、兵糧として開発。日本では石狩川の「サケ」を原料に製造開始〜「缶詰」
85. 西洋式クリーニング店が開業するのは幕末の頃。洋装の定着とともに、需要も増加〜「クリーニング」
84. 登場後しばらくは、灯火のガラスの上に「ススメ」「チウイ」「トマレ」と書いて、周知を徹底〜「信号機」
83. 屋台で揚げたてをほおばる。江戸の庶民に大人気! 日本のファーストフード〜「てんぷら」
82. コンビニ、スーパーの人気商品は、2000年の歴史をもつ超ロングセラー〜「おにぎり」
81. お酒の誕生と時を同じくして登場。組み合わせやアレンジで、レシピは星の数ほど。〜「カクテル」
80. “交通戦争”から子どもたちを守れ! 昭和40年代にぞくぞく誕生〜「歩道橋」
79. トランジスタからIC、LSI搭載へ、半導体の歴史とともに発展。もっとも身近なコンピュータ〜「電卓」
78. 風呂で敷くから「風呂敷」。商業や物流の発達に伴って、モノを包む布の総称に〜「風呂敷」
77. 起源は、中国の占星術。有力者や江戸幕府の庇護の下、日本において高度に発達〜「囲碁」
76. 16世紀頃のドイツで発祥。日本で初めて飾られてから今年で120年〜「クリスマスツリー」
75. 人力、水圧、蒸気、そして電動式へ。動力の変遷、技術開発とともにより高く速く、安全に〜「エレベーター」
74. 石炭から原油、そして天然ガスへ。原料は変わっても、暮らしを快適・便利に照らす「青い炎」は変わらず〜「ガス」
73. 梳き櫛から、飾り櫛へ。美しい細工が施された造形美が、緑なす黒髪を引き立てる〜「櫛」
72. “機械で洗濯するのは女らしくない”普及を阻んだ半世紀前の女性の意識〜「洗濯機」
71. なんとしても成功させたかった写真電送。“結果”を出したのは、外国製品ではなく、国産の技術力〜「ファクシミリ」
70. 富裕層向けの高価な輸入車から、国内メーカーの成長に伴い、一般人の乗り物に〜「自転車」後編
69. 車輪を前後に並べて、乗って走っても転ばない! 約200年前の発見が、開発の推進力に〜「自転車」前編
68. 石けんの元祖は臭かった?! 植物由来の原料に変えることでニオイを克服〜「石けん」
67. 手回しミシンに始まり210年余り。コンピュータ制御により思い通りに表現できる時代へ〜「ミシン」
66. 黎明期、各国がしのぎを削った開発。美しく鮮明に…進化を続け、いよいよ“地デジ”の時代へ〜「テレビ放送」
65. 高度経済成長期に登場。その後、アレルギー性疾患の増加に伴い、普及にも拍車が〜「空気清浄機」
64. 米ぬかからビタミンB1。日本人が世界で初めて、成分の抽出に成功!〜「ビタミン」
63. まったくの偶然から発見されたX線が、近代医学の前進と発展に大きく貢献〜「レントゲン」
62. 今から200年前、世界初の全身麻酔手術を成功させたのは、ひとりの日本人〜「麻酔」
61. ケガ人を救出、看護する・・・ギリシャ・ローマ時代から軍事活動の一環として始まった〜「救急」
60. 中国3000年の経験則を集めた伝統医療。効用が知られるにつれ、世界に広まる〜「鍼灸」
59. 1970年代に頻発。対策を講じ、克服したかにみえた公害が、近年再発の傾向に〜「光化学スモッグ」
58. しっかり洗浄、すぐに低温保存、十分に加熱。基本を守って、防ごう!〜「食中毒」
57. ジェンナーの種痘法開発から約2世紀。予防接種の普及により、世界から根絶された伝染病〜「天然痘」
56. 古今東西、人はその痛みに耐えた? 歯磨きに勝る予防法ナシ!〜「虫歯」
55. 薬の開発により治癒が可能に。過去の病とされながら、いまだに克服できない感染症〜「結核」
54. 近年急増の傾向。今や日本人の3人に1人が苦しむやっかいな現代病〜「アレルギー」
53. 無敵を誇った大横綱も勝てず。“万病のもと”は、かかったかなと思ったら無理せず休養〜「風邪」
52. ベルとグレイの発明合戦。そして、同日特許申請。勝敗を決したのはわずか2時間の差。〜「電話」
51. 婚約指輪、アクセサリー、身分の象徴・・・さまざまな役割を担ってきた〜「ハンカチ」
50. もっと遠くを、さらに鮮明に。宇宙の不思議を次々と解明してきた立役者〜「望遠鏡」
49. 「たたむ」が語源のたたみ。優れた機能は日本の気候風土にぴったり〜「畳」
48. 正確にはやく“数える”ことへの、さまざまな発見と工夫が発展の原動力に〜「そろばん」
47. “海の民”古代ポリネシアの人々が始めた、世界で最も古いスポーツ〜「サーフィン」
46. 浪人も内職に励んだ?!日本独自の和傘は、江戸時代中期から町人の生活必需品に〜「傘」
45. イギリス生まれ、フランスで考案された技術により筆記用具として進化。なめらかでやさしい書き味が魅力〜「鉛筆」
44. 私財を投じてでも。日本初の本格的な実測地図は、“ご隠居さん”が仕掛け人〜「地図」
43. 日本初の予報から120年。観測技術やコンピュータの発達により、精度もグーンとアップ!〜「天気予報」
42. インドの空を飛んだ世界初のエアメール。乗り物の発達とともにお届けもスピードアップ〜「エアメール」
41. 新しいレシピ、すてきな食のシーンを提案。献立づくりに悩む主婦の味方〜「料理番組」
40. “見せない” 商いから 、豊富な品揃えで“魅せる”商売へ。伝統ある呉服商から百貨店への大転換〜「デパート」
39. 「あきをとめ」「デザインを楽しむ」。機能性と装飾性を備えた洋服のかなめ〜「釦(ボタン)」
38. 2人に1人がマイク片手に熱唱。誕生30年で国民的レジャーに〜「カラオケ」
37. 幕府も許可した天下御免の富くじは、一攫千金を夢見る庶民に大人気〜「宝くじ」
36. 誕生から90余年。さまざまな時代を走り抜けてきた、手軽で便利な庶民の足〜「タクシー」
35. ルーツは1000年前のタルタルステーキ。アメリカの国民食、ファストフードの代名詞〜「ハンバーガー」
34. 5000年の時を重ねて。正しい時間を知りたいと願った、人類の情熱と英知の結晶〜「時計」
33. ホウキの座を奪取するのは終戦後。きれいな住まいの立て役者〜「掃除機」
32. “知の宝庫”起源は、今から4,500年前の古代メソポタミア〜「図書館」
31. 明治の半ば、伊藤博文が大正天皇に贈った特注カバンが元祖〜「ランドセル」
30. 週に一度は食卓に登場!今や本場インドをしのぐカレー大国に〜「カレーライス」後編
29. 五感だけを頼りに、スパイスと格闘。初の国産“調合”カレー粉誕生〜「カレーライス」前編
28. 苦難の末、日本の味と西洋の食を融合。銀座・木村屋発祥「あんパン」
27. 地域に新しい産業を。雪をも溶かす情熱でぶどうづくりに挑む。ワイン(後編)
26. 舶来の妙なる味わいを日本でも。国産ワイン第一号は山梨から。ワイン(前編)
25. 僧侶や貴族向けの高級食材「豆腐」。江戸時代から庶民の食卓に登場
24. ハイカラな店の雰囲気も“味わい”のうち。連日大入り、明治のビヤホール
23. 偶然の産物?ワラに包んだ煮豆がネバネバ糸引く食べ物に。古くて新しい健康食・納豆
22. アメリカの味を再現、日本で最初の“あいすくりん”は横浜生まれ。アイスクリーム(後編)
21. イタリア生まれ、冷凍技術の発達とともに美味しく進化。アイスクリーム(前編)
20. もっと早く、さらに便利に。宅配便の元祖は♪クロネコヤマトの宅急便
19. わらじや下駄を履いてきた日本人の足に合う靴を。明治3年は、製靴元年
18. 大手菓子メーカーが味と価格の大衆化に貢献、チョコレート
17. 日本生まれ。世界で愛される国際食〜インスタントラーメン
16. 子どもたちに甘くて楽しい夢を 国産キャラメルの元祖〜森永製菓
15. 日本のチーズづくり その始まりは、雄大な北海道の大地から
14. あつあつご飯の友だち、ふりかけ 元祖は、全国ふりかけ協会のお墨付き
13. 大阪生まれ、庶民の味 "めちゃうま"きつねうどん
12. 大阪発、今や人気は全国区 たこやき元祖、会津屋
11. はやい、おいしい、お手頃 世界初のレトルト食品・ボンカレー
10. 駅弁の元祖対決 最有力候補は宇都宮駅
09. ここから世界へ!光通信発祥の地、東北大学 電気通信研究所
08. 日本の焼肉店の元祖、東の「明月館」・西の「食道園」
07. 日本第一号地ビール、新潟県巻町・えちごビール
06. 蘭学・儒学・言語学“日本初”の系譜、一関・大槻家
05. 仙台発>>>美味三大元祖、冷やし中華そば・回転寿司・牛タン
04. クリームパンの元祖「中村屋」の創業者、相馬黒光(そうまこっこう)B
03. 日本初の自家用水力発電、三居沢(さんきょざわ)水力発電所
02. 日本で初めて国の天然記念物に指定された、東北大学理学部付属植物園
01. 現存する日本最古の学問所、旧有備館(きゅうゆうびかん)
00. 【皆さまへのお知らせ】


■アイコン解説

100 75 50 25 0
本当の話
(既に証明されている)
本当らしい
(本当である確率が高い)
ちょっと怪しい
(よく聞くが真偽は不明)
かなり怪しい
(事実関係が証明できない)
極く内輪の話
(限られた範囲で伝わる話)

100%  新年のカレンダーが文具店の店先を飾る季節となりました。カレンダーは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けた「暦(こよみ)」を記載したものです。暦には、太陽を基準とした「太陽暦」、太陽と月とを併用した「太陰太陽暦」、月齢を基準とした「太陰暦」 があります。実は、暦の元祖は「太陰暦」。古代バビロニアの僧侶たちによって、月の満ち欠けが一定の周期で行われることが発見され、それを基とした暦が編み出されました。ローマに受け継がれてからも、僧侶たちは絶えず月を観測し、新月には笛を鳴らして市民に知らせました。新月の次の日を「月の最初の日」と定め、金銭の精算をする基準日にしたといいます。
日本ではいつ頃、暦が使われるようになったのでしょうか。日本書紀には「553(欽明天皇14)年に、百済(古代の朝鮮半島南西部にあった国家)へ暦博士の来朝を求めた」とあります。また、602(推古天皇10)年は、観勅が来朝して暦法を伝え、日本の学生に学ばせたという記録が残っています。
現在の太陽暦(グレゴリオ暦)を使用するようになったのは、1873(明治6)年から。前年の1872年11月9日に太陰太陽暦からの移行が公布され、「来る12月3日を新暦の明治6年元日とする」と発表されました。1カ月もたたないうちに暦が変わることになった人びとの混乱ぶりは、いかほどだったでしょうか。しかし、社会は太陽暦にのっとって動いていましたが、市井の人びとの暮らしはまだまだ旧暦によるところが大きく、農村の種まきや行事・歳時記、冠婚葬祭などは太陰太陽暦にそって行われていました。昭和20年代までには、「新暦と旧暦を併用している」人が全国で半数近くもいたという調査もあるそうですから、暦の習慣も根強いものがありますね。また、12月3日に改暦されたことに基づき、この日を「カレンダーの日」と定めています。
現在ではさまざまなデザインのカレンダーが目を楽しませてくれますが、当初の「こよみ」は小冊子の形をとったものが主流で、暦屋の団体である領暦商社でしか発行できませんでした。1883年(明治16年)からは1枚摺りの略歴の発行が自由となります。この頃のいちばん人気のこよみは、伊勢の神宮司庁で発行されていた伊勢暦。ここでしか買えない“地域限定品”といったところですね。1903年(明治36年)には“日めくり”カレンダーが大阪でお目見え。日めくりには旧暦も併記され、美しい台紙に告知や広告が入った物で、会社などが大量につくり、年末の挨拶として得意先やお客さまに配布しました。今日、主流となっているカラー写真の入った“月めくり”カレンダーが多く流通するようになるのは、1945年(昭和20年)以降のことです。
2007年の日めくりカレンダーも残り少なになりました。光陰矢のごとし、という言葉も浮かびますが、流れてゆく時間は、いついかなる時でも、私たちに平等に与えられているものです。それをどのように使うかは、一人ひとり次第。悔いなく十全に、日々を重ねていきたいものですね。

参考文献・サイト
全国団扇扇子カレンダー協議会 http://www.zenkyo.net/


100%  11月11日は「鏡の日」。11は鏡に映しても11と読める鏡像文字であることから、全日本鏡連合会が2006年に制定しました。
鏡の起源は、水面を利用する「水鏡」にあるといわれます。ギリシア神話には、水に映る自分の姿に恋をしてしまうナルキッソスが登場します。鏡に映った自分の姿を“自分である”と認識できる能力を「鏡映認知」といいます。これは人間以外ではサルやイルカで確認されていて、動物の知能を測る手掛かりとされています。ちなみにチンパンジーなどは、毛繕いに役立てることができるそうです。水鏡の次に登場するのは、磨き上げた石や金属(銅を主体とした合金)を利用した鏡。古代エジプト(紀元前3000年〜)ではすでに銅鏡が使われていたようです。
 わが国へは紀元前1〜2世紀頃に、中国の前漢(B.C.202〜A.D.8)から銅鏡が伝わり、有力な豪族の祭祀(さいし;神や祖先を祭ること)に使われていました。古墳時代(4世紀初めから7世紀)になると、国内でもつくられるようになります。初めは、中国の様式をまねていましたが、次第に日本独自の文様が背面に施されるようになりました。平安時代の後期になると、華やかな唐風(中国風)に代わり、自然の風物(草花、鳥)を描いた日本独特の優しい文様を持つ和鏡へと発展していきます。この頃は、貴族の化粧道具としてだけではなく、神仏の奉納物としての役割も果たしていました。室町時代には、鏡に柄(握って持つところ)をつけた柄鏡がお目見え。それまで背面に付けていた鈕(ちゅう;持つためのつまみ)が不要になったため、背面全体にのびのびと文様がつけられるようになりました。江戸時代になると新しい鋳造法による量産が可能となり、銅鏡は広く庶民へと広がっていきました。
 一方、14世紀の初め、ベニスのガラス工が、水銀アマルガムをガラスに付着させて鏡をつくる方法を発明しました。金属鏡よりも反射の優れた「ガラス鏡」の誕生です。日本へは、1549(天文18)年に来日したスペインの宣教師フランシスコ・ザビエルが贈り物として持ち込みました。その後、幾度かにわたってガラス鏡の製法が伝えられたものの、残念ながら技術が定着することはありませんでした。しかし、時代が下がって江戸時代半ばまでには、国内でもガラスの調達が可能となり、それに水銀引きをしたガラス鏡(鬢鏡(びんきょう)と呼ばれた)が製造されるようになりました。
明治に入り、舶来物のガラス鏡が市場を賑わしますが、一方で、国内で水銀を使用しない銀引き法で鏡がつくられるようになります。しかし、材料となる素板は輸入板ガラスに頼らなければなりませんでした。明治末になると、長い間の念願であった国産板ガラスの製造が始まり、それが鏡の素板として使用されるようになりました。国産品の誕生です。その後は、技術開発により、よりはっきりと映す鏡へと性能を高めていきました。
「人の手本・行動の規範とすべきもの」をあらわす言葉として「鑑(かがみ)」があります。自分は、鑑のような存在であるかどうか、時には心の鏡に映し出してみたいものですね。

参考文献・サイト
東京都鏡商工業協同組合 http://www.mirror.or.jp/


100%  10月10日は「缶詰」の日。長期間保存ができ、開けてすぐ、または少し手を加える加熱のみで、そのまま食べることができる缶詰は、その特質から兵糧(軍隊の食糧)として発達してきた側面があります。
 時は、18世紀の後半。ヨーロッパ各地での戦争に明け暮れていたフランスでは、遠征時の食糧補給、とりわけ新鮮な食材の確保に頭を悩ませていました。そこで1795年、政府は懸賞金をかけて、陸軍糧食となる食品保存法を募集しました。それに応えたのが、料理店や醸造業を営む傍ら、食品に関するさまざまな研究に取り組んでいたニコラ・アペール。彼は1804年、ビンに食品を充填したのち、密封し、加熱殺菌するという「缶詰の原理」を発明しました。この方法は、現在の缶詰製造技術にもつながるすぐれたものでしたが、ビンのため重くて割れやすいという欠点があったのです。それから6年後、イギリスのピーター・デュランが容器に「ブリキ」を用いる方法を開発します。当時は、缶切りという道具がなく、「ノミとオノで開けてください」という注意書きがあったといいます。現在では、容器そのものに開封用プルトップなどがついたイージーオープン缶が主流になっていますね。
 さて、アペールの時代、発酵や腐食の原因は「空気によるもの」と考えられていましたが、1861年、フランスのルイ・パスツールが微生物の存在を発見。アペールの技法を応用した低温殺菌法を開発したことで、缶詰の品質が向上していきます。その後、製造方法はアメリカに渡り、南北戦争の携行食糧として重宝され、缶詰の生産は急速に拡大していくこととなります。
日本においては1871(明治4)年、長崎の外国語学校に勤務する松田雅典が、同僚のフランス人レオン・ジュリーの手ほどきで試作したイワシ油漬缶詰が、国内初のものとされています。本格的な生産が始まったのは1877(明治10)年。北海道石狩市に官営の工場がつくられ、石狩川を遡上するサケを原料とした缶詰の商業生産が始まりました。創業したのが10月10日という記録により、日本缶詰協会ではこの日を「缶詰の日」と制定しています。ちなみに当時は、「管詰」という字があてられていました。明治後期の日清、日露戦争を契機に、缶詰産業は発展し、生産量も増加していきましたが、あくまでも輸出用、あるいは軍需用であり、一般には普及することはありませんでした。多くの人が初めて口にするのは、1923(大正12)年の関東大震災の以降。海外から送られてきた支援物資のなかに缶詰が含まれていたためでした。
缶詰生産量の推移をみると、戦後の1950(昭和25)年でおよそ12万8千トン、経済成長の波に乗り、生産量は増えていき、1980(昭和55)年のおよそ120万トンでピークを迎えます。その後、減少傾向に転じましたが、近年では横ばいを維持、2003(平成15)年の生産量は、約45万トンとなっています。最近では、災害時などの非常食としての注目を浴びています。備えあれば、憂いなし…家庭でも積極的に備蓄を進めたいものですね。

参考文献・サイト
社団法人日本缶詰協会
http://www.jca-can.or.jp/


100%  「クリー(9)ニン(2)グ(9)」の覚えやすい語呂合わせ、9月29日は「クリーニングの日」です。1982(昭和57)年、全国クリーニング生活衛生同業組合連合会とクリーンライフ協会が、さらなる普及を目的に定めました。
 さて、日本での洗濯業は、室町時代、公卿や身分の高い武士を顧客に持つ紺屋(こうや:染物屋)が、副業として始めたとされています。専業になるのは、江戸時代のなかば。当時は女性二人が一組となって、お客さんの家に出向き、灰汁(あく)を使い、主に木綿の着物の洗濯をしていました。身分の高い武士や豊かな商人が着る高級衣料は、悉皆屋(しっかいや:仕立てや洗い張りなど、着物の手入れをするところ)を通じて、京都の洗い物屋へと送られました。ここでは、洗剤として灰汁のほかに、米のとぎ汁、白小豆などを使い、しみぬきにはうぐいすの糞や大根の汁、お湯も利用していました。仕上げは姫糊(ひめのり:米を柔らかく煮てつくった糊)を使って、張り仕上げをし、砧うち(きぬたうち:木槌で布を打って、つやを出したり、やわらかくしたりする)もされました。長崎では「異国張り」と呼ぶアイロンによる仕上げもあったようです。
 1859(安政6)年、横浜の青木屋忠七に、「外国人衣類仕洗張」という営業許可書が出され、居留地外国人向けの洗濯業が始まりました。本格的なクリーニング業は、長崎で西洋洗濯を学び、1861(文久元)年頃、横浜で店を構えた渡辺善兵衛によって始められたとされています。この頃の洗い方は、水あるいはお湯、ソーダと石けんを使う「ランドリー」という方法でした。やがて、洋服を着る人が増えてくると需要も増加し、各地に西洋式のクリーニング店が登場しました。
現在クリーニングの主流である「ドライクリーニング」が日本で初めてお目見えするのは、明治時代の末。一般化するのは戦後のことです。さて、この「ドライクリーニング」、乾いた状態でクリーニングするのではなく、“水のかわりに”汚れを溶かす洗剤(石油系溶剤など)につけこんで洗浄します。この方法が発明されたのは、1800年代半ばのフランス。ある仕立屋が、衣類についた油性のシミがテレピン油で落ちることを偶然発見したことから広がりました。そのためアメリカでは、ドライクリーニングをフランス式クリーニングと呼んでいた時代があったといいます。
総務省の調べによると、一世帯当りの年間洗濯代は2005(平成17)年が9,485円。1992(平成 4)年の19,243円をピークに、ここ20年で最低の支出金額です。これは家庭用洗濯機の大型化や高度化、ドライマーク対応の家庭用洗剤が普及してきたことが背景にあるようです。(財)東京都生活衛生営業指導センタ−「環衛業に係る消費生活調査」(平成8年度)によると、クリーニング店への依頼が減った理由として、「自宅でのクリーニングを増やした」が87.3%も占めています。しかし、大切な衣類は、やはり洗濯のプロに相談するのが賢明かもしれませんね。

参考文献・サイト
全国クリーニング生活衛生同業組合連合会
http://www.zenkuren.or.jp/
タイムスリップ横浜
http://www.timeslip-y.jp/motomati/clean.html


100% 8月20日は「交通信号の日」。1931(昭和6)年のこの日、銀座の尾張町(銀座4丁目交差点)や京橋交差点などをはじめ、34カ所の市電交差点に、日本初の三色灯の自動信号機が設置されたことに由来する、とのことですが、実は、道路用の信号機はそれよりも以前に存在していました。鉄道用に至っては1872(明治5)年の開通とともに登場しています。今回は主に道路用の信号機について、元祖を尋ねてみましょう。
 大正時代から昭和の初めにかけての交通信号の創始期には、警察官の「挙手の合図」や、「信号標板」などによって交通整理が行われていました。信号機の第一号は、1919(大正8)年、東京・上野広小路にお目見えします。木の板のオモテウラそれぞれに「ススメ」「トマレ」と書かれたものを、警官が“手動”で回転させ、提示する形式のものでした。車が珍しかった時代ののどかさが伝わってきますね。
我が国初の“自動”交通信号機が登場するのは、1930(昭和5)年3月。東京の日比谷交差点に設置されたハイカラな形の信号機は、アメリカ製で、灯器を交差点の中央に置くタイプでした。冒頭でご紹介した自動信号機(1931年に登場)は、“国産”の3色信号機であり、また多くの箇所に設置されたという意味で、日本初といえるのかもしれませんね。当時は、色の意味が周知されていなかったため、ガラスのうえに「ススメ」「チウイ」「トマレ」と書かれていました。
現在では知らない人のいない交通ルールの基本、信号は左から緑、黄、赤(左側通行の国の場合)ですが、これは「CIE:国際照明委員会」が定める国際規格です。CIEで規定している信号の色は、赤・緑・黄・白・青の5色で、それぞれ色度の範囲や光度などが定められています。一般には馴染みのない白と青は、航空信号などに使われています。さて、ここでちょっと不思議に思いませんか? 国際規格で定められている「緑(Green)信号」を、どうして「青信号」と呼ぶのでしょう。それは、日本では古くから、緑のことも青と呼ぶ習慣があって、信号が導入された当初、多くの人が「あお」と認識してしまったから、という説があります。一方では、色の三原色と同じく赤・青・黄を、信号の色に対比させたともいわれています。
平面交差点において信号処理が必要になるのは、各々の道路から交差点に流入する交通量が1時間当たり500台以上になったとき、が目安とされるそうです。日本全国には約18万7千基(2004年3月末)の信号機があり、すみやかな通行と交通安全を支えています。

参考文献・サイト
警察庁 警察の歴史〜信号機の歴史 http://www.npa.go.jp/kouhousi/police-50th/history/signaler/index.html
株式会社建設技術研究所編著『道なぜなぜおもしろ読本』山海堂
交通博物館編『知られざる歴史と魅力 交通博物館のすべて』JTBキャンブックス
浅井建爾著『道と路がわかる事典』日本実業出版社


100%  すし、スキヤキ、しゃぶしゃぶ、てんぷら…といえば、外国人に好まれる日本料理の代表でしょうか。毎月23日は「てんぷらの日」。元はといえば大暑の頃である7月23日とされていて、暑さにバテないようにてんぷらを食べて体力をつけようというものでした。
てんぷらの名の由来については、諸説入り乱れていますが、もとはポルトガル語であるという意見が根強く、中世の末、わが国に伝わった南蛮料理が、長崎、大阪、江戸と伝わっていくうちに、形を変え、定着していったものと考えられています。今でも、京阪以西の地域では、関東でいうところの「さつまあげ」を「てんぷら」と呼んでいます。
てんぷらは江戸時代に入り、庶民の食べ物として人気を博するようになります。提供したのは、日本のファーストフード「屋台」。百万都市・江戸は、郷里に妻子を残して江戸詰めになった藩士、上方からやってきた大店(おおだな)の使用人、建設工事の職人(火事が多かった江戸での復興工事に携わる)など、単身男性の多い都市でした。武士はともかく、使用人や出稼ぎなどの庶民に有難がられたのが、「てんぷら」「にぎりずし」「そば」「鰻の蒲焼」などを売る屋台だったのです。その場ですぐに口に出来る手軽さは“せっかち”な江戸っ子にもぴったりでした。また、てんぷらのように油をつかう料理は、火の元になりかねないということで、屋内での営業が禁止されていたという背景もあります。
その頃のてんぷらは、タネ(江戸前の魚介類) に串を刺し、水で溶いた小麦粉をつけて揚げ(現在では卵を入れる)、屋台の店先に置いてある大根おろしと天つゆをつけて食べました。野菜を素材とした、いわゆる精進揚げは「野菜揚げ」と区別されていたようです。仕事の合間や小腹がすいたときに、アツアツの揚げたてを買い食いでき、ハイカロリーでお腹も満足させてくれるものでしたが、“立ち食い”という無作法な食事形態からも、武士が食べるものではないとされていたようで、『近世職人尽絵詞』(鍬形寫ヨ筆、1804〔文化元〕年)には、「天麩羅」と大きな看板を掲げた屋台のまえで、二本差しの侍が手ぬぐいでほおかぶりをし、隠れるようにてんぷらを買っている姿が描かれています。
19世紀に入ると、高級魚をネタとする屋台があらわれるなど、てんぷらは転換期を迎えます。次いで、食べ物屋評判記に専門店が登場するなど、料理屋風の店舗を構えた店(内店)で提供されるようになっていきました。しかし、精製度の低い油を使用していたため、匂いや換気という問題もあり、店の前にしつらえた屋台などで揚げ、すぐにお座敷に運ぶような工夫がなされていたようです。
てんぷらはタネに衣をつけて、油で揚げるというシンプルな料理ですが、サクッとした食感に揚げるのはなかなか難しいようです。コツは、衣をよく冷やし、混ぜすぎないこと。梅雨空が続く季節、せめててんぷらはカラッと揚げたいものですね。

参考文献・サイト
大久保洋子著『江戸のファーストフード』講談社選書メチエ
平野雅章著『和食の履歴書』淡交社
吉川誠次、大堀恭良共著『日本・食の歴史地図』生活人新書NHK出版


100%  暑くて食欲のない時でも、好きな具を入れて、香ばしい海苔を巻いたおにぎりなら食べられるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。実は、たいへん古い歴史を持つおにぎり。1987(昭和62)年、石川県鹿島郡鹿西(ろくせい)町(現・中能登町)の杉谷チャノバタケ遺跡から、弥生時代中〜後期のものと思われるおにぎりの化石が見つかりました。大きさは底辺が5センチ、高さ8センチ、厚さが3センチ。表面などから米粒の形が見てとれ、ジャポニカ種のもち米と推測されています。中能登町では6月18日を「おにぎりの日」とし、町おこしの祭りやイベントを開催しています。6は「ろくせい町」、18日は毎月の「米食の日」にちなんでいるそうです。
 さて、おにぎりの直接の起源は、平安時代の屯食(とんじき)にあるとされています。これは、もち米を蒸したものを楕円形に握り固めたもので、宮中や貴族の家で行事や催し物があった際に、下仕えの人びとに配られたものでした。箸をつかわずに食べるため、あまり上品ではないものとされていましたが、簡単で便利な食物ゆえ、戦時の兵糧(ひょうろう)や農作業の弁当として重宝がられていきました。
一方、鎌倉時代末期になると、鉄製の釜が普及し始め、うるち米を炊いた米飯が食べられるようになります。そして、おにぎりが戦いに挑む武士たちの必需品になっていくにつれて、“焼く”調理法が広がっていきます。焼きおにぎりは、香ばしさが加わりおいしくなる上、傷むのを遅らせることができ、一挙両得でした。江戸時代になると、武士の間でおにぎりを食べることが定着し、屯食と呼ばれていた頃のように、下賎な食べ物というイメージはなくなりました。現在のように海苔を巻いたおにぎりが登場するのは、江戸時代の中頃。紙のようにすいてつくる板(乾)海苔が発明されてからのことです。
 「おにぎり」「おむすび」「むすび」「握り飯」の違いは何でしょうか。「おにぎりは三角形で、おむすびは俵型だ」「いや、おむすびこそが三角だ」「関西ではおにぎり、関東はおむすびと言う」など諸説あり、定まっていません。また、おにぎりは「鬼を切る=わざわいを退ける」、おむすびは「お結び=良縁を結ぶ」につながるとされ、TPOによって使い分けている地域もあるそうです。
 おにぎりは、コンビニエンスストアやスーパーマーケットのお弁当コーナーの売り上げを左右する立て役者。各社とも新製品の開発に躍起です。しかし、その2000年以上もの歴史を思うとき、丸型、三角、俵型のかわいらしい姿には威厳と風格すら漂います。超ロングセラーおにぎり。口いっぱいにほお張る幸せをいただきましょう。

参考文献・サイト
酒井伸雄著『日本人のひるめし』中公新書
永山久夫著『イラスト版たべもの日本史』河出書房新社
農林水産省「消費者の部屋」 http://www.maff.go.jp/soshiki/syokuhin/heya/HEYA.html


100%  5月13日は「カクテルの日」。1806年のこの日、アメリカの雑誌に、カクテルの定義が初めて掲載されたことにちなんでいます。当時は「酒(種類は何でもよい)に砂糖、水、ビターを加えてつくる刺激的な飲み物」とされたようですが、現在では酒と酒、あるいは酒と薬味・果汁・炭酸飲料など2種以上を混ぜ合わせたアルコール入りのミックス・ドリンクが、広い意味でのカクテルと分類されます。水割りやロックはカクテルか否か、については意見の分かれるところのようです。
 さて、“混酒”という点からいえば、カクテルの歴史は、酒類の誕生と時を同じくします。たとえば、古代エジプトでは、ビールにハチミツやショウガを、古代ローマではワインに海水を混ぜて飲まれていたといいますし、古代中国ではワインに馬乳を加えたものがあったようです。カクテルは幾度かの転換期を経て、発展していきますが、大きな影響を与えたものに「蒸留酒の発明」があります。ビールやワインといった醸造酒は、あまりアルコール度数が高くありません。ウイスキー・ブランデー・ジン・ラム・ウォッカといった強い蒸留酒は、飲み口をよくするために、他の飲み物と混ぜて飲むというスタイルが定着していきました。また、新大陸発見により中南米からもたらされた香辛料は、醸造酒や蒸留酒に独特の味と芳香をつけることに活かされ、カクテルのバリエーションも広がっていきます。そして、1870年代の製氷機の開発により、氷を使うことを前提としたレシピが生まれ、今日のようなキリリと冷やしたスタイルのカクテルが、四季を通じて楽しめるようになりました。
 日本では、明治初期、外国貴賓を接待する社交場だった鹿鳴館(ろくめいかん)で、カクテルがお目見え。華々しく“日本デビュー”を飾ります。その後、大正時代に入って登場した下町バーでも提供されるようになり、広がっていきますが、本格的なブームが到来するのは、戦後しばらく経ってのことです。
 カクテルは、ベースになる酒や組み合わせる材料によって、無限の種類が作られると言ってもよいでしょう。同様に「カクテル」の語源も、諸説入り乱れています。ここでは代表的なものをご紹介しましょう。『メキシコはユカタン半島の港町に大英帝国海軍の船が入港したときのこと。ひとりの海兵が、地元のバーテンダーの少年が木の枝を使っておいしそうなドリンクをつくっているのを見た。当時のイギリスには「お酒を混ぜる」という習慣はなかったため、その酒の名前を聞いてみたところ、少年は使っていた木の枝のことを聞かれたのだと勘違いし、「コーラ・デ・ガジョ」と答えた。これを英語に直訳した「雄鶏の尻尾(tail of cock)」が、やがて「カクテル」となった』というもの。他にも、まことしやかに伝わる説がいつくもありますが、この際、真偽の追究はほどほどにして、冷えたカクテルでもいただきましょうか。

参考文献・サイト
アサヒカクテルガイド http://www.asahibeer.co.jp/cocktailguide/
久保村方光監修『カクテル入門』日東書院


100%  4月25日は「歩道橋の日」。1963(昭和38)年のこの日、大阪駅前に日本初の横断歩道橋がつくられたことから…とされますが、実はさかのぼること4年前、愛知県西枇杷島町(現・清須市)に日本最初の歩道橋がお目見えしていました。
 人や自転車のみが利用する橋を「人道橋(じんどうきょう)」といいますが、そのなかで車道や鉄道を立体的に渡るための橋を歩道橋と呼びます。道路の下に整備されたものは「横断地下歩道(地下道)」です。これらを設置する目的は、交通渋滞の緩和(信号によらず道路を横断できる)、そして何よりも横断者の安全な通行にあります。歩道橋は昭和40年代に建設ラッシュを迎えますが、それは交通事故の深刻な増加を受けてのことでした。
 昭和20年代、戦後の復興に伴って、国内では徐々に自動車台数が増えていきました。この時代、子どもたちの遊びといえば、外遊び。交通安全意識を徹底されていなかった、つまり車の危険性に不慣れな学童が、不幸にも犠牲者となる出来事が相次ぎました。昭和26年には、交通事故死亡者のうち15歳以下の子どもの占める割合が38%に達しています。昭和30年代に入って本格的な「車社会」が到来すると、ますます交通事故が増え、「交通戦争」なる言葉が生まれました。年間の交通事故死亡者数は1万人を超え、いかに人を車から守るか、という課題の解決に向けて登場したのが「横断歩道橋」です。冒頭の日本初の歩道橋も、付近で起きた小学生の交通死亡事故をきっかけとして設置の機運が高まったのです。
 車の脅威から子どもたちを守ってきた歩道橋ですが、高度成長が終わり、少子化が始まると、交通事故が減少。“テレビゲーム”などの流行とともに、外遊びの機会が減ったことも、こと交通事故に関してはプラスに働きました。代わって、交通弱者としてクローズアップされてきたのが、高齢者や体の不自由な人びとです。階段がある歩道橋は、“人にやさしい”施設とは言い難い点があります。そこで、エレベーターやエスカレーターを設置したり、階段ではなくゆるやかな斜路にしたりするなどの試みがなされていますが、いずれも建設や維持に費用がかかることもあって、すべての歩道橋に導入するのは難しい現実があります。一方、昭和40年代につくられた歩道橋は、老朽化、または利用者がほとんどいなくなったという理由で撤去されるケースも増えてきました。今こそ、歩道橋など必要のない、安心・安全な交通社会が待ち望まれています。

参考文献・サイト
歩道橋のはなし http://www.saneigroup.jp/hodokyo/index.php


100%  3月20日は「電卓の日」。1974(昭和49)年のこの日、日本の電卓生産数が世界一になったことを記念して、(社)日本事務機械工業会が制定しました。
さて、「電子式卓上計算機」こと「電卓」が登場する以前は、機械式計算機(手動式・電動式)、電気式計算機(リレー〔継電器〕を使用したもの)、電子式計算機(プログラム内蔵式ではない)などが一部の企業などで使われていました。この状況に一石を投じたのが、機械式計算機の歯車を真空管に置き換えた世界初の電卓。1963(昭和38)年、イギリスのBell Punch and Sumlock-Comptometerによって発売されました。これに触発された日本の各メーカーは、本格的に電卓の開発に着手。60年代半ばまでには、各社トランジスタ式の製品が揃います。こんにち電卓といえば、手のひらに載る計算機というのが一般的なイメージですが、この頃は、まさに卓上…つまり机を占領するような大きさであり、重量は20〜30s、そして非常に高価なものでした。これを小型化・高機能化し、価格を引き下げるためには、トランジスタに代え、当時の最先端の半導体技術であったICやLSIを電卓に搭載する必要がありました。
 まず先鞭をつけたのが、シャープ。1967(昭和42)年には世界初のIC計算機、2年後には、またしても世界初となるLSI電卓を製作し、商業的成功を収めます。電卓は、縦25×横13×高さ7pまで小さくなりましたが、各社は胸ポケットに入るぐらいの小型化に向けて、開発競争を繰り広げます。1971(昭和46)年、ビジコン社はワンチップLSIを搭載した、世界初のポケット電卓を開発。まさに手のひらサイズの電卓は、大きな驚きをもって迎えられました。
 このワンチップLSIの登場によって、多くのメーカーが電卓製造に参入し、価格競争が激化していきます。1972(昭和47)年にはカシオが当時の相場の3分の1という低価格の商品を発売、爆発的なヒットを記録します。電卓は、会社に一台の時代から、一人一台の時代へ。大衆化に拍車がかかります。さらに1973(昭和48)年、シャープが世界初となる液晶表示電卓を、その3年後には太陽電池を搭載した電卓を発売します。電卓市場はカシオ、シャープの2強体制となり、残る課題である「薄型化」に向けてしのぎを削ることとなるのです。
 1983(昭和58)年、ついにカシオが発売した厚さ0.8oというクレジットカードサイズの電卓によって、20年にわたる小型化・薄型化の開発競争は決着をみます。この電卓は、デザインの歴史に影響を与えた優れた作品として、MoMA(ニューヨーク近代美術館)に収蔵されています。
 その後、電卓は高機能化追求の時代を迎え、1980年代には辞書機能を持つタイプがお目見え。後に電子手帳へと発展し、1990年代に登場する携帯情報端末(PDA)へとつながっていくのです。

参考文献・サイト
電卓博物館 http://www.dentaku-museum.com/
カシオ電卓総合案内ネット http://dentaku.casio.co.jp/


100%  さて、問題です。2月23日は何の日でしょう。…正解は、2(つ)2(つ)3(み)で「風呂敷の日」です。大きな布でモノを包むという行為は、布の存在とともに始まったことは想像に難くありません。こうした布は、奈良・平安時代には「平包(ひらつつみ)」「古路毛都々美(ころもづつみ)」などと呼ばれており、奈良東大寺の正倉院に納められている宝物(ほうもつ)も、収納物の名称が墨書された布に包まれています。まさに“シンプル・イズ・ベスト”と呼びたい一枚布は、現在の風呂敷に至るまで形や使用方法の変化はほとんど見られず、素材や染織方法、意匠文様が、時代とともに変化・発展を遂げていきました。
 風呂敷というからには、お風呂と関係があるのでは? と誰もが思うことでしょう。布と風呂とがつながっていくのは室町時代。3代将軍・足利義満は、大湯殿(おおゆどの)を建てた折、全国の大名を風呂でもてなしました。大名たちは、脱いだ服を家紋入りの絹布に包んで、他の人の衣服とまぎれないようにし、風呂上りにはその絹布のうえで身づくろいをした、という記録が残っています。風呂で敷くから「風呂敷」、確かに言いえて妙です。
 風呂敷が広く浸透していくのは、江戸時代に入ってから。銭湯の誕生と大いに関係があります。人々は、手ぬぐいや垢すり、軽石、ぬか袋などの湯道具を、風呂敷に包んで出掛けました。やがて他人のものと区別しやすいように家紋や屋号を染め抜く人が出てきました。呼び名は、江戸前期までは前述の「平包」と「風呂敷包み」が混在していましたが、次第に風呂敷に統一されていったようです。そして必ずしも風呂で使うものではなく、モノを包む布の総称として定着していきます。それは商業や物流の発達とも大きく関わっています。自慢の商品を風呂敷に包み、さっそうと売り歩く商人たち。屋号のマークが印された風呂敷は、さながら現代のブランド名入りの買い物バッグといったところでしょうか。とりわけ呉服屋さんの風呂敷などは、女性たちの熱い視線を集めたに違いありません。
 中国の「包袱(パオフー)」、韓国の「褓子器(ポジャギ)」、トルコやパキスタンの「ボーチャ」、東アフリカの「カンガ」…風呂敷に似た布は世界各国にみられます。しかし我が国では、平包み、隠し包み、お使い包み、ふたつ包み、巻き包み、ビン包み、スイカ包み…など、用途と形にあわせた繊細で美しい包み方を発達させてきた歴史があります。何度でも使え、収納にもかさばらない風呂敷の柔軟性と利便性は、昨今の“エコな暮らし”にも適うものです。包装紙やレジ袋に替わるものとして、日本の伝統文化・風呂敷にもっと注目していきたいものですね。

参考文献・サイト
日本風呂敷協会 http://furoshiki.homepage.jp/index.html


100%  1月5日は語呂合わせで「囲碁の日」。(財)日本棋院では、この日「打ち初め式」が行われます。
 中国が起源とされる囲碁は、占星術のひとつが変化・洗練されたものといわれています。少なくとも春秋・戦国時代(紀元前8〜3世紀)には成立していたようで、政治・軍略・人生のシミュレーションゲームとして広まっていきました。『論語』『孟子』の中にも囲碁の話題が登場しますし、君子の教養として「琴棋書画(きんきしょが:順に音楽、囲碁、書道、絵)」が挙げられ、囲碁は身につけるべき心得とされていました。
 日本には、奈良時代に遣唐使として中国へ渡った吉備真備(きびのまきび)が持ちかえったという伝承がありますが、大宝律令(701年)のなかに囲碁に関する項目があるなど、もっと以前に伝わっていたと考えられます。奈良東大寺の正倉院には、日本最古の碁盤が収められています。平安時代には貴族のたしなみとして好まれ、『枕草子』『源氏物語』などの文学作品にも、囲碁に興じる描写が出てきます。
 室町時代になると、囲碁は貴族から武士・僧侶へ、次第に市井の人びとの間へと広がるとともに、セミプロが出現し、有力者たちは互いに競わせるなどしました。戦国時代には、春秋時代の中国同様、戦(いくさ)のシミュレーションとして盛んになります。室町末期には、日海(のちの本因坊算砂)が囲碁の第一人者として登場。算砂は、信長、秀吉、家康の師でしたが、3人の中では信長がいちばん強かったのだとか。
 江戸時代には、本因坊家、井上家、安井家、林家の4家が、碁の家元と呼ばれるようになり、幕府からの庇護の下、優秀な棋士を育て、切磋琢磨しあいました。新しい定石・戦法が次々と生み出され、黄金期を迎えます。しかし、明治時代になると江戸幕府の崩壊とともに、囲碁界はその基盤を失ってしまいます。棋士たちは囲碁の火を絶やすまいと熱心に対局を続け、1878(明治11)年には、新聞にはじめて碁譜が掲載されます。
1998〜2003年にかけて連載された『ヒカルの碁』(原作ほったゆみ、漫画小畑健、監修梅沢由香里)により囲碁ブームが起こったのは記憶に新しいところですが、残念ながら若手の育成が遅れている日本勢は、国際大会などで中国・韓国の棋士を相手に苦戦を強いられています。
 「幽玄(ゆうげん:余情を感じさせる深い趣)」「忘憂(ぼうゆう:人生の悩み・心配事を忘れさせる)」「手談(しゅだん:言葉をつかわずに、心の会話ができる)」、これらは囲碁の別称です。最近は、ネット碁などを通じて、その深い魅力に触れる人が増え、世界中にアマチュア愛好家の輪が広がっています。

参考文献・サイト
日本棋院の楽しい囲碁入門教室 http://www.nihonkiin.or.jp/lesson/index.htm


100%  もうすぐクリスマス。色とりどりのライトやかわいらしいオーナメントを付けたツリーを飾っているご家庭も多いことでしょう。12月7日は「クリスマスツリーの日」。これは1886(明治19)年、横浜で外国人船員のために、日本初のクリスマスツリーが飾られたことに由来します。ディスプレイ用として、国内で初めて登場するのは1904(明治37)年。明治屋の店頭装飾としてお目見えしました。
さて、こんにちではクリスマスの華やぎになくてはならないツリーですが、いつ頃から飾られ始めたのでしょうか。そもそもツリーの歴史は、古代の樹木崇拝にたどりつくといわれています。ものみな枯れ果てる冬でも、落葉しない常緑樹には災いを遠ざける力が宿っていると信じられており、樹木を飾り立て、冬至のお祝いをしていました。クリスマスツリーは、そうした伝統的な風習をキリスト教徒が取り入れたもので、16世紀頃のドイツから広まったとされています。室内に常緑樹を持ち込み、色つきの紙や小さな人形、お菓子や角砂糖で飾り立てました。クリスマスが終わると、樹をゆさぶって落ちたものをもらうことができたといいますから、子どもたちはさぞかし楽しみだったのではないでしょうか。その後、各国の習俗や文化と結びつき、様式や装飾を変化させながら、キリスト教圏の国々へ広がっていきます。イギリスでは、1846年、ビクトリア女王とアルバート公のロイヤルファミリーが、クリスマスツリーのまわりに集う写真が公開されたことをきっかけに、ツリーを飾ることが大流行します。これがアメリカにも伝わり、1856年、第14代大統領フランクリン・ピアースは、初めてホワイトハウスにクリスマスツリーを持ち込みます。
今では当たり前のことですが、クリスマスツリーが初めて電飾されたのは、電球が発明された3年後の1882年のこと。のちに発明王エジソンの会社の社長となるエドワード・ジョンソンが自宅のツリーに赤・白・青、合わせて80個ほどの電球をつけました。1895年、第24代大統領グローバー・クリーブランドがホワイトハウスのツリーを電球で装飾するに至って、電飾スタイルの人気が決定的なものになります。
 世界で最も有名なクリスマスツリーのひとつと言えば、ニューヨーク・マンハッタン中心部の高層ビル「ロックフェラーセンター」前に設置される巨大なツリー。74回目となる今年は、コネティカット州から運ばれた高さ約27メートル、重さ約9トンのノルウェートウヒに3万個の電球が灯されました。クリスマスツリーといえども、こちらは1月6日までそのきらびやかな姿が楽しめるそうです。

参考文献・サイト
日本クリスマス博物館 http://www.christmasmuseum.jp/index.html


100%  11月10日は「エレベーターの日」。1890(明治23)年のこの日、日本初の電動エレベーターが登場したことを記念して、社団法人日本エレベータ協会が制定しました。設置されたのは、高さ52メートルの展望台「凌雲閣(りょううんかく)」、通称“浅草12階”。当時12階建てといえば、超高層建築。赤レンガ造り、八角形の高塔は、文明開化の象徴として、多くの見物客を集めていました。しかし、監督官庁からエレベーターは危険とみなされ、ほどなく利用が中止されてしまったといいます。「電動式」という条件を除けば、1842年、水戸藩主徳川斉昭によってつくられた好文亭(水戸偕楽園)のエレベーターが日本初として挙げられます。これは手動の「つるべ式」で、食事などを運ぶ小型のものでした。
 さて、エレベーターを「滑車とロープを用いて上げ下ろしをする装置」と定義するならば、紀元前から存在していたようです。知られているところでは、浮力の発見や正確な円周率を求めたアルキメデス(紀元前287年−212年)が考案したホイスト(荷揚げ装置)があります。荷物の運搬用として使われ、もちろん人の力によって動かされていました。エレベーターに人力以外の動力が導入されるには、それから2000年以上の歳月が必要とされたのです。。
 19世紀に入ると、水圧、続いて蒸気機関を動力とするタイプがお目見えし、エレベーターは新しい時代を迎えるかに思えました。しかし、非常に速度が遅く、そのうえロープが外れたり切れたりする落下事故が後を絶たず、安全な乗り物とは言えなかったのです。そんなエレベーターに光明が射すのは1852年。アメリカのE・G・オ−チスが、画期的なシステム「非常停止装置」を発明しました。オーチスはそれから2年後、ニューヨークのクリスタルパレス博覧会でデモンストレーションを実施。観衆の前で、自らエレベーターに乗り込み、ロープを切らせ、安全性を実証してみせたのです。1889年、オーチス・エレベーター社は世界初の電動式を開発。それは当時、建設ラッシュだった都市部の高層ビルに次々と採用され、ニューヨークの摩天楼化が進んでいきました。
 エレベーターがさらに近代化への歩みを速めるきっかけとなったのは、1903年に登場したカウンターウエイト方式です。「つり合おもり」と訳されるこのシステムは、井戸のつるべと同じ原理で、エレベーターのカゴと反対側におもりを吊すことで、カゴを効率よく昇降させるもので、超高層ビルへの設置を可能とし、安全性能と速度を飛躍的に向上させました。
 現在、世界で一番速いエレベーターは、2004年秋に開業した「台北国際金融センター(TAIPEI101)」にあるもので、分速1010メートルで運行します。TAIPEI101の登場までは、横浜ランドマークタワーの分速750メートルが最速でした。ちなみにこれらのエレベーターは、日本の技術で製作されています。

※JIS(日本工業規格)では、長音符号を除いて「エレベータ」と表記しますが、本文では「エレベーター」といたしました。

参考文献・サイト
『モノづくり解体新書 五の巻』日刊工業新聞社
(社)日本エレベータ協会 http://www.n-elekyo.or.jp/index.html


100%  「ガス」の存在が初めて明らかにされたのは、17世紀の半ば。ベルギーの化学者ヨハン・ヘルモントは、石炭を燃やすと、可燃性の気体が得られることを発見。これをギリシア語の「カオス(混沌とした状態)」に例えましたが、その後、転じてガスと呼ばれるようになりました。そのガスを利用した“照明”を発明したのは、イギリス人の技師ウィリアム・マードック。1792年に成功するや、ガス灯は欧米各都市の街路に整備されていきました。そして、エネルギー源の主役は石炭からガスへ。その使い勝手の良さから照明用はもとより、暖房用・調理用へと活躍の場を広げていったのです。
 さて、日本で初めてガスの明かりが灯ったのは、1872(明治5)年10月31日のこと。横浜市の大江橋から馬車道・本町通りにかけて十数基のガス灯が設置されました。日本の都市ガス事業の先鞭をつけたこの日は「ガス記念日」(1972年、日本ガス協会が制定)とされています。この頃のガス灯は、現在使われている電球の15ワットぐらいの明るさしかありませんでした。しかし、闇夜を照らすものといえば提灯ぐらいしかなかった時代のこと、人々はガス灯の出現に度肝を抜かれたといいます。ガス灯は、20世紀の初頭に全盛期を迎えたのち、1915(大正4)年頃から徐々に電灯に取って代わられ、1937(昭和12)年にはとうとう姿を消してしまいます。しかし近年、「ガス灯のある町」を謳う自治体や地区が増え、ちょっとしたブームになっています。確かに独特の青い光は、夜の町並みをロマンチックに演出してくれる効果があるようです。
 ガスの青い炎は、昔も今も変わりありませんが、その原料は時代と共に変化してきました。1940年代後半までは、前述の石炭が都市ガスの原料のほとんどを占めていましたが、1950年代になると、石炭に代わって「原油」からガスをつくる技術が開発され、高度成長期を支えました。1965年以降は、公害の原因とならないガスが求められ、ナフサやLPG(液化石油ガス)の導入が進んでいきます。ちなみに現在、ガスは都市ガスと、ボンベで供給されるプロパンガスに大きく分けられますが、後者にはこのLPGが使われています。そして1970年代以降、「脱石油」の潮流を受けて登場したのが、天然ガス(LNG:液化天然ガス)です。LNGは埋蔵量も豊富で、世界の広い地域に分布し、安定して輸入できることもあり、今や都市ガスのほとんどがLNGとなりました。
実はガスには色も匂いもありません。あの不快な臭いは、万が一ガスが漏れた時のために、わざとつけているのです。もちろん「ガス漏れ警報器」の設置もお忘れなく。

参考文献・サイト
東京ガス http://www.tokyo-gas.co.jp/index.html
(株)マスオ ガス燈事業部 http://masuo.co.jp/gaslight.html
日本LPガス協会 http://www.j-lpgas.gr.jp/index.html


100%  櫛(くし)の日…元祖発見をお読みいただいている方ならば、語呂合わせで「9月4日かな」とピンとくるかもしれませんね。美容にたずさわる人が櫛に感謝し、また人々の美容に対する意識を高めてもらおうと1978(昭和53)年に定められたそうです。
 日本における櫛の歴史はたいへん古く、約5〜6000年前の縄文前期の遺跡から、赤い漆塗りの櫛が出土しています。また、3〜6世紀の古墳時代のものとして、髷(まげ)に櫛を挿している女子埴輪が見つかっています。これらの櫛は、歯が長い縦型の櫛ですが、古墳時代も後期になると、現在も使われている横型の櫛になっていきます。
 女性の髪が結い上げられるようになる江戸時代までは、“おすべらかし”の時代が長く続き、櫛も髪を梳(す)くという用途以上にはあまり発展しなかったようです。『万葉集』には黄楊(つげ)櫛の歌が登場し、現在でも梳き櫛には最適とされる材質が使われていたことがわかります。
 江戸時代になると、装飾の役割をもつ「飾り櫛」として使われ始めます。初期の明暦(1655-57)までは、べっ甲製などが大名の奥方といった一部の女性に愛用されるのみでしたが、元禄年間(1688-1704)にもなると大衆化が進み、一般の町女房や下級武士の妻女が、結い髪を飾るようになります。この頃の櫛は、べっ甲、象牙、金銀、真鍮、ガラス(ビードロ)、馬爪、牛爪などでつくられており、それに、螺鈿(らでん)や蒔絵(まきえ)、透かし彫りなどの細工によって、花鳥風月や人物、物語、風景などが巧みに表現されていました。櫛はどんどん華やかになっていき、とうとう明和年間(1764-72)には、黄楊の飾り櫛は野暮なものの代名詞になったといいます。また、時代毎に流行があり、たとえば宝暦(1751-63)年間には朱塗りの櫛がもてはやされましたし、文化文政期(1804-30)には櫛よりもかんざしが多く用いられました。そして、江戸も末期になると、着物の裏地に凝る趣味人のように、意匠を櫛の裏側に施すことが粋とされたようです。
 文明開化の明治時代に入ると、日本髪が不衛生、不経済、不便などの理由で、西洋風の髪型が奨励されるようになり、洋髪と日本髪を折衷したような新風俗が次々と生まれました。櫛も小ぶりになったものの、職人が競って見事なものを作り上げ、「銘」を入れるなどのブランド化が進みます。また、これまでになかった材質としてセルロイドが登場。安価でおしゃれなものが大量に出回り、女性たちの人気を博しました。
 昭和になって、ショートヘアやパーマネントウェーブが流行。いよいよ本格的な“断髪”が始まると、飾り櫛の需要は徐々に減っていきます。しかし、実用の機会が少なくなった現在でも、精巧な工芸品として愛でる人も少なくないようです。なるほど、美しい髪の守り神として、手元に置いておくのもすてきですね。

参考文献・サイト
大原梨恵子『黒髪の文化史』築地書館
ポーラ文化研究所コレクション〔4〕『世界の櫛』ポーラ文化研究所


100%  夏です。洗濯機が大活躍というご家庭も多いことでしょう。8月1日は「洗濯機の日」。この日は、国土交通省が制定した“水の日”でもあり、水に縁のあるものとして定められたそうです。
 着ているものが汚れたら水で洗う…洗濯という行為が、有史以前から行われていたことは想像に難くありません。紀元前1800年頃のエジプトの壁画には、石の上に置いた布を棒で叩いている姿が描かれているそうです。こうした叩き洗いは、今でも世界各地で行われていますし、足で踏んだり、石や木に打ちつけたりする洗濯方法があります。日本でも、中世の絵巻や江戸時代の浮世絵に、踏み洗いの様子を見ることができます。しかし、私たちが“昔ながらの”と思い浮かべる洗濯方法は、やはり「たらい」と「洗濯板」を使ったものでしょうか。衣類などを一枚一枚手でしごきながら、ゴシゴシと洗う方法は、冬場に限らず、主婦にとっては過酷な仕事でした。そんな重労働から解放してくれたのが、洗濯機だったのです。
 まずは1850年代、洗濯槽の中に取り付けられた棒を手で回す手動式(!)の洗濯機が登場します。1860年代には、動力に“エンジン”を利用したタイプが登場し、洗濯専門店などで使われたようです。アメリカで、電気式の洗濯機が発明されるのは1907年。日本にやってくるのは、それから15年後。三井物産がアメリカ・ソール社のかくはん式洗濯機「ソアー」を輸入します。そして、いよいよ、初の国産洗濯機がお目見えするのは1930年、ソール社の技術を導入した芝浦製作所(現・東芝)が発表しました。その名も「ソーラー」は価格370円。当時、銀行員の初任給が約70円だったといいますから、かなり高価なものだったようです。
 戦況下では、ぜいたく品として生産が中止になるものの、戦後間もなく再登場。しかし、市場の反応はいまひとつ。消費者の声を集めたところ、「機械で汚れが落ちるのか」といったハード面への不安のほか、「機械で洗濯するのは女らしくない」「怠け者だ」といった意見があったといいます。そうした古い先入観や意識を払拭しようと努力が続けられていた1953年、三洋電機から国内初の噴流式洗濯機が発売されます。ここにきて便利さや快適性への憧れが一気に高まり、価格も手ごろになったことも手伝い、洗濯機の普及に拍車がかかります。「白黒テレビ」「冷蔵庫」と並んで、三種の神器と呼ばれたのもこの頃です。1960年には、全世帯のほぼ半分が洗濯機を持つまでとなりました。
 現在、洗濯機は大きく分けて「全自動」「2槽式」「ドラム式」の3種類。最近は、乾燥機能付きが人気のようですし、軽い汚れなら洗剤がいらないといった超音波洗濯機も話題となりました。節水、節電、消音、洗浄力、布痛み対策…進化を続ける洗濯機は、これからも主婦の味方があり続けることでしょう。

参考文献・サイト
日刊工業新聞社MOOK編集部『身近なモノの履歴書を知る事典』日刊工業新聞社
東芝電気洗濯機75年の歩み http://www.toshiba.co.jp/living/exhibition/05/history/laundry.htm
三洋電機洗濯機事業50年の歩み http://www.sanyo.co.jp/cc/sw50th/index.html
松下電器探検キッズ http://www.discovery.panasonic.co.jp/index.html


100%  7月20日は「ファクシミリの日」。1981(昭和56)年のこの日、郵政省(当時)が東京・名古屋・大阪の三都市間でファクシミリ電送を開始しました。ファクシミリ(ファックス、ファクス、FAX)とは、通信回線を通じて、画像情報を遠隔地に電送する機器、あるいは仕組みのこと。ラテン語のfac simile(同じようにする)が語源とされています。
 最近では、ファクシミリ機能付きの電話をお持ちのご家庭も多いようですが、一般の人が自由に回線をつなげるようになったのは、電電公社(現NTT)が公衆回線を開放した1972(昭和47)年から。では、ビジネス用として、いつ頃からファクシミリが使われるようになったのでしょうか。それは1928(昭和3)年、昭和天皇のご即位にあたって、新聞社が「写真」を京都・東京間でやり取りしたのが始まり。実用化の第一号です。
 今も昔も、新聞社は速報性が命です。天皇の御大典を前に、各新聞社は工業技術先進国であったドイツ、フランスなどから「写真電送装置」を導入。実験を重ねますが、なかなかうまくいきません。一方、日本電気(当時)の技術部長・丹羽保次郎と若手技術者の小林正次は、NE式と名付けた写真電送装置の発明を公表していましたが、舶来品偏重の気風にあって、関心を寄せられることはありませんでした。
 さて、なんとしても写真電送を成功させたい新聞社は、藁にもすがる思いで、この「国産」技術を試みました。すると、結果は大成功。鮮明な画像をやり取りすることができたのです。しかし、この時すでに10月。11月10日の即位式まで1カ月を切っており、技術者は不眠不休で調整を続けます。そして、いよいよ当日。皇居を出発した天皇陛下の写真は、即座に大阪に送られ、号外に掲載されました。その後も、京都御所、伊勢神宮でのご様子は、大阪から東京に電送され、新聞紙面を飾ったのでした。
 ところで、ファクシミリは、電話の発明に先んじること33年前の1843年に、イギリスのアレクサンダー・ベインによって特許の申請がなされています。しかし、この段階では実用化に至らず、1925年を前後して、欧米で相次いで試作されました。アメリカ・ベル電話研究所方式、ドイツ・シーメンス方式、フランス・ベラン方式などは、いずれも世界の第一線で活躍する研究者が開発したものですが、「国産技術」で実績を残した“天皇即位”後は、日本における研究開発が世界の先頭を走ることとなり、現在も世界シェアの90%以上を独占しています。

参考文献・サイト
日刊工業新聞社MOOK編集部『身近なモノの履歴書を知る事典』日刊工業新聞社


100%  自転車はいつ頃、日本にやってきたのでしょうか。正確なところはわかっていませんが、幕末から明治にかけて来日した外国人が持ち込んだとみられています。慶応元(1865)年に発行された「横浜開港見聞誌」には、三輪車(トライシクル)に乗った外国人女性の図が描かれています。明治10(1877)年には、早くも“国産”のミショー型(ボーンシェイカー)が登場。フレームは鉄製、他はほとんどが木製でしたが、日本古来の鉄砲鍛冶や大工の技術をもってすれば、舶来品を模倣することはたやすかったようです。当時、クルマといえば、人力車か大八車。人々には大きな驚きをもって迎えられたことでしょう。早速、各都市で時間貸し(レンタル)が行われ、新しもの好きの若者を中心に人気を博しましたが、運転に不慣れなためケガ人が続出。危険な乗り物として、評判はよくなかったようです。
 明治の半ばまでには、現在のものとほぼ同じ構造の歯車・チェーン駆動式のセーフティ型が輸入されるようになります。しかし、イギリスやアメリカ製の自転車はひじょうに高価で、所有できたのはごく一部の富裕層のみ。時代の先端をゆく乗り物として、時に新聞ネタになるほどでした。一方で、いち早くその利便性と機動力に注目したのは逓信省。明治25(1892)年、電報配達用として自転車を採用します。続いて各デパートでも、配達用の商業車として、盛んに用いるようになります。明治29年(1896年)には日本人の手による最初の自転車競走が、上野不忍池畔で催されました。大衆娯楽の少なかった時代、自転車レースはかなり盛況だったようです。いよいよ明治末から大正にかけて、日本にも本格的な重工業時代が到来し、国産自転車の量産体制が整います。価格も安定し、一般人にも手の届くものになっていきます。昭和恐慌のさなかにあっても、需要は増え続け、「自転車は不況に強い」と評されたほどです。
 さて、みなさんは自転車にも税金が課せられていた時代があったことをご存知ですか。明治4(1871)年、東京において車税を徴収し、道路修繕費に充てることが定められました。初年度となった明治5年の対象はたったの2台。その後、地方税に移されますが、資産家の持ち物から商工業者の必需品(配達用)になるにつれ、自転車税は次第に負担の大きいものになっていきます。ついに国内保有台数が470万台を超えた昭和2(1927)年、東京で廃税運動が起こり、全国へと飛び火。結局、自転車荷車税が撤廃されたのは昭和33(1958)年のことでした。
 今や全国民の1.86人に1台の普及率を誇る自転車。おしゃれなデザインやカラー、高度な機能には目を見張るものがあります。環境にやさしく、手軽な交通手段として、またスポーツやレクリエーションの友として、交通ルール違反〜特に社会問題となっている路上放置など〜には十分に気をつけて、スイスイと乗りこなしたいものです。

参考文献・サイト
佐野裕二『自転車の文化史』文一総合出版
岸本 孝『走るクスリ 自転車の事典』文園社
自転車文化センター http://www.cycle-info.bpaj.or.jp/japanese/
(財)自転車産業振興協会 http://www.jbpi.or.jp/


100%  五月晴れのさわやかな風を切ってスイスイと…サイクリングが楽しい季節になりました。毎年5月は自転車月間です。わが国の自転車保有台数は約6859万台(平成15年自転車産業振興協会『自転車統計要覧』)、ざっと1.86人に1台の普及率になります。自転車最大の利点は、人間の脚力を動力源とし、燃料がいらないところ。騒音や排気ガスとも無縁です。それでも時速15〜20q前後と、歩いたときの5倍以上の速さで移動することができます。競技選手ともなると時速60qを出しますし、世界記録はなんと100q超です。ここで、自転車の始祖について尋ねてみましょう。
 時は18世紀末のフランス。なんと木馬(!)の前脚と後ろ脚にあたる部分に車輪をつけた乗り物(セレリフェールと呼ばれていた)を使った賭け事レースがおこなわれていました。木馬にまたがって懸命に両足で地面を蹴るのはオトナの騎手。こんにちでは笑い種になりそうなものですが、ここで注目すべきは、2つの車輪を前後(タテ)に並べて使ったという点。実は、この発想は人類の歴史上初めて、というべきものだったのです。その後、自転車は欧州の産業革命を背景に、まさに日進月歩の勢いで、開発・改良が進んでいきます。1817年には、ドイツのドライス男爵がセレリフェールにハンドルを付けたドライジーネを製作。これはほとんどが硬い木材でつくられていましたが、対岸のイギリスではすべて鉄製の丈夫なタイプが登場。いずれも商品化され、ホビーホース、ダンディホースなどの呼び名を与えられ、当時の新興勢力だった市民層に普及していきました。そして、イギリスの鍛冶屋カークパトリック・マクミランがペダルでこぐ方式(ただし現在のような回転式ではなく、歩くように前後に動かす)の自転車をつくったのは1839年。ここで“足蹴り時代”は終わりを告げます。
 ここで、SOAP(石けん)の語源となった伝説をご紹介します。古代ローマ時代、“サポーの丘”周辺にある土を洗い物に使うと、不思議なほど汚れが落ちると言い伝えられてきました。なぜでしょう? ここでは、いけにえの羊を焼いて神に捧げる儀式がおこなわれていましたが、滴り落ちた脂が、燃やした木のアルカリ性灰と混じり合い、そこに水分が加わって、天然の石けん成分が生み出されていたのでした。サポー(SAPO)が、SOAPに転じたという訳です。
 それから二十余年を経た1861年、フランスのピエール・ミショーが、前輪の軸にペダルをとりつけた新タイプを発表(現在の子供用三輪車の原理)。故障しやすく、動かすのに力が要ったマクミラン式にとってかわります。また、初めてブレーキがつけられ、安全面も向上しました。しかし、乗り心地はほめられたものではなかったようで、イギリスではボーン・シェイカー(骨ゆすり)と呼ばれました。しばらくして、前輪を大きくすればするほどスピードが出ることがわかり、前輪は巨大に(最終的には大人の背丈ほどに)、後輪はつけたしのように小さくなります。この改良型は、オーディナリィ(普通)型と呼ばれていましたが、あまり「普通」じゃないところがユニークですね。オーディナリィのデザインは優美で完成度が高く、今でもアンティーク自転車の図案として、しばしば登場します。
 試行錯誤の自転車の発達史に、一応のピリオドが打たれるのは1879年。イギリスのハリー・ローソンによって、現在のものと同じ方式の歯車・チェーン駆動のセーフティ型がつくられます。それから8年後、イギリスの獣医ダンロップが自転車用空気タイヤを発明するに至り、現在のものと遜色ない自転車がお目見え。行動半径を広げてくれる安全で快適な乗り物として、普及にも拍車がかかります。

参考文献・サイト
佐野裕二『自転車の文化史』文一総合出版
岸本 孝『走るクスリ 自転車の事典』文園社
自転車文化センター http://www.cycle-info.bpaj.or.jp/japanese/
(財)自転車産業振興協会 http://www.jbpi.or.jp/


100%  今回は4(よい)月26(ふろ)日「よい風呂の日」にちなみ、入浴の友「石けん」について、その歴史を尋ねてみましょう。
 石けんの最古の記録は、紀元前2500年頃のメソポタミアまでさかのぼることができます。シュメール人が残したタブレット(粘土板)には、製造方法がくさび形文字によって刻まれており、石けんは油とポタシュ(炭酸カリウム)でつくる、ポタシュはタマリンド、ナツメヤシ、マツカサ、カシワ、ブナの灰からつくると記されています。また、皮膚病には硫黄石けんを用いる事、と書かれるなど、そのほとんどは薬用であったと考えられています。一方、洋の東西を問わず、古くから用いられてきた洗浄料といえば、灰汁(アク)。植物を燃やした灰を水に溶かして得られる上澄み液には、炭酸カリウムが含まれ、そのアルカリ分が油を溶かすのです。
 ここで、SOAP(石けん)の語源となった伝説をご紹介します。古代ローマ時代、“サポーの丘”周辺にある土を洗い物に使うと、不思議なほど汚れが落ちると言い伝えられてきました。なぜでしょう? ここでは、いけにえの羊を焼いて神に捧げる儀式がおこなわれていましたが、滴り落ちた脂が、燃やした木のアルカリ性灰と混じり合い、そこに水分が加わって、天然の石けん成分が生み出されていたのでした。サポー(SAPO)が、SOAPに転じたという訳です。
 さて、こんにち石けんといえば、よい香りがするものの代名詞ですが、8世紀のヨーロッパで石けんづくりが盛んになった頃は、原料が動物油脂由来のため不快な臭いがするものでした。試行錯誤の末、オリーブオイルと海藻灰ソーダを使った匂わない石けんが開発され、12世紀以降、イタリア・スペインの地中海沿岸の各都市で工業的につくられるようになります。ちなみに日本語の「シャボン」は、石けん製造で隆盛を誇ったイタリアの都市サボナを語源としています。
 そのシャボンが日本に初めてもたらされたのは、1543(天文12)年、種子島にポルトガル船が漂着した際といわれます。当時は貴重な医薬品だったシャボンの最も古い記録は、石田三成(1560−1600)が、博多貿易商の神谷宗旦に宛てた礼状で、「しゃぼん」の文字が見られます。その後明治に入り、浴用と洗濯用の需要が拡大するに伴い、政府主導により国内の石けん生産が始まります。明治10年には、全国で13の工場を数えるまでとなりましたが、品質が悪く、とりわけ身体に使用する化粧石けんは舶来品に太刀打ちできなかったのです。そこで、輸入ブランドに対抗すべく、良質の銘柄石けんが量産され始めました。1890(明治23)年に発売された「花王石鹸」は、今でもお馴染みです。この頃、洗濯用は「洗い石けん」、化粧石けんが「顔石けん」と呼ばれていましたが、どちらも一般家庭にとっては高価であり、昔ながら生活の知恵〜洗顔料にはぬか袋や洗い粉(小豆、大豆などを臼でひいたもの)、洗濯には灰汁などを使う〜が活かされていました。石けんが広く普及するのは本格的な工業化を迎えた明治30年代後半、大正の声を聞いてからでした。

参考文献・サイト
江夏 弘『お風呂考現学』TOTO出版
左巻健男監修『石けん・洗剤100の知識』東京書籍
日本石鹸洗剤工業会 http://www.jsda.org/t00top/index.html
花王製品の相談室 http://www.kao.co.jp/soudan/answer/body/soap/ans_11.html


100%  針には動物の骨を、糸に植物の繊維などを使って、獣の皮などを縫い合わせる…石器時代からおこなわれてきた「縫う」行為。長らく手作業によっていた縫製の手段に、機械が取って代わるのは産業革命以降。1790年、イギリスのトーマス・セントが小さな穴を開けた布の上に糸を乗せ、それを下に押し込んで鎖縫いをする皮革用ミシンの製作に成功、特許を取得します。社団法人日本縫製機械工業会では、ミシンの発明200年を記念して、1991(平成3)年から3月4日を「ミシンの日」(3と4の語呂合わせであることは、お気付きですね)とし、ホームソーイングの普及促進に取り組んでいます。ちなみにミシンは、sewing machine(裁縫機械)の「マシン」が転訛したものといわれています。前述のセントによるミシンは、量産されることはありませんでしたが、1834年にはアメリカのウォルター・ハントが2本の糸を使う錠縫い式のミシンを開発し、これにより自動縫製の原理が確立されました。1850年代までには、現在のものとほぼ同じ構造のミシンが登場、アイザック・M・シンガー(シンガーミシンの創業者)によって改良が重ねられ、いよいよミシンは普及段階に入ります。
 日本へは、江戸後期に来航したペリー提督が、13代将軍徳川家定に献上したとも、1860(万延元)年、咸臨丸(かんりんまる、日米修好通商条約の批准書を交換するため訪米)がアメリカから持ち帰ったともいわれています。そして、明治の声とともに、輸入は本格化。洋装化の歩みに合わせて、普及台数も増えていきます。当初、大きなシェアを占めていたのはドイツ製のミシン。日本に市場を求めた、後発のシンガー社は、徹底した他社製品の下取りや、「月賦購入制度」つまり分割払いを導入し、どんどん販売実績を増やしていきます。
一方、パイン裁縫機械製作所(現・蛇の目ミシン工業)を興す小瀬與作は、“一人勝ち”のシンガー社に対抗すべく、純国産ミシンの開発製造に着手。同じ志を持つ技術者と共同し、ついに1929(昭和4)年、国内初の標準型ミシンを完成させます。しかし、高価なミシンをシンガー社のように“月賦制”で売ろうとするも、資金力がありません。そこで代わりに取り入れたのが月賦の頭金を「積み立ててもらう」方法。これにより、頭金が用意できなかった人たちも、憧れのミシンを手に入れられるようになったのです。
手回しミシンに始まったミシンの歴史。1930年代には両手が自由に使える足踏みミシンが主流となり、1950年代半ばには電動ミシンが登場、電子ミシン、そしてコンピューターミシンは日本が生みの親となりました。コンピューターミシンは、パソコンを通じて、図案をメモリーカードに取り込み、ミシン本体にセットするだけで、デザインした通りの縫い方や刺しゅうを完成させるというすぐれもの。ミシンは、縫う役割を超えて、自由な発想を手軽に表現できる機械へと進化を遂げたようです。

参考文献・サイト
日刊工業新聞社MOOK編集部編 『身近なモノの履歴書を知る事典』日刊工業新聞社
『モノづくり解体新書 番外編』日刊工業新聞社
『続・モノづくり解体新書 三の巻』日刊工業新聞社
社団法人 日本縫製機械工業会 http://www.jasma.or.jp/
シンガーミシン http://www.singerhappy.co.jp/sewing/index.html
蛇の目ミシン工業株式会社 http://www.janome.co.jp/


100%  2月1日は「テレビ放送記念日」。1953(昭和28)年のこの日、NHK東京放送局が、日本初となるテレビの本放送を開始しました。記念すべき第一声は「JOAK−TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」。午後2時、東京・内幸町の東京放送会館から発信されました。当時の受信契約数は866台、受信料は月額200円。ちなみに当時のテレビ受像機、いわゆるテレビの値段は約18万円、サラリーマンの初任給がおおよそ8000円の時代ですから、多くの人にとっては高嶺の花。駅前や電器店の「街頭テレビ」につめかけては、野球やプロレスに熱狂する姿がみられました。その後の“神武景気”の好況感の中で、テレビは冷蔵庫・洗濯機とならび「三種の神器」に挙げられ、7万円台の普及型も登場。テレビを囲んで一家団欒…が、日常の風景となっていきます。
さて、ここでテレビの歩みについて、駆け足で振り返ってみましょう。20世紀に入ると、世界では多くの科学者が開発を競い合っていましたが、テレビ放送(送受信ともに機械式)の実験に初めて成功したのは、イギリス人技師ジョン・L・ベアード(1888-1946)。1925(大正14)年のことです。翌年、日本では“テレビの父”浜松高等工業学校の高柳健次郎(1899-1990)が、送像側にニポー円盤(機械式)、受像側には世界で初めてブラウン管(電子式)を用い、『イ』の字を映し出しました。このときの走査線の数は40本。画像の精度を上げる、つまり走査線の数を増やすためには、送受信ともに電子式でおこなうテレビジョン・システムが必要でした。欧米諸国で実験放送が盛んに試みられる中、全電子式テレビがお目見えするのは1927(昭和2)年、アメリカのファイロ・T・ファンズワーズによる快挙でした。そして1933(昭和8)年、アメリカのウラジミール・K・ツヴォルキン(1889-1982年)がアイコノスコープと呼ばれる電子式送像機を発明するに至り、テレビ放送は、その実現に向けて大きな一歩を踏み出すこととなります。1935(昭和10)年、ドイツで世界初の定期試験放送が開始され、翌年にはイギリスBBCが一般向けに本格的な放送をおこなっています。
 わが国ではテレビ放送のスタートから7年後にはカラー放送が開始され、さらに従来のVHFに加えて、UHFによる中継用電波が割り当てられ、テレビ電波は全国の世帯93%をカバーするまでとなりました。そして、現在の方式である地上アナログテレビジョン放送は2011年(平成23年)7月24日に停波される予定となっており、いよいよ地上デジタルテレビジョン放送(地デジ)時代へと突入します。

参考文献・サイト
日本放送出版協会編 『〔放送文化〕誌にみる昭和放送史』日本放送出版協会
荒俣宏著『TV博物誌』小学館


100%  “空気・水・安全”、これは昔から日本人が考える「無料(タダ)モノ」だそうです。しかし、近年では少し様変わりしてきており、「日常生活のなかであまりコストを意識しないもの」として、「空気」「水」に次いで「太陽エネルギー(光・熱)」を挙げる人が増えています。省エネを合言葉に、自然エネルギー活用の気運を感じるとともに、安全といわれ続けてきた日本の治安の悪化について考えさせられる結果となっています。ちなみに8位には「ポケットティッシュ」がランクイン。これは繁華街などで配られる広告入りのポケットティッシュのことです。(データはダイキン工業『第2回現代人の空気感調査』2002年12月)。
なくてはならない空気。いくらタダとはいえ、その“質”も気になるところ。最も空気を意識する季節は? の問いに多くの人が「花粉のシーズン」と答えています(同『第1回現代人の空気感調査』2002年6月)。(社)日本電機工業会では、空気清浄機の需要が一気に高まる春先の花粉飛散シーズンに先駆けて、正しい理解を深めてもらうことを目的に、1月19日(いいくうき)を「空気清浄機の日」と定めました。この記念日は2006年からのスタートです。
 空気清浄機が日本に初めてお目見えしたのは、高度経済成長真っ只中の1962年。扇風機や換気扇の専門メーカー・松下精工は、ファンに3層構造のフィルターを取り付けた、わが国初の空気清浄機を売り出します。都市部の大気汚染が社会問題となるなど、空気清浄機への潜在ニーズは高いと見られていましたが、実際には鳴かず飛ばず。しかし1980年代に入って、アレルギー性疾患などが増えるにつれ、空気清浄機にこれまでにない注目と関心が集まります。そして折よく廉価品が登場したことも手伝い、普及に弾みがつきます。1986年には同社から煙センサー搭載の製品が発売され、使い勝手がアップ。最近では、空気清浄機の心臓部ともいえる集じんフィルターの性能がどんどん進化し、0.01ミクロン(1ミクロンは千分の1ミリ)未満の超微粒子を捕集できるタイプが登場しています。今や都市部を中心に、4軒に1軒という割合で使用されているといわれる空気清浄機。ハウスダスト(チリ・ホコリ)、タバコの煙、アレルギーの誘因となるアレルゲン(花粉やダニのフン・死骸など)、カビ胞子、雑菌、ウィルス、車の排気ガス、ホルムアルデヒド、生活臭などを一網打尽。ただし、一酸化炭素は除去できないことを付け加えておきましょう。

参考文献・サイト
日刊工業新聞社MOOK編集部編 『身近なモノの履歴書を知る事典』日刊工業新聞社
『続・モノづくり解体新書 二の巻』日刊工業新聞社
(社)日本電機工業会 http://www.jema-net.or.jp/
ダイキン工業(株)  http://www.daikin.co.jp/


100%  12月13日は「ビタミンの日」。1910(明治43)年のこの日、鈴木梅太郎博士が、米ぬかから抽出した、脚気(かっけ)を予防する成分「オリザニン」を東京化学会で発表したことにちなみ、2000(平成12)年「ビタミンの日」制定委員会によって定められました。博士の発表から1年後には、ポーランドのカシミール・フンクが同じ成分の抽出に成功、「生命(vital)に必要な」と「窒素を含むアミン化合物「(amine)」を合わせて、「vitamin」と名付けました。その後、いろいろなビタミンが発見され、中にはアミンの性質を持っていないものも含まれますが、名前はそのまま使われています。
 ビタミンという言葉は普段からよく見聞きしますし、実際に医薬品やサプリメント(健康補助食品)として摂り入れている方もいらっしゃることでしょう。ビタミンとは「極めて少ない量で、身体の代謝に重要に働きをしているにもかかわらず、体内で作り出すことができない化合物」と定義されます。体内では作れないので、食物からバランスよく摂取しなければならない、というわけです。人に必要なビタミンは13種類あり、水に溶けやすい「水溶性」と水に溶けない「脂溶性」とに大別されます。さて、いくつご存知ですか?
●水溶性(9種)・・・ビタミンC、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンB6、ビタミンB12、葉酸、ナイアシン(ニコチン酸)、パントテン酸、ビオチン
●脂溶性(4種)・・・ビタミンA、ビタミンD、ビタミンE、ビタミンK
 これらのビタミンが長期にわたり不足すると、それぞれに特有の欠乏症(たとえば、ビタミンB1は脚気、ビタミンCは壊血病、ビタミンAは夜盲症、ビタミンDはくる病)があらわれることが知られています。食生活が豊かになった今日、欠乏症の心配はまったくと言っていいほどなくなりましたが、極端な偏食・ダイエットによる予備軍、潜在的欠乏症が心配されています。そうした不足を補う目的で、薬やサプリメントに頼ることも多いようですが、摂りすぎによる害〜ビタミン過剰症に関しても、心に留めておいたほうがよいかもしれません。厚生労働省では13種のすべてのビタミンについて推奨量を、さらに、ビタミンB6、葉酸、ナイアシン、ビタミンA・E・Dについては「上限量」を定めています。上限量を超えて摂取し続けると、健康障害のリスクが高まるとされています。ビタミンを通常の食事で摂り入れている程度では、過剰症の心配はありません。しかし、医薬品やサプリメント等を利用する際は、定められた用法・用量を守るとともに、いくつかを組み合わせて摂取している場合は、ラベルに明記してある含有量を計算してみるとよいでしょう。推奨量や上限量は、「日本人の食事摂取基準(2005年版)」に詳しく記されています。

参考文献・サイト
NPO日本サプリメント協会著 『サプリメント健康バイブル』小学館
渡辺忠雄・榎本則行編『最新食品学−総論・各論−』講談社
「ビタミンの日」委員会 http://www.gak.co.jp/vitaminh/
日本ビタミン学会・(社)ビタミン協会 
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/vsojkn/gen-vit01.htm


100%  近代医学の偉大な発見のひとつといえば、「X線」が挙げられるでしょう。エックス線と聞いてピンとこなくても「レントゲン」といえば、ほとんどの人が経験済みなのではないでしょうか。メスを入れることなく、人体内部の撮影ならびに観察を可能としたX線は、1895年11月8日、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(1845〜1923)によって発見されました。“レントゲン”は発見者の名前にちなんでいるのですね。社団法人日本放射線技師会では、毎年11月2日から8日までを「レントゲン週間」としています。
 さて、レントゲンがX線を見つけたのは、まったくの“偶然”からでした。クルックス管(真空放電の実験を行う、内部に陰極をもつ真空ガラス管)を使って陰極線の実験をしていた際、管を厚い紙でおおい、研究室を真っ暗にしているにもかかわらず、通電すると近くに置いてあったスクリーン(シアン化白金バリウムを塗ったもの)が、緑がかった黄色に明るく光っているのを目にします。驚いたレントゲンは、クルックス管とのあいだに1組のトランプや2インチ(約5p)の厚さの本を置いてみましたが、それらに影響されることなくスクリーンは蛍光を発しました。当初、実験に失敗しているか、自分が幻覚を見ているのではないかと心配したというレントゲンですが、さまざまな実験を通じ、光線の性質を明らかにしていくなかで、歴史的な大発見であることを確信し、“正体不明”を意味するX線と名付けました。とりわけ注目したのは、物を透過する性質で、たとえば皮膚や筋肉は通過し、骨や金属はくっきりと写し出されました。かくも神秘的な現象を、初めて分かちあった相手は妻のベルタ。左手を6分かけてX線写真として撮影し、骨と指輪を写すことに成功します。聡明なベルタの驚き様に、レントゲンは大喜びだったといいます。この功績によりレントゲンは、1901年第1回ノーベル物理学賞を受賞しますが、科学の発展は万人に寄与すべきであると考え、特許などによって個人的に経済的利益を得ることは一切ありませんでした。そしてX線の正体は発見から17年の間、謎のままでしたが、ただちに医学の分野で応用され、今なお医療の現場ではなくてはならない診断方法として利用されています。
 X線の発見は、当時の物理学界に大きな反響を呼び起こし、翌1896年にはフランスの物理学者ベクレルが、ウラン鉱石からX線に似た光線が出ていることを見つけます。1898年にはポーランド出身の科学者キュリー夫人が、フランスで夫ピエールとともにウラン鉱石からラジウムとポロニウムを発見、放射能と放射線の存在を確認し、名付けています。さらに1899年、イギリスの物理学者ラザフォードは、放射線にはアルファ線、ベータ線、ガンマ線の3種があること、そして原子の中心には原子核があることを突き止めています。こうしてレントゲンのX線発見に始まり、多くの研究が重ねられていくなかで、放射線は医療、工業、エネルギー、農業など、さまざまな分野で利活用されるようになりました。

参考文献・サイト
マイヤー・フリードマン/ジェラルド・W・フリードランド、鈴木邑訳 『医学の10大発見〜その歴史の真実〜』ニュートンプレス
(社)日本放射線技師協会 http://www.jart.jp/


100%  私たちは“痛み”によって身体の異状を知ります。病気を治すための治療や手術もまた、多くは痛みを伴うものです。苦痛からの解放と克服は、今も昔も医学が掲げる最大目標です。
 薬を使って人為的・一時的に知覚を失わせる医療技術に「麻酔」があります。世界で初めて全身麻酔下における手術を成功させたのは、実はひとりの日本人。1804年10月13日、華岡青洲(はなおかせいしゅう、1760−1835)は自作の麻酔薬を使って、乳がんの摘出手術を行いました。日本麻酔科学会ではこの日を「麻酔の日」と定めています。
 紀州(和歌山県)で医師の子として生まれた青洲は、長ずるに及んで、京都でオランダ流の外科術を学びます。そこでは麻酔も施されず、苦しむ患者の姿がありました。心を痛めていた青洲は「中国の三国時代、『曼陀羅華(まんだらげ)』という薬草を使って、病人を眠らせて治療していた華陀という名医がいた」という話を耳にし、それからの人生を麻酔薬開発のために捧げると決心するのです。懸命な青洲のために、自ら人体実験を申し出たのが、嫁姑の確執を繰り広げていた母・於継と妻・加恵(この辺りは有吉佐和子の小説『華岡青洲の妻』に詳しい)。薬の副作用による加恵の失明という不幸に見舞われながらも、20余年を費やし、曼陀羅華(朝鮮あさがお)とさまざまな薬草を組み合わせた秘薬・通仙散(麻沸散)を完成させます。この麻酔薬を使って、前述の乳がん手術の他、瘤、舌がん、痔疾、結石などの難手術を次々と成功させ、青洲のもとには全国から多くの患者が訪れました。当時、残念ながらこの業績が世界に広がることはありませんでしたが、1954年、国際外科学会において青洲の偉業が発表され、シカゴにある付属の栄誉会館で「世界の外科医療に貢献した人物」として称えられています。
 人類は紀元前から、経験的に薬草・アルコールなどを麻酔や鎮痛薬として活用していきましたが、麻酔法に科学の目が注がれるのはルネッサンス期。19世紀以降は、次々と新しい成分や方法が開発されました。近代麻酔法の父といわれているのが、アメリカの歯科医師モートンで、1846年エーテル麻酔を用いた公開手術に成功しました。1853年には世界初の麻酔専門医スノーが、イギリスのビクトリア女王が第4子のレオポルド王子を出産する際に、クロロホルムによる無痛分娩を成功させたことで、麻酔は急速に普及していきます。
 麻酔は、体全体に行われる全身麻酔と、下半身など体の一部に施される局所麻酔とに大きく分けられます。また、麻酔方法として、麻酔ガスを呼吸とともに吸入させる、静脈麻酔剤を血管から注入する、直腸内に麻酔剤を入れる(主に小児)、脊髄や神経幹、皮膚などに麻酔剤を注射する、口腔などの粘膜面に塗る…などがあります。一番適切な麻酔薬、方法を選び、手術中だけではなく、術後の疼痛管理を行うのは麻酔科医。何よりもつらい痛みをコントロールしてくれる心強いお医者さまです。

参考文献・サイト
富士川游、小川鼎三校注『日本医学史綱要2』平凡社
酒井シヅ『絵で読む江戸の病と養生』講談社
(社)日本麻酔科学会 http://www.anesth.or.jp/
和歌山県情報館 http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/ren/web/ren11/rekishi.html


100%  9月9日は重陽(ちょうよう)の節句。菊の節句ともいわれ、菊花を浮かべたお酒を飲んだり、「着せ綿(わた)」といって菊の花に綿をかぶせて香りを移し、それで顔を拭いて長命を願ったりする習いがあります。今も昔も人々の大きな願い〜長寿と健康をおびやかすものに、急な怪我や病気があります。生命の緊急時に、俄然心強い存在となってくれるのが、救急業務・救急医療です。9月9日は「救急の日」。9(きゅう)9(きゅう)の語呂合わせも覚えやすいこの日は、救急業務ならびに救急医療に対する理解と認識を深めてもらうとともに、救急医療関係者の意識の高揚を図ることを目的に、昭和57(1982)年、消防庁によって定められました。
 患者を迅速に搬送し、適切な看護を施す救急活動は、今日、どの国でも日常的に取り組まれていますが、その起源は、戦争が組織的におこなわれ、傷病兵の救出が軍事活動の一環としてとらえられるようになったギリシャ・ローマ時代にさかのぼるといわれています。しかし、“救急”という概念が確立されるのは、18世紀末。戦場での緊急治療活動を定めたナポレオン指揮下のフランス陸軍においてです。1860年代のアメリカ南北戦争時は、北軍、南軍ともに救急活動に力を注ぎましたが、衛生面などの問題があり、思うような成果をあげることができませんでした。20世紀の初めには、いよいよ救急自動車が登場。当時は、病院や消防、警察のほか、タクシー会社、病院設備のレンタル会社、果ては葬儀屋(!)が兼業している場合が多く、いずれも医師やそれに準ずる資格を持つ専門家が同乗することはなく、速やかに最寄りの病院に搬送することが救急活動のすべでてした。近代的な救急技術が開発されていくのは1960年代以降。「救急医療」の発展と「救急制度」の展開が相互に影響を与えながら、急速に発展していきます。
 日本における救急業務は、1934(昭和9)年、横浜市と名古屋市において始められました。市町村ごとにバラバラだった救急車の形や装備が統一されるのは、1963(昭和38)年。消防法の改正により、救急業務は消防機関の業務として位置づけられることとなります。その後、先進諸外国と比べて低い救命率などが問題となり、1992(平成4)年、救命救急士制度が導入されました。それまで救急車の任務は患者を病院に運ぶことであり、救急隊員は止血や酸素吸入といった応急処置しかできませんでした。しかし、救急救命士は医師の指示を得ながら、より高度な救命行為をおこなうことができます。
 2004(平成16)年度の消防庁「救急・救助の概要」によれば、全国における救急出動件数は約503万件で、なんと約6.3秒に1回、救急車が出場していることになります。国民の27人に1人が救急車で搬送されていることになりますが、なかには風邪やかすり傷などでも「タクシー代わりに」一一九番通報するケースも多く、緊急性の低い出動については有料化する等の議論がなされています。

参考文献・サイト
総務省消防庁 http://www.fdma.go.jp/index.html


100%  夏休み。宿題そっちのけで遊んでばかりでは、そのうち“お灸を据えられる”ことになりかねませんよ。8月9日(8=はり、9=きゅう)は「鍼灸の日」。インドの伝統医学アーユルヴェーダと並び、世界で最も古い起源を持つといわれる「中国医学」は、鍼・灸をはじめとして、あんま、気功、漢方薬、薬膳、太極拳、呼吸訓練法などがあり、その多くは私たち日本人にとってもおなじみです。
 少なくとも3000年の歴史をもつといわれる「鍼灸」は、黄河流域を中心とした北方圏にルーツをもつといわれます。土地がやせて、植物の種類も少なかった当域では、煎じ薬などに頼れなかったため、鍼灸やあんまなどの物理療法が生まれました。一方、さまざまな種類の植物に恵まれた揚子江流域および南方の地域では、薬草を見つけ、それらを煎じて飲む漢方薬が発達したとされています。口伝えによって連綿と継がれてきた鍼灸の経験則や理論体系は、戦国時代(紀元前403−221年)からまとめられ始め、秦から漢代にかけて「黄帝内経(素問・霊枢)」に編まれ、これが中国医学の原典となっています。さて、「病気を治す」という同じ目的に立つ西洋医学と中国医学ですが、その基本的な考え方には大きな違いがあります。病原菌やがん細胞などの病原物質によって引き起こされた(とする)病に対して、手術や薬によってアプローチしていく西洋医学に対し、中国医学では身体はひとつの小宇宙であり、心身のバランスに乱れがあったときに病気が起こるとしています。鍼灸や漢方薬・手技は、身体にもともと備わっている自然治癒力を高めるためのものであり、それらを施すことで患者自身が病を癒していくというわけです。中国医学が病気ではなく“病人を治す”といわれるゆえんです。
 日本では、允恭天皇(いんぎょう:412−453年)のころ、新羅(しらぎ:古代の朝鮮半島南部の国)からきた鍼灸師に脚の治療を受けた、とあるのが鍼灸に関するもっとも古い記録です。その後、仏教の伝来とほぼ時を同じくして、本格的に中国から伝えられ、701(大宝元)年に制定された大宝律令には、鍼博士が鍼生(弟子)を教育することなどが記載されていて、鍼灸は国の医療として取り入れられていきました。鎌倉・室町時代になると、僧侶のなかに鍼灸医術を得意とする「僧医」が多くあらわれ、仏教とともに鍼灸を普及させていきます。とりわけ灸は、手軽な民間療法としての地位を確立していきます。安土桃山時代には京都の御薗意斎(みそのいさい)により、それまでの鉄鍼のほかに金や銀製の鍼がつくられ、江戸時代には杉山和一が、現在も使われている「管鍼法(細い筒に針を入れて皮膚に打ち込む方法)」を考案するなど、日本人の体質に合わせた繊細な鍼灸術へと進化してきました。
 長らく東洋のものとされた鍼灸ですが、アメリカ等のマスコミで大々的に効果が紹介されるにつれて、注目を集めることとなり、科学的研究・評価が注がれてきました。ついにはWHO(世界保健機構)からも適応疾患が認められるなど、医師の診察によらない医療=代替医療として、世界各国で広く取り入れられるようになっています。

参考文献・サイト
社団法人日本鍼灸師会 http://www.harikyu.or.jp/
林 義人『代替医療革命』廣済堂出版
蒲原聖可『代替医療〜効果と利用法』中公新書
本多勝一『はるかなる東洋医学へ』朝日新聞社


100%  7月18日は「光化学スモッグ」の日。1970(昭和45)年のこの日、日本では初めての光化学スモッグが発生。東京都杉並区で体育の授業を受けていた高校生が突然、目の痛みや頭痛を訴えて倒れ、40数名が病院に運ばれるなど、都内では約5200人、埼玉県では400人余りの被害者を出しました。
 1940年代にアメリカ・ロサンゼルスで、その発生が報告され、当初「ロサンゼルス型スモッグ」とよばれた光化学スモッグ。これは、自動車や工場などから排出される窒素化合物(NOx)や炭化水素が、強い紫外線を受けて光化学反応を起こし、オゾン、PAN(パーオキシアセチルナイトレート)、アルデヒドなどの「オキシダント(過酸化物の総称)」を含むスモッグとなった状態のことをいいます。「スモッグ」とは煙(スモーク)と霧(フォグ)の合成語で、もともとは石炭が一度に大量に消費されることによって生じる濃い煙のことを指していましたが、光化学スモッグも実際に白くもやがかかったようになります。オキシダントは強い酸化力を持ち、高濃度では眼・のどへの刺激や呼吸困難を招き、植物の生育にも影響を与えます。1973(昭和48)年、当時の環境庁ではオキシダント濃度の環境基準値などを定め、2倍の濃度が続けば注意報を、4倍では警報を発令することとしました。深刻な社会問題となっていた光化学スモッグが改善傾向をみせるのは、自動車エンジンの改良や工場に対する大気汚染物質の排出規制が進んだ1970年代後半以降。1980年代ともなれば警報が発令されることもなくなり、私たちは光化学スモッグを克服したかにみえました。
 しかし近年、忘れ去られていた公害・光化学スモッグが都市部で再発生しています。2002年7月には全国で18年ぶりとなる光化学スモッグ警報が千葉県で発令されました。注意報が出される回数も年を追うごとに増える傾向にあります。そして1970年代と大きく様相が異なるのは、原因物質が減少しているにもかかわらず、発生しているという点です。その要因として「紫外線の増加」「ヒートアイランドの影響」「(原因物質の)海外からの飛来」などの仮説が立てられていますが、さらなる研究が待たれています。
●光化学スモッグから身を守る! 注意報などが発令されたら・・・
 光化学スモッグは、主に4月から10月にかけて(特に太平洋高気圧に覆われる7〜8月)、日差し・気温ともに高く、風が弱い、などの気象条件がそろったときに発生しやすくなります。光化学スモッグ注意報が発令されたときは、@なるべく屋外に出ないようにする(気管支ぜん息の既往症のある人、乳幼児、高齢者などは、特に注意が必要)、A屋内においても窓やカーテンを閉める、B眼がチカチカする、涙が出る、のどが痛いなどの症状が出たら、最寄りの保健所に連絡する。洗眼やうがいを試みても良くならない場合は医師の診察を受ける、など各自が十分に注意する必要があります。また、環境省では、光化学スモッグの注意報・警報の発令状況と大気汚染測定結果(時間値)をチェックできるサイト(携帯版)「そらまめ君(大気汚染物質広域監視システム)http://sora.nies.go.jp/」を開設しています。

参考文献・サイト
20世紀の日本環境史/北海道大学大学院 教授 石井邦宣監修
社団法人産業環境管理協会
酸性雨と大気汚染/片岡正光・竹内浩士 三共出版
環境省大気汚染物質広域監視システム
   http://w-soramame.nies.go.jp/


100%  6月11日は雑節のひとつ「入梅(にゅうばい)」。立春から数えて127日目にあたるこの日から約30日間が「梅雨」と呼ばれます。もちろんこれは暦の上でのこと。南北に長い日本では地方によって1カ月以上のずれがある上、北日本においては梅雨の現象は顕著ではありません。気象庁から出される「梅雨入り」「梅雨明け」が季節の話題となりますが、訂正したり、取り消されたりすることもあり、いかに科学技術が進歩したとはいえ、気まぐれなお天気が相手では苦労も多いようです。梅雨の語源は「梅の実が熟する頃」からきているようですが、黴(かび)が生じやすいことから「黴雨(ばいう)」の文字も当てられます。
 高温多湿でカビが生えやすい時期に心配されるのが「食中毒」です。食中毒は@細菌性(サルモネラ属菌、腸炎ビブリオ、カンピロバクター、ブドウ球菌、O-157など)、Aウイルス性(ノロウイルス)、B原虫類、C自然毒(ふぐ、毒キノコ、有毒植物など)、D化学性(重金属、農薬など)に分けられます。生活環境における衛生状態が格段に向上した昨今ですが、食中毒の患者数は過去45年間ほとんど変化なく、毎年2〜3万人を数えます。一方、食中毒の発生原因は、食環境の変遷とともに様変わりしていく傾向にあります。魚介類が食卓の中心だった時代は、海産性の生鮮品と密接にかかわる腸炎ビブリオが多く見受けられました。その後、食生活の欧米化に伴い、サルモネラ属菌やウェルシュ菌、カンピロバクター菌など、食肉を由来とする菌が増えています。また近年では、ノロウイルスによる冬期の食中毒が増えている点も懸念されます。
 食中毒の発生場所は、全体の約20%を家庭が占めるという統計があります。これは飲食店に次ぐ数字。以下に、家庭でできる食中毒予防策をご紹介します。まず購入にあたっては、新鮮なものを選び、表示がある場合は消費期限なども確認します。冷蔵や冷凍などの温度管理が必要な食品を購入したときは、寄り道などせずに、なるべく早く持ち帰り、すぐに冷蔵庫に入れるようにします。家庭での保存にあたって気をつけたいのが、冷蔵庫や冷凍庫の詰め過ぎ。容量の7割ぐらいを目安としましょう。庫内の温度上昇を防ぐためにも、ドアの開閉はすみやかに。しかし、冷蔵庫の過信は禁物です。食材は早めに使いきるようにします。そして、調理前にはもちろん、生の肉・魚・卵を取り扱ったあとも、手指をせっけんでしっかりと洗います。包丁やまな板などの調理器具も、食材が変わるごとに(特に生の肉・魚は注意が必要)、こまめに洗浄します。冷凍食品などは短時間で解凍し、一度で使い切りましょう。使わないからといって冷凍・解凍を繰り返すと食中毒菌が増える場合があります。調理するときは、食材の中心部まで火を通し、75℃以上で1分以上加熱します。できあがった料理はすぐに食卓へ。作り置きをする場合は冷蔵または冷凍し、食べるときは十分に加熱します。食中毒予防の基本は「(菌やウイルスを)付けない・増やさない・やっつける!」。しっかり守って、夏を乗り切りましょう。

参考文献・サイト
厚生労働省 食中毒・食品監視関連情報
   http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/
食品衛生の窓
   http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/shokuhin/
財団法人ちば県民保健予防財団
   http://www.kenko-chiba.or.jp/
社団法人日本食品衛生協会
   http://www.n-shokuei.jp/


100%  今回は5月14日の「種痘記念日」にちなみ、天然痘のお話です。怖がらずにお付き合いください。古来、人類はさまざまな伝染病に苦しんできましたが、天然痘もそのひとつ。インド発祥とされるこの伝染病は、天然痘ウイルスによって発病。高熱に引き続いて、化膿性の発疹ができ、高い確率で死に至ります。また、運良く治ったとしても、厄介なあばた(痘痕)を残す陰惨な病だったのです。古くはエジプトのラムセス5世(B.C.1157没)のミイラの顔面にも、天然痘の病変と思われる痕跡がみられます。ヨーロッパへは十字軍遠征(12世紀頃)の折に伝わり、16世紀以降は繰り返し大流行が起こりました。しかし、麻疹(はしか)などと同様、一度感染すると生涯を通じてかからないことが経験的に知られており、天然痘患者の膿疱を未感染者に接種する人痘種痘法が、危険性を省みずおこなわれてきました。そんななか、イギリスの一開業医だったエドワード・ジェンナー(1749-1823)は、牛の世話をしている女性から「牛痘(ウシがかかる天然痘、人に感染しても軽い症状ですむ)を病んだことのある人は天然痘にかからない」と聞きます。ジェンナーは、牛痘の感染が天然痘に対する抵抗力をつくったのではないかと考えます。その仮説を証明するために研究や実験を重ね、1796年5月14日、8歳の少年に牛痘を接種(種痘)し、その後、天然痘を植えても感染しないことを確認しました。これがワクチンによる「予防接種」の第一号であり、ジェンナーは人為的に抗原となる病原体を植えつけることにより、より恐ろしい病原体から身を守る免疫をつくることに成功したのです。当初、ジェンナーの種痘は賛否両論の嵐のなかで迎えられました。しかし、成功例が増えていくにつれて、その効果は広く認められるようになっていき、種痘は予防法として普及していきます。
 日本における天然痘は、ヨーロッパよりも格段に早く、6世紀の仏教の伝来とともに大陸から伝わってきました。735(天平7)年から1838(天保9)年までの1100年余りの間に、58回の大流行があったといわれ、時に権力者の衰退を招くほどでした。牛痘種痘法は江戸時代後期に伝わり、明治以降は政府主導のもとに実施されますが、明治から大正にかけて少なくとも4回の流行を経験しています。それでも、死者の数は年を経るごとに減っていき、1955(昭和30)年、1人の患者を最後に、日本での天然痘は撲滅されました。世界的にも、1960年代にWHO(世界保健機関)による対策が強化され、ついには1980(昭和55)年、WHO総会において「天然痘根絶」が高らかに宣言されました。さて、過去のものと思われていた天然痘の脅威ですが、2001(平成13)年9月に起きたアメリカ同時多発テロと、それに続く炭そ菌テロの影響により、生物兵器への悪用が懸念され、各国でワクチンの備蓄が進められています。一度は人間の英知と努力によって克服した伝染病、再び人間の手によってよみがえさせられることだけは、決してあってはならないことです。

参考文献・サイト
緒方洪庵と大坂の除痘館/古西義麿著 東方出版
東京都薬剤師会北多摩支部 http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_12.html


100%  古くは明眸皓歯(めいぼうこうし:美しい目と白い歯)、そして、ひと頃話題となったCMで“芸能人は歯が命”と謳われる通り、白く美しい歯は、今も昔も美の象徴です。食べ物を咀嚼(そしゃく)する、言葉の発音を明瞭にする、口元のバランス・容貌を保つ等、体の重要な機能を果たしていることも忘れてはなりません。4月18日は「よ(4)い(1)歯(8)の日」。ちなみに11月8日は・・・そうです、「いい(1・1)歯の日」です。どちらも日本歯科医師会が定めています。
 「よい歯」の最大の敵は、何といっても虫歯です。さまざまな研究から、虫歯の歴史は、人類の食生活の変化とともに刻まれてきたことがわかっています。たとえば狩猟や採取生活を行っていた頃の人類の化石からは、あまり虫歯の跡は見つかっていません。たびたび見受けられるようになるのは、農耕生活を始めた約1万年前から。でんぷん(糖質)を含む米や麦、芋などを、熱を加えて調理加工して、より虫歯になりやすい環境で食べるようになったことが原因のようです。そして、爆発的に増えていくのは、各国において砂糖が大量に流通するようになった時代からといわれています。これには虫歯ができるメカニズムが大いに関係しています。口の中にはさまざまな細菌がいますが、なかでもストレプトコッカス・ミュータンスは、糖分が大好き。歯の間などに残った食べカスを原料にして、歯の表面にネバネバとした、水に溶けない塊をつくります。これが歯垢(しこう)です。歯垢のなかの細菌は、しょ糖を次々と分解して、乳酸などの酸をつくります。体のなかで一番硬いといわれる歯の表面のエナメル質も、この強い酸にあってはひとたまりもなく、溶け出していき(脱灰)、虫歯になるのです。
 古今東西、人々が昔から虫歯に悩まされていたことは想像に難くなく、古代エジプトのミイラからは、歯を削って金を詰めるなどした治療痕が多く見つかっているそうです。世界で最も古い入れ歯(らしきもの)は、紀元前2500年前のエジプトの遺跡から発見されています。日本でもすでに奈良時代の頃から、入れ歯があったようです。虫歯や歯周病を防ぐ方法は、ていねいな「歯磨き」に尽きるのですが、楊枝などを使って歯の隙間にはさまった食べ物を取り除くことは、原始の時代から行われていたとみられています。仏教を開いた釈迦は、特に歯磨きの大切さを説いています。その方法は、菩提樹の小枝を噛んでブラシのようにほぐして磨くといったものでした。こうした「歯木」は歯ブラシの原形ともいえるものです。「歯を磨く」という考えは、仏教の伝来とともに日本へもたらされました。以来、1400年の伝統です。虫歯ゼロを目指して、毎日の暮らしの中で、しっかり実践していきたいものですね。

参考文献・サイト
歯の健康学/江藤一洋編 岩波新書
おもしろい歯のはなし60話/磯村寿賀人 大月書店
おもしろ歯の博物誌/斎藤安彦 創英社、三省堂書店
日本歯科医師会 http://www.jda.or.jp/
全日本ブラシ工業協同組合 http://www.ajbia.or.jp/


100%  WHO(世界保健機関)によると、世界では毎年約200万人もの人が結核によって命を落としています。結核の歴史は人類の歴史とともに古く、紀元前5000年頃のものとされる人骨に、その痕跡を認めることができます。はっきりとした原因もわからず長らく人類を苦しめてきた病の原因、結核菌がドイツの細菌学者ロベルト・コッホ博士によって発見され、ベルリン大学で発表されたのは1882年3月24日。これにより診断と治療への道が開かれ、1944年特効薬ストレプトマイシンが発見されたのを筆頭に次々と抗結核薬が開発されました。しかし、前述のように世界的には未だに根絶できていないという状況を受けて、1997年、WHOでは世界保健総会において3月24日を「世界結核デー」と定めました。
 日本では、縄文時代に大陸から伝わったとみられていますが、戦国時代まではごくまれな病気で、江戸時代を下るにつれて徐々に拡がっていきました。時代劇に出てくる「労咳(ろうがい)」とは結核のことです。18世紀に起こった産業革命と都市への人口集中とともに、爆発的な流行を引き起こした西欧諸国のように、日本においても明治以後、急速に蔓延(まんえん)していきます。紡績業などに携わった女工の寄宿舎や軍隊など、劣悪な環境下での集団生活が結核菌の温床となったのです。このあたりの様子は、女工哀史を描いた小説・映画「あゝ野麦峠」で知る人も多いでしょう。1950年頃まで年間の死亡者数は10数万人にのぼり、「国民病」「亡国病」などと恐れられた死因の第1位でした。その後、医療や生活水準の向上により、過去のものとなったと思いきや、2004年に新たに結核と診断され登録された患者は31,638人、死亡者は2,336人を数えています。いまだに最も危険な感染症であることに変わりはありません。
 結核は、重症患者(タンの中に結核菌が出ている人)のせきやくしゃみによって飛び散った結核菌を吸い込むことによって(空気感染)、主に肺に炎症を起こす病気です。しかし、感染しても必ず発病するわけではなく、通常は身体の免疫機能が働いて、結核菌の増殖を抑えます。こうした休止期間を経て、加齢や糖尿病、大きな手術などで抵抗力が落ちた時に、眠っていた体内の菌が目を覚まし、発病するというケースが増えています。また、自己判断で治療を中断してしまったことによる薬剤耐性菌の発生も、新たな問題として挙げられています。
 こんにち結核は治る病気です。早期発見・治療に努めることで、本人の重症化や感染の拡大を防ぐことができます。結核の初期症状は風邪とよく似ています。2週間以上の長引くせき、タン、微熱、寝汗、疲労感が続いたら、迷わず病院へ。こうした症状が1ケ月以上続く人の25人に1人が、結核患者と診断されています。

参考文献・サイト
結核の文化史/福田眞人 名古屋大学出版会
忍び寄る感染症/町田和彦 早稲田大学出版部
財団法人結核予防会結核研究所 http://www.jata.or.jp/
日本医師会健康の森 http://www.med.or.jp/forest/index.html


100%  2月20日は「アレルギーの日」。石坂公成・照子両博士(夫妻)がアレルギー疾患の診断を大きく進歩させた「IgE抗体」を発見し、1966(昭和41)年のこの日、アメリカのアレルギー学会で発表したことにちなみ、1995年、(財)日本アレルギー協会が定めたものです。アレルギーという症状が科学的かつ本格的に解明され始めたのは、20世紀に入ってからですが、古くから人々を苦しめてきたことは記録が物語っています。紀元前3000年頃に君臨した古代エジプト王の墓標には、ハチに刺されて死亡したことが刻まれており、これはハチアレルギーによるアナフィラキシー・ショック(アレルギー症状が全身に及びショック状態を引き起こす)と考えられています。また、ギリシャのルクレチウス(B.C96〜55年)は、「ある食べ物は、人によっては毒になる」という意味のことを述べており、食物アレルギーではないかと推測されます。ヨーロッパでは中世の頃に、木あるいは草の花粉によって“感冒症状”がでることがすでに知られていました。これは日本人の10人に1人が罹っているといわれる花粉症です。
 「私、パソコンアレルギーなの」などと日常会話の中でもよく使われるアレルギーという言葉は、1906年、オーストリアの小児科医ピルケによって提唱されました。Allergyとは、ギリシャ語のallos(異なった)とergon(作用)を組み合わせたもので、「変わった反応」を意味します。そもそも人間の体は、細菌やウィルスなどの外敵が侵入した際に、生体を守るための防衛システム=免疫反応が働きます。しかし、体にとって害ではない花粉や食物などを敵と認識し、それらに過剰な反応を起こすことで、気管支喘息や花粉症、食物アレルギー、アトピー性皮膚炎、じんましんといったさまざまな症状を引き起こすのがアレルギー。現在、日本人で何らかのアレルギーに苦しむ人は30%を超えると推定され、さらに年々増加の傾向にあります。欧米の先進諸国でも同様の現象がみられていますが、このようにアレルギー性疾患が世界的に急増している原因としては、食生活の変化(食品添加物の摂取も含めて)、大気汚染や環境の悪化、断熱・気密性の高い住居におけるダニ、カビの発生、合成洗剤や薬品等の化学物質、ストレス社会の影響・・・などがあるといわれています。現代病ともいえるやっかいなアレルギーは、まだ謎が多く、明らかにされていない点もありますが、まずはアレルゲン(抗原:原因となる異物)を取り除くことが治療の第一歩。原因物質は、血液検査や皮膚テストによってわかりますから、アレルギーかなと思ったら、決して自己判断はせず、医師の診断をあおぎましょう。

参考文献・サイト
アレルギーとアトピー/矢田純一 裳華房
からだとアレルギーのしくみ/上野川修一 日本実業出版社
詳しくわかるアレルギーの薬/中川武正 法研
財団法人日本アレルギー協会 http://www.jaanet.org/


100%  1月9日は「風邪の日」。1795(寛政7)年のこの日、第4代横綱・谷風梶之助が風邪のため亡くなったことに由来します。「谷風の前に谷風なく、谷風のあとに谷風なし」と称えられた勧進相撲黄金期の主人公は、本名を金子与四郎といい、1750(寛延3)年、名字帯刀を許された仙台の豪農に生まれました。幼少の頃からずば抜けた身体能力を持ち、五斗俵を一度も休むことなく1里半(約6q)も持ち運んだとか、四斗俵を両手に持って柏子木がわりに打ったとか、怪力にまつわる逸話には事欠きません。189p、162sの堂々たる体躯は、当時はさぞかし目を引いたことでしょう。かつて力士の最高位は大関でしたが、その中でも最も優秀な力士に対し、相撲の家元・吉田司家から与えられたのが「横綱」の称号。谷風は、寛政元(1789)年、吉田司家から初めて横綱免許を授与された力士であり、力量だけではなく人望もある大横綱でした。優勝相当成績21回、九場所(5年間)で63連勝。「土俵のうえでワシを倒すのは無理。ワシが横になっているところを見たければ風邪に罹った時に来い」と豪語したときに流行した感冒は「たにかぜ」とよばれました。それから10年余りのち、谷風は皮肉にも流感によって命を落とします。まだ現役の44歳でした。
 人は年に平均5〜6回風邪を引くといわれます。風邪とは正式には風邪症候群、または風邪疾患群といい、主にウィルスによって引き起こされる呼吸器系の急性炎症をいいます。風邪の原因となるウィルスは200種類以上あるといわれ、感染したウィルスによって症状に違いが見られます。なかでも最も恐れられているのが、インフルエンザウィルスによるものです。高熱と強い全身症状をもって急激に発症し、高齢者や小児は時に重症化することがあります。また、強い感染力が特徴で、またたく間に流行が拡大します。これまでにも1918年のスペイン風邪、1957年のアジア風邪、1968年の香港風邪、1977年のソ連風邪など、世界的な猛威をふるいました。ちなみにインフルエンザという言葉は、14世紀イタリアのフィレンツェでつかわれていた「寒さの影響」「星の影響」を意味する“インフルエンツァ”が変化したものといわれています。
インフルエンザは咳やくしゃみ、つばなどの飛沫(ひまつ)とともに放出されたウィルスを吸入することによって感染します。流行している間は、人混みを避けたほうがよいようですが、現実的には難しいですね。また、インフルエンザウィルスは湿度に弱い性質があるので、室内では加湿器などを使って適度な湿度(50〜60%)に保つことがすすめられています。マスクも一定の効果があるようです。体を暖かく保つ、帰宅時には手洗い・うがいを行う、十分な休養とバランスのとれた食生活で常日頃から体力や免疫力を高めておく・・・などの基本的な心がけが、風邪予防の近道のようです。

参考文献・サイト
厚生労働省 http://www.mhlw.go.jp/index.html
国立感染症研究所感染症情報センター
http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/
healthクリック http://www2.health.ne.jp/
大相撲ミニ事典/新山善一 東京新聞出版局


100%  今では「電話」といえば、携帯電話をイメージされる方が多いかもしれませんね。2004年3月現在、携帯電話・PHS加入者数は約8666万人(総務省調べ)、全人口の約68%が手にしていることになります。一方、加入電話(固定電話)は1997年の6,153万台をピークに、2002年には5,100万台まで減少しています。これも時代の流れなのかもしれません。
 12月16日は「電話の日」。1890(明治23)年のこの日、東京−横浜間で日本初の電話事業が始まりました。アメリカのグラハム・ベルが電話を発明してから14年後のこと。日本は世界でいちばん早くベル電話機を輸入し、官庁などで実験的に使用していましたが、電話創業となると世界で31番目。当初の加入者数は、東京155名、横浜42名でした。1899年には、東京−大阪間が開通し、その翌年、新橋駅と上野駅に日本初の公衆電話(みずから働く、自働電話と呼ばれました)が設置されています。
 電話を発明した人物は、前述のグラハム・ベル(1847-1922)とされていますが、実は、その栄光の陰に埋もれてしまった人物がいます。エリシャ・グレイ(1835-1901)です。1876年2月14日、奇しくもベルとグレイは同じ日に電話の特許申請を行います。運命を左右したのは時間。ベルは午前11時頃、グレイは午後1時頃の出願で、わずか2時間の差でした。一方、発明王・トーマス・エジソン(1847-1931)は、その1年後、ベルの電話機を改良し、炭素型マイクを発明。ベルのものと比べて3倍以上の感度があったこのマイクは、日本でもつい最近まで“黒電話”に使われていたものであり、100年以上にわたって支持された性能を誇っています。
さて、誕生の地アメリカにおいてさえ、初めは「電気仕掛けのおもちゃ」と揶揄された電話ですが、1876年10月、合衆国建国100周年を祝う万国博覧会において、著名な科学者を前に行った公開実験が成功を収めるや否や、急速にその存在が知られていきます。ちなみにベルの電話機を初めて通った外国語は、二人の日本人留学生が発した日本語であったとされています。ベルはこの時、「日本語でも通じるのだから、世界で通用する」と思い至ったのだとか。現在、世界最大手の情報通信会社として知られる「AT&T」は、ベル自らが設立した世界初の電話会社が前身となっています。

参考文献
明治電信電話ものがたり/松田裕之 日本経済評論社


100% 11月3日は「ハンカチーフの日」。1983(昭和58)年、日本ハンカチーフ連合会が定めたものです。「なぜこの日が?」と理由をお話しする前に、ハンカチの歴史を紐解いてみましょう。
古代エジプトの時代には、すでに存在したと見られているハンカチ。後世の私たちが知る手がかりは遺跡や古墳からの出土品にありますが、ダシュール王女(紀元前3000年頃)の墓から発見された麻の端切れは、それが手をふいたり、汗を押さえたりするための布、すなわちハンカチだったのではないかと推測させます。長らく高貴な人々、または男性のものとされたハンカチの事象が変わってくるのは中世に入ってから。女性や広い階層の人々に広がり、ヨーロッパ各地で婚約のしるしとしての役割を担うようになります。現在のエンゲージリングのようなものでしょうか。16世紀も後半になると、レースや刺しゅうが施され、ハンカチはその装飾性を高めていきます。この頃のハンカチの多くは、大判の四角い麻製だったようですが、なかには四隅に金や銀のタッセル(飾り房)がついているものもありました。なかなかおしゃれですね。
 さらにハンカチのファッション性が競われるようになるのは、18世紀。それまでの正方形に加え、長方形、三角形、長円形などが登場し、精緻なレースや刺しゅう、時には宝石などをあしらわれるようになります。こうした豪華なハンカチは、上流階級の人々のアクセサリーになり、 “レースで家柄がわかる” とまでいわれたフランスの宮廷では、美しいレースを手に入れるためにお金と情熱が注がれ、それが技術の向上へとつながっていきました。そして、様々だったハンカチの形が統一されることになるのはルイ16世の時代。王妃マリー・アントワネットの進言によって「国内のハンカチはすべて正方形にせよ」という布告が出されます。冒頭で述べた「ハンカチーフの日」はマリー・アントワネットの誕生日(11月2日)に最も近い祝日という理由で11月3日と決められました。
 日本にハンカチがもたらされるのは、明治に入ってから。鹿鳴館時代から急速に広まっていったといわれています。そして、今や日本は世界で一番のハンカチ・マーケットにまで成長しました。紙ナプキンやエアタオル、携帯用ティシューの普及などにより、若い世代を中心にハンカチを持たない人が増えているようですが、バッグやポケットに入っている清潔なハンカチは、やはり身だしなみの基本。出掛けるときには「ハンカチ持った?」と自分に問いかけたいものです。

参考サイト
ブルーミング中西株式会社 http://www.blooming.co.jp/
Mode21.com http://www.mode21.com/fashion/handkerchief.html


100%  空の透明度が高くなる秋から冬は、天体観測に最適なシーズンです。
 10月2日は「望遠鏡の日」。1608年のこの日、オランダのメガネ技術者ハンス・リッペレイ(?-1619年)は、遠くのものが近くに見える望遠鏡の特許権を、オランダ国会に請求しました。
 申請は、類似品があるとして却下されますが、これが望遠鏡の始まりといわれています。噂を聞きつけ、さっそく購入したのはオランダ軍。
 入港する船を、敵か味方かいち早く判断するために活用しました。初期の望遠鏡は「スパイグラス」と呼ばれましたが、それなりの理由があったというわけです。
 さて、望遠鏡を遠くにいる敵ではなく、夜空に向けた人物がいました。
 イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイ(1564-1642年)です。
 リッペレイの望遠鏡に改良を加えた自作品で天体観測を続けたガリレオは、月にはクレーターと山があること、木星には4つの衛星があること、銀河は無数の星から成り立っていること、などを発見しました。
 そして、惑星が太陽のまわりを公転しているというコペルニクスの理論を支持するに至り、宗教裁判にかけられた事件は有名です。
 同じ頃、ドイツの数学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630年)は、凹レンズと凸レンズを組み合わせたガリレオ式望遠鏡を改良し、1611年、凸レンズ2枚を使った「ケプラー式望遠鏡」をつくりあげます。
 これは像が上下さかさまになるものの、高い倍率でも広い視野が得られるといった特長がありました。
 現在でも屈折望遠鏡のほとんどが、この方式でつくられています。
 すぐれた望遠鏡を得たケプラーは観測を重ね、天文学史上もっとも重要な発見のひとつといわれる、“ケプラーの法則”を見出します。
 しかし、ガラスのレンズで光を集める望遠鏡では、波長によって異なる場所に焦点が結ばれるため、対象物がボケて見えるという欠点がありました。
 それを解決したのが、“万有引力の法則”でつとに有名なイギリスの数学者・天文学者のアイザック・ニュートン(1643-1727年)です。
 早くから屈折望遠鏡の限界を感じていたニュートンは、1668年、凹面鏡を使って光を集める「反射望遠鏡」を完成させました。その後、技術の進歩とともに、さまざまな方式の精度の高い望遠鏡がつくられ、宇宙の新しい発見を次々ともたらしてくれました。
 日本での望遠鏡の歴史は、1613(慶長18)年、イギリス人使節が徳川家康に献呈したことに始まるといわれています。
 そしてこんにち、日本が世界に誇る望遠鏡といえば、1999年、ハワイのマウナケア山頂に築いた巨大光学望遠鏡「すばる」です。
 これは反射鏡の直径が8.2メートルと、一枚鏡としては世界一の大きさ。
 地上望遠鏡としては世界最高クラスの性能を持ち、その能力は、たとえば東京から富士山頂にある野球ボールを見分けられるほど、だそうです。驚きですね。

参考文献
巨大望遠鏡への道/吉田正太郎、裳華房
ハッブル宇宙望遠鏡 150億光年のかなたへ/エレイン・スコット 小林等、高橋早苗訳、筑摩書房


100%  9月24日は「畳の日」。
「環境衛生週間」の始まりの日であり、「清掃の日」であることから、全国畳産業振興会が定めました。
でも、なぜ清掃の日なのでしょう?
 かつてよく見られた季節の風物詩に「畳干し」があります。
これは春と秋の年2回、よく晴れた日に畳を部屋から起こして庭に並べ、陽に当て風を通し、叩いてホコリを払うという畳のメンテナンス法。
きちんと 手入れ=清掃 することで、畳本来の良さが保たれますよ、ということをアピールしています。
また、春の畳干しの頃である4月29日(みどりの日)も「畳の日」。
こちらは原料であるイグサの美しい緑色にちなんでいる、ということです。

 日本古来の文化の多くは、中国大陸から伝来してきたものですが、畳は先人が生活の知恵から生み出した日本固有のものです。
湿気が多く、夏暑く冬寒いといった風土にあって、“調湿” “断熱”機能を持つ畳は、最も快適に過ごせる建材でした。
近年では、防音効果や空気をきれいにする作用などがあることも、科学の目によって明らかにされています。
また、柔道場において、選手を激しい衝撃から守っているのも、畳の“天然のクッション性”です。

 日本最古の歴史書である古事記には「畳」の文字が見えますが、これはこんにちで言う“むしろ”のようなものであったろうと考えられています。
それを何枚も重ねて用いたことが、畳の語源(敷物を何枚もたたむ、すなわち積み重ねる)となっています。
現在のような厚みをもった畳になるのは、平安時代。貴族の邸宅では、板敷きの間に座具や寝具として、ところどころに置かれるようになりましたが、使う人の位によって、畳の厚さや縁(の生地)が決められていました。
部屋全体に敷きつめ、床材として使うようになるのは、室町時代以降。
しかしまだ畳は富の象徴であり、一般人のものとなるのは江戸時代の中期、さらに農村においては、明治時代を待たなければなりませんでした。
ところで、みなさんは時代劇の江戸市中が描かれたシーンで、畳を大八車に乗せて引越しをする庶民の様子を目にしたことはありませんか。
これは、長屋では畳はあらかじめ敷かれてあるものではなく、借家人が運び込んで使うものだったためです。
畳はたいせつな財産。そのため前述のように、手入れをして長持ちさせる工夫を怠りませんでした。

 近年、住まいの床材はフローリングが人気のようですが、ごろりと寝転べる畳のくつろぎ感も捨てがたいもの。
そこで最近では、フローリングに敷いて使用する「置き畳」などの商品もあるようです。
これなら“起きて半畳、寝て一畳”のことわざを実践できそうですね。

参考サイト
図解畳技術宝典/樫村長次 理工学社
よみがえれ! イグサ/船瀬俊介 築地書館
全国畳産業振興会 http://www.xpress.ne.jp/~tatami/
全日本畳事業協同組合 http://www.stannet.ne.jp/zentatami/


100%  8月8日は“パチパチ”で「そろばんの日」。 1968(昭和43)年、(社)全国珠算教育連盟がそろばんの普及とその優れた機能をアピールするために定めました。 さて、そろばんの元祖を尋ねる前に、「数えのはじまり(算術の起源)」についてお話ししましょう。 原始の時代の“計算機”といえば、棒や動物の骨につけた刻み目や、縄の結び目。 人々はこれを利用して数をかぞえ、記録しようとしました。 やがて小石などを使うようになりますが、小石が10集まると、少し大きな小石1個で10を表すようになり、 さらにそれが10個になれば、100を表す石にかえるというような「位取り(くらいどり)」の概念が誕生します。 この位取りの考えこそが、そろばん誕生になくてはならないものでした。 そろばんの始祖とみられているのは、約4000年前のメソポタミア地方で考えられた「砂そろばん」で、砂のうえに位取りのための線を引き、小石を置いて計算していました。 やがて古代ギリシャやローマでは、机や盤に線を引くようになります。 このとき使われた小石はカルクリと呼ばれましたが、これは現在のcalculate(計算する)の語源になっています。 紀元前後のローマ時代には、手のひらサイズの青銅板に溝を掘って、そのなかにはめ込まれた珠を動かして計算する仕組みのものがつくられています。 すでに珠は上下に分けられ、五珠が1個、一珠が4個と、現在日本で広く使われているそろばんと同じになっています。 さて、珠を串刺しにしたそろばんは、おそらく中国で生まれたのではないかと推察されています。 当初「スアンバン」と呼ばれていましたが、少しずつ変化して「ソロバン」になったのだという説があります。
 日本にそろばんが渡ってきたのは、室町時代の末頃といわれています。 現存する最古のそろばんは、前田利家(1538-99年、安土桃山時代の武将、金沢藩主前田家の祖)が使っていたもので、五珠が2個、一珠が5個あります。 江戸時代になり日本でもそろばんが作られ始めると、商売にも盛んに活用され、寺子屋では「読み・書き・そろばん」が指導されます。 明治に入ると、五珠が2個から1個に、さらに1935(昭和10)年、尋常小学校でそろばんが必須になると一珠が5個から4個になります。 世界で最も精度が高い木工製品といわれる日本のそろばん。 その機能美もすばらしく、「播州そろばん(兵庫県)」「雲州そろばん(島根県)」は、経済産業大臣指定の日本の伝統的工芸品になっています。 今では時代遅れの感のあるそろばんですが、「数の概念や計算の原理を体得するために最適な教材」として世界各地で高く評価されています。 右脳の働きを活発にする効用もあるそうですから、もっと見直してみたいですね。

参考サイト
ソロバンの歴史/J.M.プッラン 塩浦政男訳 みすず書房
(社)全国珠算教育連盟 http://www.soroban.or.jp
トモエ算盤梶@http://www.soroban.com
雲州堂 http://www.unshudo.co.jp


100%  7(な)3(み)の明快な語呂あわせ! 7月3日は「波の日」「サーファーデー」です。 "地球上でもっとも古いスポーツ"といわれるサーフィンの起源は紀元前1500年頃にさかのぼり、5世紀までにはその原形ができあがったとされています。 波に乗る楽しみを見出したのは、ハワイやタヒチに住んでいた古代ポリネシアの人々。 海を“我が家”とする民族は、コロンブスやマゼランが活躍する大航海時代より遥か昔に、大洋を航海する高度な技術をもっていました。 彼らは舟にも工夫を凝らし、アウトリガーカヌー(カヌー本体の横にバランスをとるための浮きがついたもの)を繰って、漁に出掛けていました。 帰りは、押し寄せる波に乗って、浜に戻ることもあったでしょう。 漁の技術であった"波乗り"はやがて、それ自体を楽しむ娯楽・スポーツとして発達していったとみられています。 そしてカヌーは小さくなり、サーフボードの原型が誕生したようです。 ヨーロッパ人で初めてサーフィンを目撃したのは、イギリスの探検家・ジェームズ・クック船長です(1778年)。 彼は航海日誌のなかで「・・・(波に乗る人は)速くスムーズに、海のうえを動くことに最高の楽しみを感じているようだ」と語っています。 しかし、1800年代にやってきた宣教師たちは、布教の妨げになるとしてサーフィンを禁止してしまいます。 不幸なことに、ここで古代サーフィンは終焉を迎えてしまうのです。
 しかし20世紀になって、再びスポットが当てられます。 例外的にサーフィンが認められていたワイキキの浜辺では、ハワイアンだけではなく、移住してきた人々も楽しむようになったのです。 そのなかに近代サーフィンの父といわれるデューク・カハナモクがいました。 1912年のストックホルムオリンピックでアメリカ代表として出場したデュークは、100m自由形で世界新を記録。 その後、招かれた国々で得意のサーフィンを披露し、普及に多大な功績を残しました。 ハワイ、カリフォルニア、オーストラリアでは、独自の個性をもったサーフィンスタイルが生まれます。 そして戦後は、現在も主流となっているグラスファイバーとウレタンフォーム製のサーフボードが登場し、ライディングテクニックもより高度に華麗になっていきました。
 1960年代、湘南や千葉の海でアメリカ人がサーフィンをしているのを見た少年たちが、見よう見まねでつくったボード“フロート”を抱えて、海へ漕ぎ出した・・・これが日本のサーフィンの黎明のようです。 スポーツとしての歴史は古いわけではありませんが、そこは周りを海で囲まれた島国、今では多くの日本人サーファーが世界を舞台に活躍しています。

参考サイト
日本サーフィン連盟  http://www.nsa-surf.org
フルイドライディング技術研究所  http://www16.plala.or.jp/fluidriding/


100%  “夜目(よめ)遠目(とおめ)かさの内”〜夜の薄暗がり、遠くから見た時、そして傘を差しかざしている時・・・これは人が実際よりも美しく見える条件なのだとか。 女性の味方(?)傘が手放せない季節になりましたね。6月11日は「傘の日」。暦の上での「入梅」に合わせて、1989(平成元)年、日本洋傘振興協議会が定めました。
 傘は英語でUmbrella、その語源は「影・日陰」を意味するラテン語(umbra)とされています。 そもそもは日よけとして約4000年前から使われ始めた傘は、貴人の頭上に掲げて、強い日差しをさえぎる一方、権威の象徴とされてきました。 一般的に広まっていくのはギリシャ時代からで、傘を捧げ持つ従者の絵などが残っています。 現在のような開閉式の傘が発明されるのは13世紀のイタリアで、親骨(フレーム)には鯨の骨や木が使われました。 長らく婦人用の日よけだった傘が、雨を防ぐ道具として普及し始めるのは、時代も下がって18世紀後半のイギリスから。旅行家にして著述家、商人だったジョナス・ハンウェーは、傘に防水を施し、雨のロンドンを闊歩。 紳士たるもの、帽子で雨をよけるのが当たり前だった時代、彼の行動はかなり奇異なものとして人々の目に映ったようです。 しかし逆風にも負けず(?)ハンウェーが使い続けた結果、保守的なロンドンっ子の目にも見慣れたものになっていきました。 19世紀に入って、鋼鉄製のU字型の溝骨が発明されるに至り、細くぴったりと折りたたむことができるようになった傘は、ステッキのようにスマートに持てる道具として飛躍的に広まっていくのです。
 日本へは552(欽明天皇13)年に、百済(くだら)から金の仏像、仏教書などとともに、布でつくられた日傘“きぬがさ”がもたらされ、貴族や僧侶など上流階級の間に広まります。 その後、和紙に油を塗って防水加工をした「和傘」が発展していきますが、一般的には菅笠(すげがさ)と蓑(みの)が雨具として使われていました。 和傘が庶民のものとなるのは、江戸時代の天明年間(1781-1789年)以降。 安藤広重や喜多川歌麿などが描いた浮世絵にもしばしば登場し、町人の間に浸透していることがわかります。 また、時代劇などで下級武士が傘張りの内職をしているシーンが登場しますが、これは事実のようで、苦しい暮らしを助ける手段としていたようです。 いつもは冴えない傘張り浪人が、実は剣の達人・・・とは、時代劇の見すぎでしょうか。

参考サイト
ムーンバット株式会社 www.moonbat.co.jp
しばた洋傘店 www.hakata-kasaya.co.jp
日吉屋商店 www.wagasa.com
王子製紙株式会社 www.ojipaper.co.jp


100%  5月2日はエンピツ記念日。1887(明治20)年、フランス・パリの博覧会で鉛筆を見た眞崎仁六(まさきにろく)は、東京・新宿に水車を動力とする工場を建て、「眞崎鉛筆製造所(現:三菱鉛筆)」を設立。日本で初めて鉛筆の量産を開始しました。
 鉛筆の歴史は、1560年代、イギリス、カバーランド山脈のボローデル渓谷で良質の黒鉛が発見されたことから始まります。紙の上になめらかに、鮮明な黒い文字を書くことができる黒鉛は、当時のヨーロッパ社会で大いに注目を集めました。しかし、そのまま用いては手が汚れるので、黒鉛を棒状に加工したものを木ではさんだり、糸で巻いたりして使われました。これが鉛筆の元祖です。しかし資源は有限。イギリス政府は、鉱山を厳しく管理していましたが、18世紀までには掘りつくされてしまいます。そこで欧州各国では、黒鉛くずを利用して鉛筆をつくる研究が競って進められました。なかでもイギリスと交戦状態にあったフランスでは、国を挙げての開発に着手。甲斐あって1795年、技師のニコラ・ジャック・コンテが黒鉛と粘土を混ぜて焼き固め、鉛筆芯をつくる技術を生み出しました。この方法は、黒鉛が節約できるうえ、粘土の量によって文字の濃さも調整できるという優れたものでした。現在でも鉛筆は、基本的にはコンテが考案した方法によってつくられています。
 日本では徳川家康が初めて鉛筆を使ったとされ、オランダ人から献上されたとみられる品が、久能山東照宮に遺されています。しかし、家康よりも早い時期に使用していたのではないかと推察されているのが、仙台藩祖・伊達政宗です。霊廟の瑞鳳殿から見つかった鉛筆は、軸に日本産の木片を使用しており、舶来品を愛用していた政宗が、配下に命じて自分が使いやすいように工夫させたのではないかとみられています。本当だとすれば、さすが“伊達”の語源となった政宗らしい逸話です。
 さて、鉛筆には何種類の濃さがあるかご存知ですか。正解は9H〜H、F、HB、B〜6Bまでの17種類。先に述べた黒鉛と粘土の比率で濃さが決まります。ちなみにBはブラック(黒)、Hはハード(かたい)、Fはファーム(しっかりとした)という意味です。また、鉛筆には「鉛」が含まれているといううわさがありますが、これはまったくの誤解。形状が六角形なのは、親指、人差し指、中指の3本ではさむのに都合が良いから、だそうです。鉛筆を転がして、選択問題の答えを選ぶためではありません、あしからず。

参考文献
日本鉛筆工業協同組合 www.pencil.or.jp
三菱鉛筆梶@www.mpuni.co.jp
トンボ鉛筆 www.tombow.com


100%  春の大型連休ももうすぐ。地図を片手に旅行のプランを練っている方も多いのでは? 4月19日は「地図の日(最初の一歩の日)」。1800(寛政12)年閏4月19日、伊能忠敬(いのうただたか、1745−1818年)が第一次測量のため蝦夷地へ最初の一歩を印した日です。その後、第二次測量→本州東岸、第三次→羽越、第四次→東海〜北陸、第五次→畿内〜中国地方、第六次→四国・大和路、第七・八次→九州、第九・十次→伊豆七島と江戸府内、とおよそ17年を費やし、日本初の本格的な実測地図「大日本沿海輿地全図」を完成させました。伊能忠敬は上総国(千葉県)の生まれ。酒造家の名主伊能家に入婿し、事業を成功させますが、隠居後なんと50歳を過ぎてから、江戸に出て、幕府天文方(てんもんかた)高橋至時の門に入り、西洋天文学・西洋数学・天文観測学・暦学などを学びます。師匠である高橋至時は、忠敬の19歳年下。しかし、忠敬は息子ほども年が離れている至時に熱心に師事したといいます。こうして“生涯学習”の元祖のような忠敬が、その持ち前の才能と熱意を発揮するのは55歳になってから。「自費でもやり遂げたい」という強い想いで、測量隊を結成します。結局 10回にわたり延べ3754日おこなわれた伊能測量のうち、幕府御用となるまでの第一次から四次測量(のべ761日)は莫大な私財をつぎ込んでの事業となりました。伊能図は明治期につくられた多くの地図の原型となりましたが、忠敬の最初の一歩を生み出した勇気、幾多の困難を乗り越えた強靭な精神力と執念なくしては実らなかった偉業です。
 現存する世界最古の世界図は、紀元前500年頃のバビロニアの粘土板地図といわれています。そこに描かれているのは、首都バビロンを中心とするユーフラテス川流域一帯に過ぎず、「にがい川」と記される大洋の存在からかろうじて世界図とわかるものです。それから2500年。世界図を“その時代の人々が知りうるすべての土地”とするならば、世界は、驚くほど広く、高く深くなりました。さらには宇宙空間においては、1機の探査機で天体の地形図を作製することができるといいます。私たちはもはや訪れることなく、精密な地図を手に入れることができるのです。一方で、人工的な建造物がひしめき、常に変化する住宅地図などは、伊能忠敬の時代と同じく、調査員が地道に足で調べ続けているそうです。一歩一歩からつむがれた地図の物語にも思いをはせてみたいですね。

参考文献
ちずのこしかた/うんのかずたか 小学館スクウェア
伊能忠敬測量隊/渡辺一郎編著 小学館
図説伊能忠敬の地図をよむ/渡辺一郎 河出書房新社
記念日の本/生活情報研究会編 ごま書房


100%  「二八月荒れ右衛門」ということわざがあります、旧暦の2月、8月(新暦では3月、9月)は“あらし”が多いことを言ったものです。 「春の嵐」の原因は強い温帯低気圧。北に勢力を縮小していく冬の寒気団と、南から広がってくる春の暖気団が、日本付近で激しく衝突することで発生します。 こんな時、頼りになるのが気象予報ですね。3月23日は「世界気象デー」。 1950(昭和25)年のこの日、世界気象機関条約が発効し、「世界気象機関(WMO)」が設立されました。 国連の専門機関であるWMOは、気象の共同観測と資料交換の国際協力を担うためのもので、天気が人類にとって深い関わりがある以上、その監視と予測は、国の主義・体制の違いを越えておこなわれるべきであるという考えに基づいています。 まさに“天気に国境はない”ですね。「世界気象デー」は発足10周年を記念して、1960(昭和35)年に定められた国際デーです。
 「明日の天気を知る」ことは、古くからの人々の夢であり、地方ごとに多くの天気俚諺(りげん:ことわざ)が生み出されてきました。 たとえばよく知られる「夕焼けは晴れ」「山に傘雲がかかると雨」などは、雲や風の様子から天気の予測を試みようとした経験の集大成です。 一方、科学的な天気予報が始められるようになったきっかけは、17世紀の初め、ガリレオ・ガリレイによって温度計が、続いてトリチェリによって気圧計が発明されたことです。 この頃には、「気圧が急に下がると暴風雨になる」ということがわかっていたので、世界中から観測データを集め、地図上に記入することで、天気を予測することが試みられてきました。 しかし、すみやかに天気図を作成し、より正確な予報を出すためには、通信技術が発達する19世紀を待たなければなりませんでした。
 日本では1883(明治16)年、天気図がつくられ、初めて暴風警報が発令されました。翌年にはいよいよ天気予報がスタート。 6月1日に発表された日本初の予報は「全国一般、風の向きは定まりなし、天気は変わり易し、ただし雨天勝ち」というたいへん大雑把なものでした。 現在、気象庁からは、数時間先までの天気や雨量を詳細に予想した分布予報・時系列予報や降水量実況・予報、週間天気予報、季節予報など、さまざまな予報が発表されています。 靴やゲタを投げ飛ばして明日の天気を占うことも一興ですが、正確な情報を 知りたいときはぜひ気象庁のホームページにアクセスを。

参考文献・サイト
こんなにためになる気象の話/饒村 曜 ナツメ社
気象のしくみ/饒村 曜 日本実業出版社
記念日の本/生活情報研究会編 ごま書房
気象庁 http://www.jma.go.jp/


100%  「用件はメールで送ります」といえば、もはや郵便ではなく、Eメールを示すことのほうが多くなりました。 エアメールで何日も要する国まででも、インターネットを通じてならば一瞬。 いまさらながら通信手段の進化には驚かされます。 2月18日はエアメールの日。 1911(明治44)年のこの日、世界で初めて“飛行機”で郵便物が運ばれました。 インド国内でのことなので、国際郵便ではありませんでしたが、ともあれエアメールの第1号。 イギリス人のパイロット、アンリ・ペケが、アラハバードから約8キロ離れたナイニジャンクション駅まで運んだのは6千通の手紙。 博覧会のアトラクションとして実施されたと伝えられています。
 わが国で郵便が創業されたのは1871(明治4)年。 それから4年後、アメリカ合衆国と結んだ郵便条約の実施により、横浜、神戸、長崎の3つの郵便局で外国郵便の取り扱いが始まりました。 この時発行されたのが、カリ・セキレイ・タカを図案にした日本初の国際郵便用の切手、いわゆる「鳥切手」。 コレクターの間では「幻の切手」として有名です。 1877(明治10)年、万国郵便連合(UPU)に加盟してからは、多くの国からより早く確実に届くようになりました。 郵便制度の発達は、交通機関の進歩と深く関係しているといえますが、第一次大戦後はそれまでの馬車や蒸気船、汽車、自動車に加えて、一部で航空機を利用する取り扱いが開始され、外国郵便の速達化が図られていきます。 ちなみに国内では1925(大正14)年、東京−大阪、大阪−福岡間に定期航空郵便制度が開始されました。 利用者は郵便物の表面に「飛行」と朱書きするだけで特別な料金は必要としなかったといいます。 それもそのはず、この時代の飛行機は天候まかせ。 必ずしも定められた日に飛行できるとは限らなかったそうです。
 戦後、種々の規制のもとで外国郵便の取り扱いが再開されるのは1946(昭和21)年。 その後はジェット機の導入などにより、航空郵便はさらにスピードアップ。 現在では、エコノミー航空(SAL)、国際スピード郵便(EMS)、国際レタックス、Dメール、Pメールと、新しい国際郵便のサービスがお目見えしています。 また、航空扱いの国際郵便ハガキの料金は、世界中どこへ送っても70円均一。 たまにはEメールや国際電話ではなく、自筆の近況報告でもいかがですか。

参考文献・サイト
郵便創業120年の歴史/郵政省郵務局郵便事業史編纂室 ぎょうせい
みんなの郵便文化史/小林正義 鰍ノじゅうに
記念日の本/生活情報研究会編 ごま書房


100%  今晩何にしようかしら・・・食卓を預かる主婦の悩みといえば毎日の献立づくり。 マンネリメニューから脱したい、おいしくて身体によいものを、という声に応えてくれるのが「料理番組」。 あるモニター調査によれば、主婦が料理のレパートリーを増やしたい時に、もっとも多く利用するのが料理番組なのだそうです。 次いで女性誌の料理コーナー、料理専門書、料理雑誌と続きます。 1月21日は「料理番組の日」。 1937年のこの日、イギリスBBCテレビで世界初の料理番組、その名も「夕べの料理」が始まりました。 記念すべき第1回のメニューは西洋料理の基本「オムレツ」で、担当したマルセル・ブールスタンは世界で初めてテレビに出演した料理人となりました。 “英国にうまいものなし”と不名誉な評判をいただくイギリスですが、現在でも放送される料理番組はかなりの数にのぼるそうです。 同じく多いのがガーデニング番組。こちらはお国柄といえそうですね。
 日本では1956(昭和31)年、民放テレビで初の料理番組がお目見えし、翌年の1957年には「きょうの料理(NHK)」が始まりました。 「キューピー3分クッキング(日本テレビ系ほか)」がスタートしたのは1963年。 双方ともに今も続く、超・長寿番組です。 長続きの秘訣は、食の基本にこだわりながら、時代のニーズに応えたメニューを提供していくことなのだとか。 そういえば近ごろは、“健康”“節約”“短時間でできる”などと銘打ったメニューを多く見かけます。 なるほど、料理も時代を映す鏡なのですね。 講師がテキパキと料理をすすめていく“正統派”に対して、さまざまな趣向を凝らし、ショーアップされた料理番組はもはやエンターテインメント。 プロの技や有名店のレシピをチェックできたり、スターやアイドルの意外な素顔を見られたりするのも料理番組の醍醐味です。 最近ではテレビで紹介されたレシピがインターネット上でも見られることもあって、料理番組の活用の幅も大きく広がってきているようです。
 ところで「料理」の「料」とは米と斗(ます)を合わせたもので量るという意、「理」の“里”は離れるという意味をもつのだそうです。 素材を原形から遠ざけること、つまりじゅうぶんに手を加えることが料理なのですね。 とはいえ“手抜きメニュー”も主婦の力強い味方です。

参考文献・サイト
記念日の本/生活情報研究会編 ごま書房


100%  11月22日は「ボタンの日」。一一二二がボタンホールの形に似ているから・・・ではありません。 1870(明治3)年のこの日、日本海軍の制服に英国海軍スタイルのネービールックが正式に採用され、桜花に錨(いかり)をあしらった金ボタンが使われました。 和服文化の日本にも、この日を境に洋装&ボタンが本格的に普及するようになったとして、1987(昭和62)年、国内のボタン業界によって定められたのです。
 さて、ボタンはいつの頃から使われるようになったのでしょう。 古代エジプトやメソポタミアの遺跡からはボタンの形をした工芸品が見つかっていますが、これは本来の機能はなく、装身具や護符としての役割があったようです。 人類は長らく1枚の布を体に巻き付ける衣服だったため、紐や留め具があればじゅうぶんで、ボタンの必要性はなかったのです。 ですからボタンが発達してくるのは、中世に入ってヨーロッパの人々が身にぴったりとフィットする立体的な洋服を着るようになってから。 はじめは紐で輪をつくって引っかけるループ掛けでしたが、南フランスで生地に穴をあけてボタンを通す画期的な技術=ボタンホールが発明されてから、洋服のデザインもより多彩になっていきます。 14世紀も半ばに入ると、ボタンは装飾品としての性格を強めていき、過剰なまでに飾り立てることが流行します。 材料には金銀や象牙、大理石、果ては水晶や真珠、ダイヤモンドまでが登場し、ついにはぜいたくを戒める禁止令も出されるほどでした。
 ボタンという言葉は古仏語の“つぼみ”に発しているようですが、日本で初めてボタンの文字が見えるのは江戸中期。 故実研究家伊勢貞丈(1715-84年)が著した随筆のなかに“ポルトガル語を言い違えてボタンと言っている”という旨の記述があります。 また漢字では「釦」と書かれますが、中国にはこの字はなく、大村益次郎(幕末から明治にかけての政治家1825-69年)によって考案された国字といわれています。 なるほど“金(ボタン)で衣服の口を留める”とはよく考えられていますね。 一方、江戸末期の薩摩藩では外貨獲得のために陶器のボタンをつくり海外へ輸出していました。 折もおり、フランスでは日本ブームだったこともあり、花鳥風月が緻密に描かれたボタンは「SATSUMA」の名で人気を博したといいます。
 1分1秒でも惜しい朝のひととき、さらに慌てるはめになるのが「ボタンの掛け違い」。 防ぐためには、一番下のボタンから順に掛けるとよいのだとか。 でも物事のボタンの掛け違いには、くれぐれもご注意を。

参考文献・サイト
ボタン事典/潟Aイリス大隅浩監修 文園社
(社)日本釦協会 http://www.jah.ne.jp/~jbutton
ボタンの博物館 http://www.iris.co.jp/


100%  老若男女を問わず、気軽に楽しめる参加型レジャーの定番といえば「カラオケ」。 余暇の過ごし方を尋ねたアンケートでも、ガーデニング、ドライブ、読書、音楽・映画鑑賞、国内旅行などに次いで9位にランクインしています(生活者1万人アンケート調査2000年/野村総合研究所)。 10月17日は「カラオケ文化の日」。 1994年この日、全国カラオケ事業者協会(カラオケ機器の販売やレンタルを扱う会社によって構成)が設立されたことを記念して定められました。 そもそもカラオケとは「空(カラ)」の「オーケストラ」の意。 1970年初頭の登場以来、およそ30年で1兆円産業にまで成長し、その参加人口は最盛期の1994(平成6)年には年間5,890万人と推計されました。 日本発の「カラオケ文化」は世界へ輸出されるまでとなりましたが、その進化は、日進月歩のテクノロジーとともにあったのです。
 カラオケ誕生前夜の1960年代後半、コインボックス内蔵の8トラ式(8トラック・カートリッジテープ)小型ジュークボックスにマイク入力端子が付いたカラオケの原型が登場しました。 1971(昭和46)年には、伴奏テープをセットしてレンタルが開始されます。 いよいよカラオケの誕生です。 その後、さまざまなメーカーが相次いで参入し、酒場などの繁華街を中心に急速に普及していきます。 次なる技術革新は1980年代の初め。 それまで歌詞カードとにらめっこしていた利用者は、モニター画面に流れる歌詞のテロップにあわせて歌うようになります。 “絵の出るカラオケ”レーザーディスクカラオケのデビューです。 次ぐオートチェンジャーの開発は、1980年代後半のカラオケボックスの登場へとつながっていきます。
 酒場や旅館といった大人向けの市場から、それまで潜在需要層と思われた若者層やファミリーを取り込むことに成功したカラオケボックス。 ピーク時の1996(平成8)年には全国に16万室を数えました。 やがて曲数の増加と共に、レーザーディスクのソフト収容量にも限界が見え始めた1990年代初期、通信カラオケがお目見えします。 今や通信カラオケは新規売上額・台数ベースでも99%という圧倒的なシェアを誇っています。
 そして今どきのカラオケは、全国順位の出る採点システムや、歌った分の消費カロリー表示、ビンゴやスロットなどのゲーム付き、3Dキャラクターの振り付け映像付きなど、さまざまな機能がついて、私たちを楽しませてくれます。 カラオケはストレス解消にもおおいに効果があるそうですから、マイクを握ってスッキリ!といきたいものですね。

参考文献・サイト
全国カラオケ事業者協会 http://www.japan-karaoke.com
※文中データは「カラオケ白書2003/全国カラオケ事業者協会」より


100%  夢を買う宝くじ。「今回もダメだったよ」と悔しまぎれにビリッ・・・ちょっと待ってください。 毎年9月2日の「くじの日」には、はずれ券を対象としたお楽しみ抽せん会が行われています。 ちなみに平成15年度の記念品は、電子辞書、多機能ラジオライト、深型グリルプレートなどと3億円には及びもしませんが“ささやかなる敗者復活”も宝くじの一興。でも、くじの日が制定されたそもそもの理由が“当せん宝くじの時効防止”といいます。 毎年、何本もの当たり券が紙くず同然になっているなんて、歯ぎしりしたくなるような思いがしませんか。
 さて、日本での宝くじの始まりは、約380年前の江戸時代初期にさかのぼります。 摂津箕面(現大阪府)の瀧安寺では、松の内の期間中、参詣に訪れた善男善女に自分の名前を書いた木札を唐びつのなかに入れてもらい、1月7日に寺僧がキリで突いて3人の当せん者を選んでいました。 賞品は、なんと福運の“お守り”。やがて金銭が当たるようになる「富くじ」となって町にはんらんするようになります。 見るに見かねた幕府は元禄5(1692)年禁止令を出しますが、寺社にだけは建物の修復費用調達を名目に発売を許します。 そうして天下御免の富くじ「御免富」は、一攫千金を狙う庶民にたいへんな人気を博しました。 特に“江戸の三富”として有名だったのが谷中の感応寺、目黒の瀧泉寺、そして湯島天神でした。
 暮れも押し迫った文政5(1822)年、貧乏御家人の井上半次郎は、湯島天神の前を通りがかりました。 折しも千両富(くじ)の興行で賑わう境内(けいだい)、熱気にけおされてイチかバチかと取り出したのは、とぼしい財布のなかの一分(いちぶ)。 一分といえば妻とふたり、内職に精を出してもたっぷり5日はかかるお金。 女房に知れたら大目玉。ところがその札は、千両の大当たり! 夫婦手を取り合って大喜び・・・のはずが、夫人は富くじなどで金を得ようとする、その根性が卑しいと大激怒。 当たり札を破り捨ててしまったのだとか。実はこれには後日談があります。半次郎はのちに井上備前守となり、老中水野忠邦のもとで天保の改革に尽力します。 この政策の一環として、天保13(1842)年に禁止されたのが富くじ。 以来103年もの間、富くじが発売されることはなかったのです。 御免富に千両の夢を託した半次郎、20年後にそれを禁ずる立場になるとはいかにも皮肉な話です。

参考文献・サイト
(財)日本宝くじ協会 http://www.takarakuji.nippon-net.ne.jp
大江戸暮らし/大江戸探検隊編 PHP研究所
おもしろ江戸の雑学/北村鮭彦著 永岡書店


100%  真夏のお出掛け。歩いていける距離なのに、ついついタクシーに手を挙げていませんか。 8月5日はタクシーの日。 1912(大正元)年のこの日、日本で初めてのタクシー会社となる、その名も「タクシー自動車株式会社」が、T型フォード6台を揃え、東京有楽町で営業を開始しました。 欧米ではすでに、馬車から自動車に取って代わられようとしていた時代、わが国初のタクシーも、ドイツ製の料金メーターや割引チケットを導入した画期的なものでした。 しかし、庶民の“足”とは言い難く、当時の山手線が1区間5銭だったのに対して、最初の1マイル(約1.6キロメートル)が60銭と、たいへん高価な乗り物でした。 その後同社は、第一次大戦の好況もあり、1921(大正10)年には1,200台以上を抱えるまでとなります。
 1923(大正12)年の関東大震災後は、自動車の機動性や実用性が広く認知され、さらに、交通需要の増大、車両価格の低下などを追い風に、タクシー台数が飛躍的に伸びていきます。 が、料金がまちまちで70種以上もあり、大きな混乱をもたらしていました。 そこで登場したのが、市内1円均一のいわゆる「円タク」。 大阪発祥の円タクは、1927(昭和2)年頃から東京でも走り始めますが、実際には利用客と運転手とのかけ合いで料金が決まることが多く、値切られることもしばしば。 均一料金がくずれる一方、円タクはタクシー利用の大衆化に、大いに貢献したのでした。
 二度目の大戦では、多くの車両を焼失し、壊滅的な打撃を受けるも、戦後復興の波に乗って再び発展。 高度成長期には“神風タクシー”と呼ばれる荒っぽい運転が物議を醸し出しますが、サービスとマナーの向上に努め、“世界一安全”ともいわれるタクシーへの道を歩み始めるのです。
 最近では、移動サポートという役割を掲げ、さまざまなタクシーがお目見え。 たとえば、ワゴンタクシー、ジャンボタクシー、乗り合いタクシーをはじめとして、車椅子やストレッチャーのまま乗ることができる「福祉タクシー」、さらにはホームヘルパーの資格をもったドライバーが運転する「介護タクシー」なども。 災害が発生した場合、機動力を駆使して被害状況などを伝える「防災レポート車」も見掛けるようになりました。 時代を映して進化するタクシーは、きょうも日本全国津々浦々を走り続けています。

参考文献・サイト
くるまたちの社会史/齊藤俊彦著 中公新書
(社)東京乗用旅客自動車協会 http://www.taxi-tokyo.or.jp/


100%  「ハンバーガー」「ホットドッグ」「ピザ」といえば、アメリカの三大ファストフード。簡単・便利に、安い価格で食べられるとあって、今やその人気もワールドクラス。なかでも最もポピュラーなのがハンバーガー。7月20日は「ハンバーガーの日」。1971年のこの日、東京・銀座三越の1階にマクドナルドの日本第一号店がオープンしたことにちなみます。
 ハンバーガーの元祖とされるのが、ハンバーグステーキ、そのまたルーツとされるのがタルタルステーキです。羊や牛のひき肉に味を付け、生で食べるタルタルステーキは、もとは11世紀頃に勢力を誇った北方の騎馬民族タタール人によって考え出された料理です。時代が下がって大航海時代、ドイツ港町ハンブルグにもたらされたタルタルステーキは、ヨーロッパ人好みにアレンジされ、牛ひき肉をパテ状にして焼いて食べるハンブルグステーキになります。そして19世紀後半、ドイツ系移民とともに新大陸アメリカに渡ったハンブルグステーキは、ハンバーグステーキと呼ばれるようになり、人々の味覚と心をとらえます。それが「ハンバーガー」となるのは、1904年。セントルイスで開催された世界博覧会で、パンに挟んだスタイルで売り出されたのが始まりといわれています。
 ハンバーガー世界最大のチェーンといえば、ご存知マクドナルド。現在、世界120カ国に2万8000以上の加盟店があるそうです。マクドナルドは、1937年にマック&ディック・マクドナルド兄弟がカリフォルニア州に開いた一軒のドライブインに始まります。つましい家族経営のレストランは、注文後わずか30秒で出来立てのハンバーガーが食べられる“クイック・サービス・レストラン”に生まれ変わってからは大繁盛。その後、大成功をおさめた兄弟の前にあらわれたセールスマン、レイ・クロックにより、マクドナルドはフランチャイズ化され、徹底したマニュアルによる管理で、急成長を遂げます。
 「変わらぬ味、変わらぬサービス」世界標準の味わいといわれるマクドナルドのハンバーガーにも、お国柄を反映した個性的なオリジナルメニューが存在します。一例を挙げれば、韓国のプルコギバーガー(焼き肉)、スペインのガスパチョ(冷製スープ)、インドのマハラジャマック(宗教上の食習慣に配慮し羊肉や鶏肉を使用)、タイのサムライポークバーガー(照り焼き風味)、メキシコのマックブリトー(小麦粉を溶いて焼いた皮に包む)など。海外旅行の際には、こうした“ご当地バーガー”を一度試してみてはいかがですか?

参考文献・サイト
食べるアメリカ人/加藤裕子著 大修館書店
世界おもしろ比較文化紀行U ビッグマックプリーズ!!/小屋一平著 心交社
日本マクドナルド梶@http://www.mcdonalds.co.jp


100%  6月10日は「時の記念日」。 今では当たり前のように存在する「時計」ですが、人類が正確な時間を手にするまでには、気の遠くなるような長い歳月を必要としたのです。
 時計の始まり・・・それは紀元前3000年〜4000年のエジプトでつくられた「日時計」とされています。 しかし、太陽が頼りの時計は、曇りや夜間、建物の中では使えませんでした。 一方、天候に左右されない「水時計」は、紀元前16世紀までに登場し、その後世界各地に広がり発展していきますが、絶えず水を補給したり、穴にゴミが詰まらないように管理する必要があったのです。 「火時計(燃焼時計)」は、ロウソクや火縄、香など均質の材料が同量ずつ燃えるように工夫されたもので、使いやすく音もなく携帯も可能でしたが、時間精度という点では見劣りがする・・・と、まさに“正しい時を求めて”試行錯誤が続けられてきました。 そして、こんにちでもポピュラーな「砂時計」が使われ始めるのは、13世紀末。コストが安いわりには、そこそこの正確さを保ち、静かで、使用法も簡単と、さまざまな場で重宝されていましたが、ほぼ時を同じくして、機械式時計が誕生します。
 世界で初めて機械式の時計がつくられたのは、1200年代末から1300年前半にかけて。 今も残る最古のものとされているのが、1370年フランスのシャルル5世が高等法院に作らせた塔時計(機械部分は後世に改造されたとみられる)と、イギリスのソールズベリー寺院にある塔時計(1386年作)です。 当時の時計は、重さが1〜2トンもある“建造物”で、カジャガシャと大きな音をたてたようです。 多くは教会などにつくられ、人々に祈りの時間を知らせました。いよいよ人類は「自然のリズムに寄り添った暮らし」から「共通の時刻制度によって営まれる社会」をつくりあげていくのです。
 日本の時計の歴史は、中国から技術を導入してつくった水時計から始まるといわれています。「日本書紀」には、671(天智10年)年4月25日、天智天皇が漏刻(ろうこく)をつくって、鐘や鼓で時を知らせたとあります。この日を太陽暦にすると6月10日。冒頭で述べた時の記念日というわけです。
 現代人の時間に対する感覚は、「現実はバタバタ、理想はゆうゆう」なのだそうです(2003年4月セイコー樺イ査)。一説では、ヒトの体内時計の周期リズムは約25時間なのだとか。
 寝坊の言い訳にはできませんが、たまには時間を忘れて、太陽と星、体内時計のおもむくまま、ゆっくりとしたひとときを過ごしたいものですね。もちろん「腹時計」の音にも耳を澄ませて。

参考文献
(社)日本時計協会 http://www.jcwa.or.jp/
時計と人間/織田一朗著 裳華房
時と時計の最新常識100/織田一朗著 ホーム社
腕時計の誕生/永瀬唯著 廣済堂出版


100%  風薫る5月。ですが、あと1ケ月もすれば、日本はすっぽりと梅雨空に包まれてしまいます。 ダニ・カビが多く発生する季節に先駆けて、掃除の大切さを呼びかけるのが、5月30日の「掃除機の日」。 昭和61(1986)年、(財)日本電機工業会によって提唱されました。 5・3・0の軽快な語呂合わせ、「ゴミゼロの日」として全国各地で美化運動が繰り広げられる日としても知られています。
 世界で初めて掃除機がお目見えするのは1901年のイギリス。 橋梁技師のヒューバート・セシル・ブースによって、真空を利用した掃除機が考案されます。 しかし、当時はまだ一般家庭に電気も通っていない頃。 機械自体も巨大で、窓から室内にホースを引き込まなければならないほどでした。 ブースは、機械を四輪馬車に載せて、希望者の家を訪れる「出張掃除サービス」を行っていましたが、部屋をきれいにするには、住人は大騒音に耐えなければなりませんでした。 それから4年後のアメリカで、最初の家庭用ホータブル掃除機が誕生します。 機械の重さは40kgもあり、手押し車に載せられていました。 その後、軽量化が進み、ハンドル部分にほこり袋のついたアップライト型掃除機が開発され、徐々に市民権を獲得していきます。
 一方、日本には1920年代後半に紹介されますが、実際に使用されることはなかったようです。 初の国産掃除機を発売するのは、東芝(1931年 (昭和6年))。 この頃は掃除といえば、まだまだホウキが主役の時代。 一般家庭で使われるようになるのは、終戦後の1950年代から。 1960年代以降、住まいにじゅうたんが取り入れられるようになると、急速に普及していきます。
 さて、日本の掃除機は諸外国と比べ、独自の発達を遂げています。理由は、住宅事情。 畳や木材、じゅうたんが混在する小さな部屋に、たくさんの家具がならぶ住まいでは、集じん方法や操作性に大きな工夫が必要だったのです。 現在、主流のキャニスタ型は、軽く、狭いすき間にもホースや延長管が入っていくようになっています。 最近では、掃除機はさらなる進化を遂げ、「排気を出さないエアサイクルタイプ」「コードレス」「紙パックを使用しないタイプ」など新しい顔が登場しています。 機能重視もよいですが、“使ってこそ”の掃除機。 今日も住まいのゴミゼロをめざしてがんばりましょう。

参考文献
(社)日本電機工業会 http://www.jema-net.or.jp/
生活を変えた技術/(社)日本機械学会編 技報堂出版


100%  「朝の読書」ってご存知ですか。これは小・中・高校で毎朝始業前の10分間、教師も生徒もみんな揃って自分の好きな本を読むという取り組みで、勉強への意欲向上など著しい成果があるそうです。“あさどく”を実践している学校の図書館には、たくさんの生徒たちが訪れることでしょうね。4月30日は図書館記念日。図書館法が公布された日(昭和25(1950)年同日)にちなみ、昭和46(1971)年、日本図書館協会が定めました。
 図書の始まりは、古代メソポタミアのシュメール文明が残した「粘土板図書」とされています。この楔形文字が刻まれた粘土板はまとまって発見されることが多く、図書館のルーツを推測させます。その起源は紀元前2,500年ぐらいまでさかのぼることができるといいます。建造者がわかっているもので最も古いのは、紀元前7世紀アッシリア(メソポタミア北部のティグリス川沿いに起こった帝国)の都ニネベに建てられたアッシュールバニパル王の図書館で、ここから発掘された25,000点の粘土板は現在、大英博物館に保存されています。
 日本では今から11年前、法隆寺で「書屋」と書かれた、7世紀初頭の板が発見されました。この「書屋」は図書館とも考えられ、もしそうだとすれば日本最古の図書館となります。奈良時代からは、政府組織の中に「図書寮(ずしょりょう)」が設けられ、経典や歴史書の編纂・保存が行われるようになりますが、何よりも為政者のための閉ざされた文庫でした。やがて遣唐使を通じて多くの書物がもたらされるなか、学問のための資料として、個人でも所蔵する気風が生まれます。これら「公家(くげ)文庫」の最も古いものとしては、宝亀元(770)年、石上宅嗣(いそのかみやかつぐ)が構えた芸亭(うんてい)が挙げられます。ここは好学の士に解放され、日本初の公開図書館とされています。近代的図書館の始まりは、明治5(1872)年、文部省によって東京・湯島につくられた「書籍館(しょじゃくかん)」で、その後、紆余曲折を経て、昭和23(1948)年「国立国会図書館」となりました。
 現在、国内には2,639の公立図書館があります(学校除く)。蔵書数は2億8,700万冊、一年間に延べ5億以上の本が貸し出されています。最近では音楽CDやビデオ類もたいへん充実しています。何より無料が魅力。上手に活用したいものですね。

参考文献
図書及び図書館史/寺田光孝 加藤三郎 村越貴代美共著 樹村房
図書館の歴史/寺田光孝 藤野幸雄共著 日外アソシエーツ
国立国会図書館 http://www.ndl.go.jp
(財)日本図書館協会 http://www.jla.or.jp


100%  もうすぐ新入学の季節。ピカピカのランドセルを背負った、ピカピカの1年生が誕生します。3月21日はランドセルの日。3+2+1が小学校の修業年数になることから、ランドセルをミニサイズに加工する製作者たちによって提唱されています。
 ランドセルの元祖は、幕末の頃、西洋式の軍隊制度のひとつとして取り入れられた、背負うタイプのかばん「背(はい)のう」であるといわれています。これが小学校の教材入れとなるのは、明治18(1885)年のこと。皇族や華族の子弟教育を担っていた学習院では、開校から8年目のこの年、馬車や人力車での通学を禁じます。それと同時に、軍隊用の背のうに学用品類を入れて利用することが推奨されます。この背のうがオランダ語でランセルと呼ばれていたことから、やがてランドセルという言葉が生まれたとされています。リュックサックに近いものから、現在のような箱型のしっかりとしたランドセルが誕生するのは、明治20(1887)年。大正天皇の入学をお祝いして、時の内閣総理大臣・伊藤博文が特別に誂えたものを献上します。これがこんにちのランドセルの直接のルーツのようです。
 ランドセルは、背負うことによって重さの負担が軽減できる、両手が自由に使えるとあって、小学生の通学カバンとして都市部を中心に普及していきますが、地方では長い間、教材を風呂敷に包んで通学するのが一般的でした。全国的に広がるのは昭和30年代以降。また、豚の革に代わって、牛革素材のランドセルが出回り始めるのは昭和20年代後半からです。
 さて、小学生の通学カバン事情、世界に目を転じてみれば実にさまざま。日本同様、背負い式なのが韓国やノルウェー。ロシアやインド、ブラジルでは手提げスタイル、ドイツ、フランス、イタリアでは背負い兼手提げタイプです。日本ではあまり見掛けなくなった肩掛け式を採用しているのは中国やシンガポール。また、教科書は学校に置いておくというイギリスでは小さな背負いカバン、同じくアメリカやカナダでは原則的に手ぶら通学のようです。
 男児は黒、女児は赤と決まっていたランドセルにも、20色以上のバリエーション、キャラクターデザイン、横型...と新しいトレンドが生まれています。とはいえ、小学生の6割以上が6年生まで使用するというデータもあるようですから、お子さまの成長と同様、長い目で見て、選びたいものです。

参考文献
(社)日本かばん協会ランドセル工業会 http://www.randoseru.gr.jp
(株)クラレ http://www.clarino.com


100%  さて、カレーライスとライスカレー、どちらの呼び名が本当なの?と思ったことはありませんか。「カレーが多いのがカレーライスで、御飯が多いのがライスカレーだよ」「いやいや、御飯のうえにカレーがかけられていて、醤油やソースを加えて食べる大衆的なものがライスカレーで、御飯とカレーが別々の器に入って出てくる、ちょっと高級感のあるものがカレーライスさ」とホットなカレー談義が続きますが、どちらが正しいとはいえないようです。歴史的な経緯を振り返ってみると、日本にカレーが紹介され、洋食屋から家庭へ、都市部から地方へと浸透していった時期はライスカレーと呼ばれ、国民食としての地位をしっかりと確立した高度経済成長期以降はカレーライスと呼ばれるようになったという説が有力のようです。
 ライスカレーの名付け親として挙げられる人物に、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の名文句でお馴染みのクラーク博士がいます。マサチューセッツからやってきた博士は、日本青年のあまりにも貧弱な体格を憂い、学問よりもまず栄養と体質改善だと考えます。そこで肉食、洋食が大いに奨励されるのですが、明治9(1876)年に掲げられた規則には《生徒は米飯を食するべからず。ただし、らいすかれいはこの限りにあらず》の一項があったといいます。残念ながらこの話には、確かな証拠がありませんが、札幌農学校の寮が「ライスカレー」という料理を作り、生徒に食べさせていたことは間違いないようです。
 カレーライスのお供といえば“福神漬”。このめでたい名前の漬け物は、明治18(1885)年、東京上野の漬物店「酒悦」15代目野田清佐衛門が考案したもので、ダイコン、ナタマメ、ナス、シイタケ、カブ、ウド、シソの7種の野菜を「福の神」に見立てています。これをカレーライスの薬味として初めて取り入れたとされているのが、日本郵船の豪華客船「氷川丸」です。昭和7(1932)年、横浜港からシアトルに向かう船上、この「郵船名物カレーライス」を毎昼欠かさず食べていた人物こそ、チャールズ・チャップリンです。
 銀幕の喜劇王にも愛された日本洋食カレーライス。日本人は一年に約66回、週に1回以上は、カレーを食べている計算になるのだとか。家庭でカレーを作って食べる頻度は月に2.5回。カレー粉の消費量も世界で1,2位を争うまでとなっています。

参考文献
丁髷とらいすかれい/金田尚丸 遊タイム出版
たべもの歴史散策/小柳輝一  時事通信社
とんかつの誕生/岡田哲    講談社選書メチエ



29.五感だけを頼りに、スパイスと格闘。初の国産“調合”カレー粉誕生〜「カレーライス」前編
100  「おせちもいいけどカレーもね」。お正月、淡泊な味わいの料理に食傷して、このフレーズを思い浮かべた方も多いのでは?カレーはもともとインド4000年の料理。何種類ものスパイスを複雑に組み合わせてつくられるもので、その配合比は無限にあるといわれています。カレーの食文化が海を渡るのは、1772年。のちに初代ベンガル総督となるウォーレン・ヘイスティングによって、イギリス本国に紹介されます。宮廷料理としてもてはやされたカレーは、欧州風のレシピを取り入れながら、国境を越えて普及していきます。文明開化華やかなりし頃、日本にやってきたのも西洋料理としてのカレーでした。
 明治初期には、限られたレストランでしか食べられない高価なハイカラ料理だったカレーも、洋食屋が増えていくにつれて、身近なメニューとなっていきます。大正期までには、少量の肉とジャガイモ、タマネギ、ニンジンを使い、小麦粉で強めのとろみをつけた“和洋折衷”“具だくさん”日本独自のカレーの形が出来あがります。御飯によく合い、簡単に作れるカレーは、家庭料理としても人気が高まっていきましたが、当時、カレー粉はほとんどが輸入品で、それもイギリスのC&B(クロス・アンド・ブラックウェル社)が大半を占めていました。まねをしようにも、スパイスの配合比率は秘中の秘。それ以前に、カレー粉の本当の正体〜それが十何種もの香辛料を調合したものであることを知る日本人はいなかったのです。もちろん国産のカレー粉はありましたが、輸入品にトウガラシなどを加えたもので、オリジナルとは言いかねました。
 初の国産“調合”カレー粉がお目見えするのは、1930(昭和5)年。少年の頃に食べたカレーの美味しさが忘れられなかった山崎峯次郎は、自分の五感だけを頼りに、スパイスの種類とその配合比率を独学で突き止めます。気の遠くなるような作業に、十余年を費やしたこの人は、ヱスビー食品(株)の創業者。質の良いカレー粉が十分かつ安価に行き渡ることで、カレーライスは真の大衆化、「国民食」への道を歩み始めるのでした。
参考文献
丁髷とらいすかれい/金田尚丸 遊タイム出版
たべもの歴史散策/小柳輝一  時事通信社
とんかつの誕生/岡田哲    講談社選書メチエ



28.苦難の末、日本の味と西洋の食を融合。銀座・木村屋発祥「あんパン」
100  6000年以上の歴史を持つといわれる「パン」に、日本人が初めて接するのは今から450年余前。 種子島に漂着したポルトガル人が、常食としてライムギ入りのパンを食べることを知ります。 時に1543(天文12)年、鉄砲伝来の出来事としても有名ですね。 パンは米飯を好む日本人の食生活には馴染まなかったようですが、軽くて携帯に便利で、保存がきき、消化良く、煮炊きの必要がないという利点から、江戸末期に入ると、兵食として注目されるようになります。 伊豆韮山の代官だった江川太郎左衛門(坦庵:たんあん)は、1842(天保13)年、自邸にかまどをしつらえ、兵糧(ひょうろう)パンの試作を行います。 日本のパン祖ともいうべき江川坦庵が、パン作りに挑戦した日にちなんで、毎月12日は「パンの日」となっています。
 一方、菓子パンの祖といわれるのが、初めて「あんパン」をつくった木村安兵衛です。 もと武士の安兵衛は、明治元(1868)年、東京の職業授産所に勤めていた折、長崎でパン焼きの経験があるという人物と出会い、新しい事業=パン屋を志します。 しかし、その道は困難に満ちたものでした。 1869(明治2)年、現・新橋駅前に「文英堂」という洋風雑貨兼パン屋を開きますが、間もなく火災により焼失。 翌年、銀座5丁目に移り「木村屋」と改めるも、再び大火に見まわれます。 現在、銀座三越のある一等地に店を再建したのが1874(明治7)年。 そしてこの年、ついに安兵衛と息子の英三郎は「あんパン」を完成させます。 成功の鍵は、試行錯誤の末に考案した酒種酵母。 これにより発酵させたパンは、もちもちとした食感と日本酒のほのかな香味・甘みがあり、まさに日本人好みの味わいでした。 日本と西洋の食文化が融合したあんパンは、たちまちのうちに銀座名物となり、店は押すな押すなの大盛況だったといいます。 1875(明治8)年4月4日、木村屋のあんパンは、東京向島の旧水戸藩下屋敷を訪れた明治天皇・皇后へと献上されました。 両陛下はたいそうお気に召され、「引き続き納めるように」とご下命されたといいます。
 明治の末になると、木村屋から「ジャムパン」、新宿・中村屋からは「クリームパン」が、昭和に入ると東京・両国橋の名花堂(現カトレア洋菓子店)から「カレーパン」が発売されます。 そして今や「菓子パン」は日本の食の風景になくてはならないものとなっています。

参考文献
コムギの食文化を知る事典/岡田哲 東京堂出版
とんかつの誕生/岡田哲      講談社選書メチエ
パンと麺と日本人/大塚滋     集英社




27.地域に新しい産業を。雪をも溶かす情熱でぶどうづくりに挑む。ワイン(後編)
100  前編でご紹介した山梨に続く、国産ワインのもうひとつの潮流は、“雪の越後高田”(現新潟県上越市)で生まれました。1890(明治23)年、川上善兵衛は自宅の庭園に鍬を入れ、私財を投じて「岩の原葡萄園」を拓きます。  代々土地の庄屋を務めた川上家は、幕末期の勤皇方志士との交流も深く、その中のひとり、咸臨丸艦長としてアメリカに渡った勝海舟から、欧米の食習慣を聞いた善兵衛は、ワインが日本にも根付いていくであろうと確信したのでした。  しかし、そもそもワインを造るぶどうの栽培に適しているのは、日照時間が長く、温暖な風土。これはワインが水に恵まれない地方で、飲み水の代わりとして発達してきたという歴史からも明らかです。いきおい善兵衛のぶどう栽培は、豪雪との闘いとなったのです。  失敗にも屈せず、雪国の気候に適したぶどうを求めて品種改良を繰り返し、結果1万株以上の交配種を誕生させます。なかでもマスカット・ベーリーAは、現在、国内ワイン醸造用の代表的な品種となっており、善兵衛は「日本のぶどうとワインの父」と称されています。  さらには難物の雪を活用して雪室をつくり、当時としてはめずらしい低温発酵法を考案するなど、創意工夫を重ね、忍耐強くワイン造りに取り組んできました。昭和の初めには洋酒の寿屋(現サントリー(株))が経営に参画。「岩の原葡萄園」では日本最古のワイン蔵が、今も現役で活躍しています。
 日本において本格的なワインが受け入れられるようになるのは、生活様式の欧米化が顕著となる、1970(昭和45)年の大阪万博以後といわれています。最近のブームの強力な牽引車となっているのが「ワインの健康効果」。赤ワインに豊富に含まれるポリフェノールが活性酸素を抑制して、さまざまな生活習慣病の原因となる動脈硬化を防いでくれるというものです。また白ワインの抗菌効果も大きな話題となりました。  「ワインは最も価値ある飲み物で、最もおいしい薬」といったのは、ギリシアの医学者ヒポクラテス。でも、量が過ぎては健康効果も台無しです。一日の適量(200〜300mlが目安)を守って、細く長〜くお付き合いください。

参考文献
ワインの常識/稲垣眞美 岩波新書
ワインの科学/清水健一 講談社
岩の原葡萄園 www.iwanohara.sgn.ne.jp



26.舶来の妙なる味わいを日本でも。国産ワイン第一号は山梨から。ワイン(前編)
100  フランス人約60リットル、日本人約2リットル。これは国民1人当たりの年間ワイン消費量。日本市場において、ワインはお酒全体の3%弱のシェアにとどまる一方、1990年からの10年間で消費は2倍に増えるなど、着実な広がりをみせています。
 8000年以上も前から、人の手による醸造が行われてきたワイン。 初めて口にした日本人は、ポルトガルの宣教師から献上を受けた織田信長ではないかといわれています。 しかし、この外来の風味が一般の人々に知られるようになるのは、時代が下がって、明治の文明開化の頃。 国産ワイン先駆けの舞台は、今も名産地として知られる山梨県。 明治3(1870)年、横浜でワインを味わい、そのおいしさに感激した甲府の山田宥教と詫間憲久は共同で醸造を始めます。 明治7(1874)年には白ワイン約900リットル、赤ワイン約1800リットルの生産に成功、これが初の国産ワインとされています。 それを知った、時の山梨県知事藤村紫朗は、県内で本格的にワイン事業を興そうと考え、明治10(1877)年、篤志家を募り「大日本山梨葡萄酒会社」を設立。 早速、高野正誠、土屋竜憲2人の若者をフランスへと派遣し、本場でぶどう栽培と醸造法を学ばせます。 そして明治12(1879)年から、勝沼産のぶどうで造ったワインの出荷を始めます。 西洋の新しい味わいとして上々の評判を得たのもつかの間、人気が定着せず、品質も不安定だったため、会社は10周年を待たずしてやむなく解散となります。 しかし、メンバーのひとり宮崎光太郎は独力で事業を継ぎ、勝沼の自然条件に適した品種を探し求めて、さまざまな外国産ぶどうの試験栽培を試みます。 苦心の末造りあげた「大黒天印甲斐産葡萄酒」は永続的に売れ、これにより事業は軌道に乗っていきます。 この会社は現在、メルシャン勝沼ワイナリーに引き継がれています。
 そして同じ頃、ぶどう栽培にはおおよそ適していない雪国で、国産ワインづくりを始めた勇気ある先駆者がいました。そのお話は次回後編で。

参考文献
ワインの常識/稲垣眞美 岩波新書
ワインの科学/清水健一 講談社
メルシャン株式会社   http://www.mercian.co.jp
山梨県ワイン百科    http://yamanashi.visitors-net.ne.jp/~wine/



25.僧侶や貴族向けの高級食材「豆腐」。江戸時代から庶民の食卓に登場
100  「世の中は豆で四角で柔らかで また老若に憎まれもせず」と豆腐を歌ったのは、江戸時代の禅僧・隠元(中国から隠元豆を伝えた人物としてもお馴染み)です。豆腐の魅力は、“畑の肉”といわれる大豆由来の栄養分の豊富さと、食べ続けても飽きのこない淡泊な味わい、やさしい口当たり。そして、毎日でも食卓にのせられる値段の手頃さでしょうか。
 豆腐は中国生まれ。伝説では、淮南王劉安(わいなんおうりゅうあん、紀元前178〜122年。項羽を破って漢王朝を興した劉邦の孫)が発明したとされています。この豆腐がいつ、誰によって日本へ伝えられたかについては不明ですが、飛鳥・奈良・平安時代を通じて、たくさんの留学僧が中国へ渡ったことから、これらの遣隋使・遣唐使が豆腐の製法を持ち帰ったとも考えられます。初めて文献に登場するのは、平安時代の末期です。
 殺生を禁じた仏法に従う僧侶たちの貴重なたんぱく質源として精進料理に取り入れられてきた豆腐は、やがて貴族社会へと広まり、江戸時代に入って一般の人々の食卓を賑わすようになります。徳川幕府は経済の安定をはかるために価格統制を布いていましたが、その中には豆腐も含まれるなど、庶民の食生活とは切り離せない食材になっていたようです。煮て、焼いて、揚げて、蒸して、和えて・・・と料理の素材としての魅力を紹介したのが、天明2年(1782)に出版された『豆腐百珍』です。料理書としてだけではなく、読み物としても高度な内容をもった本書はたいへん好評で、翌年には『豆腐百珍続編』が、翌々年には『豆腐百珍余録』が出版されました。正編・続編に記載されたレシピは238種にのぼります。
 さて、そろそろ新大豆の季節。大豆は、良質のたんぱく質やビタミン、カルシウム、ミネラルを含む“栄養の宝庫”ですが、組織が固く、そのままではじゅうぶんな消化が望めません。しかし、豆腐や湯葉、納豆、みそ、きな粉などに加工することで、栄養分を効率よく消化吸収できるようになります。なかでも豆腐の消化率は95%以上とダントツです。

参考文献
和食の履歴書/平野雅章          淡交社
落語にみる江戸の食文化/旅の文化研究所編 河出書房新社
たべもの歴史散策/小柳輝一        時事通信社



24.ハイカラな店の雰囲気も“味わい”のうち。連日大入り、明治のビヤホール
100  暦の上では秋、というのがうらめしいほどの残暑。「いやー、今日も暑かったなぁ」「そこのビヤホールで冷たいのをキューッと一杯どう?」とは会社帰りのサラリーマンの会話。過去のデータからビールは気温が25℃以上になると、1℃当たり大瓶230万本分の売り上げ増が見込まれるのだそう。
 日本に初めてビール醸造所ができたのは1869(明治2)年のこと。アメリカ人ウィリアム・コープランドが横浜に「スプリング・バレー・ブルワリー」を開きます。それから6年後には、醸造所隣りに「スプリング・バレー・ビヤガーデン」をオープン。これが日本最初のビヤホールといわれています。ちなみに、この醸造所は明治の半ば、横浜在住のイギリス人によって買収され、ジャパン・ブルワリーの会社名で「キリンビール」を発売しますが、明治の末には麒麟麦酒に引き継がれます。
 さて、日本人による初のビヤホールは、1895(明治28)年、京都勧業博覧会において大阪麦酒(現 アサヒビール株式会社)が開いた「アサヒ」のビヤホールといわれています。期間中、一日平均500人以上も訪れた盛況ぶりを受けて、同社は大阪の中之島に「ゼルマン風流ビール会」を開設。その2年後には、本格的なビヤホール「アサヒ軒」の第一号店をオープンします。
 一方、東京でもビール大衆化の先駆けとなるビヤホールが出現します。1899(明治32)年、日本麦酒株式会社(現 サッポロビール株式会社)が銀座に開業した「恵比寿ビヤホール」です。「ビヤホール」という名称は、この店から始まったといわれています。価格は割高だったにもかかわらず、来客数は一日平均800人という大繁盛ぶり。ビールという新鮮な味わいもさることながら、モダンで豪華な酒場の雰囲気に憧れて《遠方からわざわざ馬車で(当時の新聞記事)》駆けつける人も多かったようです。
 近年、ビールの抗酸化作用、骨密度減少抑制作用、血中脂質の代謝改善など、体にうれしい健康効果が次々と発表されています。でも、あくまでも適量飲酒が前提。爽快なのどごしの良さに誘われてついつい飲みすぎ・・・ということのないよう、上手に納涼に利用したいものです。

参考文献
食の366日話題事典/西東秋男編          東京堂出版
酒場の誕生/玉村豊男 TaKaRa酒生活文化研究所編  紀伊國屋書店



23.偶然の産物?ワラに包んだ煮豆がネバネバ糸引く食べ物に。古くて新しい健康食・納豆
100  7と10で「なっとう」。このシンプルな語呂合わせ、7月10日は「納豆の日」です。現在、納豆といえば「糸引納豆」がお馴染みですが、ネバネバと糸を引かない納豆もあります。その代表が一休禅師から製法を授かったと伝えられる京都の大徳寺納豆です。糸を引かないのは納豆菌ではなく麹菌で発酵させているため。かなり塩辛く酸味も強いゆえ、ご飯にかけて食べるよりは酒の肴やお茶うけに用いられたようです。「塩納豆」、または伝統的にお寺で作られていたので「寺納豆」とも呼ばれます。静岡の「浜納豆」もこの仲間です。
 ここからは糸引納豆のお話。今でも茨城県水戸などの有名産地では、昔ながらのワラ包みの商品が売られています。実は、納豆誕生のカギを握るのがこのワラなのです。稲ワラ一本には平均して約1,000万個の納豆菌が付いているそうです。大豆を煮たり蒸したりしたものを、ワラに包み、ほど良い温度・湿度に保つことで、納豆菌が豆のタンパク質を分解して猛烈な勢いで発酵、ネバネバした納豆が出来上がる・・・というわけです。納豆の起源は明らかではありませんが、旅や戦争の遠征時に煮豆をワラに包んで何日かおいたところ、納豆になっていたという伝承は数多く残されています。とりわけ、前九年の役(1051-62年)、後三年の役(1083-87年)で、安倍一族の討伐のため奥州に赴いた源義家が発見したという説は根強く、東北地方には「納豆発祥の地」を掲げる町が多く存在します。
(1)福島市 (2)水戸市 (3)前橋市 (4)山形市 (5)盛岡市 (6)仙台市 (7)青森市 (8)熊本市。この順位は、県庁所在地別1人当たりの納豆購入金額です(総務省「家計調査」2000年)。総じて西日本は少ない傾向にありますが、注目すべきは納豆消費の“飛び地”熊本市。当地へは、源義家によって東北から太宰府に追われてきた安倍宗任が、納豆の製法を伝えたといわれています。
 近年、納豆は良質のタンパク質や各種ビタミン、ミネラルに加えてレシチン、サポニン、イソフラボン、ナットウキナーゼといった体によい成分を含むとして、世界的にも大きな注目を集めています。ネバネバパワーで健康に!といきたいものです。

参考文献
健康食・体になぜいいの?3「豆腐・納豆」/大久保一良監修  NHK出版
『県民性』がわかるおもしろ食の大事典/ハイパープレス    青春出版社
食の366日話題事典/西東秋男編                東京堂出版



22.アメリカの味を再現、日本で最初の“あいすくりん”は横浜生まれ。アイスクリーム(後編)
100  日本人で初めてアイスクリームを食べたのは、幕末の万延元(1860)年、日米修好通商条約本書交換のためアメリカに派遣された幕府の使節団といわれています。「珍しきものあり。(中略)味は至って甘く、口中に入るるに忽ちとけて、誠に美味なり。これをあいすくりんという」と当時の航海日記にはおいしさに驚いた様子が残されています。また、他の仲間たちに持ち帰ろうと懐紙に包み、ふところに入れておいたところ、溶けてしまって服も身体もベタベタになった・・・という逸話もまことしやかに伝わっています。この使節団のなかに、日本で初めてアイスクリームを製造・販売した人物がいました。町田房造は明治2(1869)年、横浜の馬車道においてアメリカで習い覚えた“あいすくりん”を売り出します。この日が〈前編〉の冒頭でご紹介した5月9日。昭和40(1965)年、日本アイスクリーム協会によって「アイスクリームの日」と定められた日です。
 明治35(1902)年、アメリカのドラッグストア形式の「資生堂薬局(のちの資生堂パーラー)」が銀座に開業。店内の一角で売り出した甘くて冷たいアイスクリームはたちまち銀座名物となり、森鴎外や夏目漱石の小説にも登場するようになりますが、庶民にとってはまだまだ高値(高嶺)の花でした。
 そしてアメリカから遅れること約70年。大正の半ばには、日本においてもアイスクリームの工業化が始まります。その後、カップアイスの登場や、フリーザー付きの冷蔵庫の普及などにより、アイスクリームの大衆化がすすみ、おやつやデザートとして、いつでも美味しく気軽に食べられるようになりました。
 ここでちょっと興味深いデータをご紹介しましょう。県庁所在地別1世帯当たりの「アイスクリームの年間支出金額」を見てみると、3位は宇都宮市の8,969円、2位は福井市9,056円、1位は盛岡市の9,181円でした。逆に最も低いのが那覇市の4,374円。また、全国平均は7,467円ですが、九州地方の8都市中4都市が6,000円台となっています。ことアイスクリームの消費に関しては、気候との相関関係はあまり見受けられないようですね。(平成12年総務省家計調査より)

参考文献
洋菓子はじめて物語/吉田菊次郎  平凡社新書
たべもの史話/鈴木晋一      小学館ライブラリー
(社)日本アイスクリーム協会    www.icecream.or.jp



21.イタリア生まれ、冷凍技術の発達とともに美味しく進化。アイスクリーム(前編)
100  5月9日はアイスクリームの日。統計的に気温が23℃を超えるとアイスクリームが売れ始めるそうです。30℃以上になると、涼感たっぷりのかき氷の出番。こちらの記念日は7月25日。昭和8(1933)年、山形市で国内最高気温40.8℃が記録されたことと、「な(7)つ(2)ご(5)おり:夏氷」にちなみ日本かき氷協会が定めたそうです。
 さて、氷菓の歴史は古代ヨーロッパまでさかのぼることができます。紀元前4世紀、大帝国を築いたギリシアのアレクサンダー大王は、山から氷雪を運ばせ、それにミルクや蜜、果汁、酒などを混ぜた氷菓を好んでいましたが、時には兵士に与え、士気を鼓舞していたといいます。それもそのはず、氷は肉体を元気づける「健康食品」と考えられていたのです。一方、中国やアラビアでも、天然の氷雪を使った氷菓がつくられていたようです。一説では、「東方見聞録」でお馴染みのマルコ・ポーロが、中国からシルクロードを経由してイタリアへ伝えたとも。また、「千夜一夜物語」に出てくる、アラビアの冷たい飲み物シャルバートは、フランス語のソルベ、英語のシャーベットの語源とも考えられています。
 16世紀のイタリアでは、氷菓が発達する大きな転機が訪れます。冷凍技術の発明です。さらに国家間の政略結婚によって、食を含めた文化の交流が行われ、イタリアから発した氷菓づくりは、フランス、イギリス、ヨーロッパ全土へと広がっていきます。その間、シャーベット状のものに加えて、乳成分を含んだ今日的なアイスクリームへと進化していきます。そして、イギリスからの植民者によって、アメリカに伝えられるや爆発的に広まり、1851年“アイスクリーム産業の父”ジェイコブ・ファッセルにより大量生産が行われるようになります。現在アメリカのアイスクリーム年間生産量は世界第1位、2位の中国に3倍以上の差をつけたダントツのトップです。ちなみに日本は第3位。国民一人当たりの生産量となると、第1位はニュージーランド、2位アメリカ、3位オーストラリアと続き、日本は11位です。(国際アイスクリーム協会2000年データより)

参考文献
洋菓子はじめて物語/吉田菊次郎  平凡社新書
たべもの史話/鈴木晋一      小学館ライブラリー
(社)日本アイスクリーム協会    www.icecream.or.jp



20.もっと早く、さらに便利に。宅配便の元祖は♪クロネコヤマトの宅急便
100  4月。親元を離れて一人暮らしを始めた方もいらっしゃるでしょう。期待と不安が交錯する日々のなか、ふるさとから届く宅配便に思わず胸が熱くなる・・・そんな季節です。
 一般家庭からの小口荷物を配達する宅配便が誕生したのは、昭和51(1976)年1月のこと。ヤマト運輸の“宅急便”がその先鞭をつけました。当時、小口の個人貨物を輸送する手段は、郵便小包か国鉄(現JR)の小荷物しかなく、さらに配達には1週間から10日間も要していました。そんな状況下で「電話一本で集荷。東京・大阪・名古屋などの主要都市なら翌日配達」といった画期的なサービスをウリに事業を開始したヤマト運輸。しかし、その挑戦は「清水の舞台から目をつぶって飛び降りる心境(当時の社長小倉昌男氏)」で臨んだ、イチかバチかの大勝負だったといいます。果たして初日の集荷はたったの2個。この新しい配送システムに人々が戸惑ったためですが、その後のクチコミや宣伝効果によって初年度は170万7000個の取扱いに達し、20年後の平成8(1996)年にはなんと7億387万個という急成長を遂げます。こうした宅配便の成長期に参入した会社の多くは、クロネコをはじめ、ペリカン、カンガルー、ダックスフンド、小熊など動物のキャラクターを使っていたため、業者間の競争は「動物園戦争」などとも呼ばれました。
 現在、宅配便業界は情報技術を駆使した、より高度なサービス競争の時代に突入しています。翌日配達圏はどんどん拡大し、保冷サービスなどの温度管理も徹底されるようになりました。また、お届け時間の指定や、配達日時をメールで知らせてくれるサービス、さらにはウェブサイト上で荷物が追跡できるシステムによって、より確実に荷物の受け取りができるようになっています。宅配便は「最近、便利になったなぁ」を実感できるサービスのひとつですね。

参考文献
よくわかる運輸業界/齋藤実         日本実業出版社
現代のトラック産業/交通研究協会      成山堂書店
あのヒット商品はこうしてつくられたTHE21特別増刊号/PHP研究所



19.わらじや下駄を履いてきた日本人の足に合う靴を。明治3年は、製靴元年
100  春。新入学・就職のシーズンです。今回の元祖発見!は、新しい世界への一歩を踏み出すたいせつな足元〜靴〜のお話です。
 履きものの起源は、大きく2つに分けられるといわれています。そのひとつがサンダル。現存する世界最古の履きものは、エジプト王家の谷から出土した黄金のサンダルで、今から3400年前のミイラが着用していました。もうひとつのルーツは、厳しい氷上生活を強いられるスカンジナビア半島やアイスランドで生まれたモカシンです。紀元前5世紀頃に生まれたモカシンは、獣の皮革で足を包み、‘茶巾ずし’の要領で紐でしばったものでした。民族の移動とともに、ヨーロッパ全土、アジア、北アフリカ、アメリカへ伝わっていくうちに、どんどん進化し、個性豊かな靴が生まれます。
 日本で現存する最古の履きものは、弥生時代の遺跡から発掘された「田下駄」です。しかし、これは歩行用というよりは、水田の泥に沈まないで作業するための特殊な道具でした。古代から奈良時代にかけては、貴族や豪族などの間で、大陸から伝来した靴がもてはやされます。その間もずっと裸足で暮らしてきた庶民が身につけ始めるのは、わらじ、ぞうり、下駄など、わが国独特の履きものが生まれる平安時代以降です。
 さて、千数百年の歴史をもつ“鼻緒グループ”に代わり、洋靴の需要が高まり始めるのは、幕末の頃。洋式の軍隊訓練を採用した幕府や諸藩は、靴の輸入を行っていました。しかし、細長くスマートな欧州製の靴は、甲高で幅が広い日本人の足には不向きだったといいます。わが国初の製靴工場がつくられるのは、明治3(1870)年。現在では靴の記念日となっている3月15日のことです。千葉・旧佐倉藩の藩士だった西村勝三が、東京築地に「伊勢勝・造靴場」を設立。ほぼ時を同じくして、弾(だん)直樹が「軍靴伝習御用製造所」を開いています。しかし、すべては軍需品で、一般大衆に広まるのは大正時代に入ってから。また、よそいきではなく、普段も気軽に洋靴を履くようになるには、さらに時間を要したのです。

参考文献
靴の事典/岸本孝  文園社



18.大手菓子メーカーが味と価格の大衆化に貢献、チョコレート
100  2月14日はバレンタインデー。男性の中には「甘い物はもう当分見たくないよ」と思っている果報者(!)もいらっしゃるのでは?日本の一世帯あたりのチョコレート支出額のうち、約2割が2月に集中しているのだそうです。
 チョコレートの発祥は、約4000年前の古代アステカ(現在の中南米)にさかのぼります。当時は不老長寿の薬として王侯貴族や神官の間で飲まれていました。“飲まれていた”というのは、すりつぶしたカカオ豆にとうもろこしの粉を加え、バニラやスパイスで香りつけしたものを水やお湯で溶かしていたからで、「ショコラトル(苦い水の意)」の名の通り、苦くて酸味の強い飲み物だったようです。
 16世紀、ヨーロッパへカカオ豆が伝えられると、砂糖を入れたチョコレートドリンクが貴族の間で流行します。“食べる”チョコレートが登場するのは1847年。オランダ人のバン・ホーテンがカカオ豆から脂肪分を取り去る技術を開発したのをきっかけに、イギリスのフライ社が板チョコを作ります。
 日本で初めてチョコレートが食べられたのは、江戸時代の長崎と考えられ、「ちょくらあと」などの字が文献に見られます。商品として加工・販売され始めるのは明治に入ってから。その元祖は東京・両国若松町にあった米津風月堂といわれており、明治10(1877)年に出した新聞広告では「猪口齢糖」と紹介されています。しかし、原料チョコレートを輸入して作られた商品はとても高価で、海外帰国者や外国人相手のものでした。そしていよいよ大正7(1918)年、日本初の国産チョコレートが販売されます。その先陣を切ったのは森永製菓。アメリカから最新機械を輸入し、試行錯誤の末、カカオ豆からの一貫生産に成功します。その8年後には明治製菓がミルクチョコレートを発売。一部の人しか口にできなかったチョコレートは、気軽に購入できるものになり、今では日本人ひとりが年間1.63kgのチョコを食べている計算になります。

参考文献
ザ・チョコレート大博覧会/町田忍      (株)扶桑社
チョコレートを1.2トン食べました/森部一雄  ネスコ
日本チョコレート・ココア協会        www.chocolate-cocoa.com



17.日本生まれ。世界で愛される国際食〜インスタントラーメン
100  日本人ひとり当たり年間41食。実はこれ、インスタントラーメンの消費量(袋めん、カップめんの合計。うどんやそば、パスタ類も含む。2000年データ)なんです。インスタントラーメン第一号の「チキンラーメン(日清食品)」が登場するのは、昭和33(1958)年のこと。のちに「魔法のラーメン」と呼ばれる、この革新的な商品は、安藤百福氏(日清食品現会長)の自宅の裏庭にある粗末な研究小屋から生まれたといいます。発売当時の1食35円は、お店で食べる中華そばと同じ値段。問屋さんが扱いを渋ったという話にもうなずけます。しかし「調理不要。ラーメンの革命児(当時のキャッチフレーズ)」は、品不足になるほどの爆発的なヒットに。その後200とも300ともいわれるメーカーが追随します。
 1960年代に入ると、味付けめんタイプからスープ別添えが主流となり、種類も焼きそば、タンメン、ワンタンメン、うどん・そば・・・と増えていきました。やがてはノンフライめん(非油揚げめん)へと進化し、インスタントラーメンは味わい・品質ともに向上しますが、誕生から10年経った頃から、売り上げの伸びが鈍化します。昭和46(1971)年、そんな成熟期の市場へ新風を巻き起こしたのが「カップヌードル(日清食品)」でした。「包装材」「調理器(なべ)」「食器」の三役をこなすカップによって、インスタントラーメンは熱湯さえあればいつでもどこでも食べられる正真正銘の“即席めん”になったのです。
 日本生まれのインスタントラーメンも、今や国際色ゆたかな「国際食」。世界中で年間なんと463億食(2000年データ)が消費されています。まさに「20世紀をうならせたメイド・イン・ジャパン(富士総研2000年調べ)」総合ランキング1位の貫禄ですね。

参考文献
20世紀をつくった日用品/柏木博  晶文社
(社)日本即席食品工業協会     www.instantramen.or.jp
日清食品             www.nissinfoods.co.jp



16.子どもたちに甘くて楽しい夢を 国産キャラメルの元祖〜森永製菓
100  日本に初めて西洋菓子が伝わったのは、天文12(1543)年。種子島での鉄砲伝来の際に、ビスケットやパンがもたらされたと考えられています。永禄12(1569)年には、ポルトガル人の宣教師が、織田信長に金米糖(こんぺいとう)を献上したという記録が残っています。しかし、その後の鎖国政策により西洋菓子が広まることはなく、日本人の手によって本格的に作られるようになるのは、文明開化の明治に入ってからです。
 明治32(1899)「日本人に西洋菓子を普及させる」という大きな夢を胸に、2年間のアメリカ留学から帰国した森永太一郎氏(森永製菓の創業者)は、わずか2坪の工場で菓子づくりをはじめ、大正3(1914)年、国産初のミルクキャラメルを発売します。さて、このミルクキャラメル。初めは袋売りでしたが、紙の箱に入れて販売することで、飛躍的に売り上げを伸ばしたといいます。その裏には、こんなエピソードがありました。明治44(1911)年に完成した帝国劇場は、今でこそ当たり前ですが、客席での飲食喫煙は禁止されていました。そこで人々は気軽に楽しめるおやつとしてキャラメルをポケットにしのばせていましたが、袋入りのため取り出すときにガサガサと耳障りな音を立てました。それを見ていた森永の社員、いっそ小さな箱入りにしてはどうかとひらめいたというもの。いつの時代もヒット商品のかげにアイディアあり、ですね。
 アイディアといえば、グリコのおもちゃ(おまけ)もよく知られるところ。創業当時、すでに先行していた森永、明治の二大製菓メーカーとの差別化をはかるために、昭和2(1927)年から付け始めたおもちゃ。現在までに、その種類は2万数千、数は約40億個にものぼるといいますから、いかに多くの子どもに愛されてきたかがわかりますね。

参考文献
明治はいから文明史/横田順彌  講談社
大阪の20世紀/産経新聞大阪本社社会部 東方出版
森永製菓  www.morinaga.co.jp
明治製菓  www.meiji.co.jp
江崎グリコ www.glico.co.jp



15. 日本のチーズづくり その始まりは、雄大な北海道の大地から
100  11月11日はチーズの日ってご存知でしたか?「人類が作った最も古い食品」といわれるチーズが、日本に初めて伝わったのは6世紀の頃。仏教とともに、チーズの原形ともいうべき「蘇(そ)」がもたらされます。これが不老長寿の食べ物として、朝廷の貴族に珍重され、文武4(700)年10月には、諸国の国司に向けて、蘇を作って献上するようにとの勅命が下されます。当時の10月は、現在の暦で11月。そこでチーズ普及協議会と日本輸入チーズ協議会の提唱で、1992年、日本におけるチーズの日が誕生しました。
 鎌倉時代以降は姿を消していったチーズが、再び登場するのは、文明開化めざましい明治に入ってから。まずは北海道の国の試験場でオランダのゴーダを手本としたチーズが試作されます。明治も終わりに近づくと、北海道・函館のトラピスト修道院で、フランスから来た修道士たちによって、本格的なナチュラルチーズが作られます。が、生産量も少ない高級品で、一般家庭の食卓にあがることはありませんでした。
 そして、いよいよ日本人によるチーズ作りが、昭和8(1933)年にスタート。雪印乳業の前身である「北海道製酪連合会」がチーズ専門工場を設立し、量産を始めました。しかし実際には、昭和の中頃までに日本人が口にしたチーズの量は微々たるもの。戦後、カルシウム不足を補うために、学校給食でプロセスチーズが取り入れられ、ピザやチーズケーキの人気とともに消費量が増えていき、1975年からの25年間に4倍以上の伸びを示します。それでも世界的にはまだまだ少なく、1人当たりの年間チーズ消費量は1.8kg。ちなみに「こんなにたくさんのチーズがある国を一つに治めるのは困難だ」とかつてド・ゴール大統領を嘆かせたフランスでは23.6kgです。チーズは、タンパク質やカルシウム、ビタミンA、B群が豊富な「完全栄養食品」であり、たくさんの種類と個性豊かな味わいがあります。広く深いチーズの世界を一度のぞいてみてはいかが?

参考文献
CHEESE/チーズ&ワインアカデミー東京監修  西東社
北海道ナチュラルチーズ紀行/大滝末馬監修  東京書籍
チーズ塾/東畑朝子著  グラフ社
チーズを楽しむ生活/本間るみ子  河出書房新社



14.あつあつご飯の友だち、ふりかけ 元祖は、全国ふりかけ協会のお墨付き
100  新米の季節です。ふっくらみずみずしく炊きあがったご飯は、稔りの秋ならではのご馳走。さらに、適度に塩味の効いた“ふりかけ”があれば、「おかわり!」の声も弾みます。
 ふりかけの元祖については、「是はうまい」【東京:丸美屋食品工業】、「露営の友」【広島】、「御飯の友」【熊本:二葉商事(現 株式会社フタバ)】、と3つの商品が並び立っていましたが、平成6(1994)年に開催された全国ふりかけ協会の総会で、元祖はフタバの「御飯の友」であると承認されました。
 「御飯の友」は大正の初め、熊本市で薬剤師をしていた吉丸末吉氏によって考案されたふりかけで、乾燥させた小魚をまるごと粉末状にし、青海苔、煎りゴマなどを加えて調味したものでした。その目的は、“日本人のカルシウム不足を補うため”だといいますから、いかにも薬剤師さんらしい発想ですね。「御飯の友」は今も根強いファンを持つロングセラー商品です。
 一方、福島市で食品販売業を営む傍ら、食品の研究に取り組んでいた甲斐清一郎氏は、独自の調味料を使って白身の魚と昆布を煮込んで乾燥させ、海苔や煎りゴマなどをブレンドしたふりかけを作ります。その名も「是(これ)はうまい」が売り出されるのは、大正14(1925)年のこと。昭和2(1927)年には、東京に進出して丸美屋食料品研究所を設立し、昭和35(1960)年、その後ふりかけの代名詞となる「のりたま」を発売します。
 広島の「露営の友」は、昭和3(1928)年、小松原要助氏が作って軍隊に納品したという記録が残っています。
 ひとふりで真っ白いご飯がぱっと華やぐふりかけマジック。最近では、減塩、カルシウム強化など健康志向も目立ちます。まさに、いつも食卓においておきたいご飯の友だちですね。
●フタバ     http://www.gohannotomo.co.jp/
●丸味屋食品工業 http://www.marumiya.co.jp/



13.大阪生まれ、庶民の味 
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 いよいよ食欲の秋到来、というわけで前回のたこやきに続き、大阪で生まれた“うまいモン”をご紹介しましょう。ダシがきいてるつゆと、ふっくらうどんの上に浮かぶ「お揚げ」。ご存知きつねうどんは、明治26(1893)年創業の松葉屋(大阪市中央区南船場)で生まれました。初代・宇佐美要太郎さんは「寿司にもいなりずしがあるように、うどんにもお揚げをつかった料理があっても不思議じゃない」と考え、お揚げをすうどん(かけうどん)に添えて出してみました。ところがお客さんを見てみれば、うどんの中に入れてつゆと一緒に食べています。そこでご主人、試してみれば・・・これはうまい!ところは船場。商売繁盛の神様であるお稲荷さんにちなんで「きつねうどん」と名付けられました。全国には、さまざまなきつねうどんがありますが、あっさり、こってり、まったりが三位一体となった「はんなり味」は発祥の地・大阪ならではの味わいなのだとか。
 味といえば、麺類のかけつゆは、食文化の違いを語るうえでたびたび引き合いに出されます。「東は濃い色、西は薄口」といわれる通り、関東はかつお節のだしと濃口醤油を使うのに対して、関西ではかつお節と昆布でだしをとり、薄口醤油で仕上げます。関東ではもりそばを好むので自然と濃いつゆに、うどんを多く食べる関西では、つゆを飲むからと考えられていますが、他にも食材の調達など、いろいろな要因があるようです。 そして、呼び方の違いも有名です。関西ではお揚げがのったうどんを「きつね」、同じくそばを「たぬき」といいます。片や関東ではお揚げをのせたものをそれぞれ「きつねうどん・そば」といい、揚げ玉(天かす)の場合は「たぬきうどん・そば」といいます。関東の「たぬき」は、関西では「ハイカラうどん・そば」と言うのだそう。どうです、覚えられましたか?

参考文献
きつねうどん口伝 松葉屋主人宇佐美辰一 聞き書き三好広一郎・三好つや子 筑摩書房




<-- td bgcolor="#EEEEEE">●月刊たこ焼き http://www.takoyaki.ne.jp/
12.大阪発、今や人気は全国区 たこやき元祖、会津屋
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 夏祭り。屋台と人波のあいだをそぞろ歩けば、どこからともなく漂ってくる香ばしい匂い。立ったまま、歩きながら、まんまるのあつあつを頬張る「たこやき」。この日ばかりは、お行儀の悪さも大目に見てもらえます。
 たこやきといえば、濃厚ソース、青のり、削り節がたっぷりとかけられているものがお馴染みですが、いわばこうしたコテコテスタイルのたこやきが登場するのは、昭和20年後半から30年代(1950年代)にかけて。そもそものルーツをたどれば、明治半ばにはすでにあったといわれる兵庫県明石の「玉子焼」に行き着くのだとか。一般には明石焼(あかしやき)として知られている玉子焼は、小麦粉をだし汁で溶いたり、タコのかけらを入れて焼くなど、たこやきとよく似た兄弟のようです。しかし、大きく異なるのがその食べ方で、おすましのような「だし」につけて、箸をつかっていただきます。食感もふわふわと柔らかで、ちょっと上品なおやつといった趣です。
 昭和に入ると、直系の兄貴分ともいえる「ラジオ焼」が大阪に登場します。これは水で溶いたメリケン粉に、こんにゃく・ねぎ・天かす・紅しょうがなどを入れ、丸い型に流して焼いたもの。当時たくさんあった屋台のなかに、福島出身の遠藤留吉さんが営業する「会津屋」(現本店:大阪市西城区)がありました。会津屋ではラジオ焼にひと工夫して、肉を入れて焼いていましたが、ある日お客さんがポツンとひと言「なにわは肉かいな。明石はタコ入れとるで」。昭和10(1935)年、こうして生まれた元祖会津屋のたこやきは、あらかじめしょうゆ味がついており、何もつけずに食べるあっさりタイプ。平成7(1995)年のAPEC大阪会議では、“サムライ・ボール”と称して各国の人々にふるまわれました。

参考文献
 たこやき〜大阪発おいしい粉物大研究 熊谷真菜著講談社文庫




11.はやい、おいしい、お手頃 世界初のレトルト食品・ボンカレー
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 “夏こそカレー!”食品メーカーの宣伝文句ではありませんが、食欲が出ない時には、ピリッとスパイスの効いたカレーで暑さを吹き飛ばしたくなります。そして今やカレーを語るとき、忘れるわけにはいかないのがレトルトカレーの存在です。
 インスタントラーメンが登場してちょうど10年目の昭和43(1968)年、2万食のレトルト食品が阪神地区で販売されました。これが大塚化学による世界初のレトルト食品「ボンカレー」です。しかし当初、耐熱用透明プラスチックフィルムを使った製品は、技術的に改善しなければならない点が多く、その後600個以上の試作を繰り返し、1年後にお目見えしたのが、熱にも衝撃にも強いアルミパウチ包装のボンカレー。
 目を引くパッケージデザインは和服美女が白いごはんにカレーをかけているという、斬新なアイディアのものでした。モデルの女性は、当時大塚グループが提供していた番組「琴姫七変化」の主役だった松山容子さん。同じデザインによるホウロウ看板約9万5千枚が製作され、全国の店先やバス停に掲げられました。ちなみに大塚製薬・オロナミンCの大村崑さんのホウロウ看板は、これまでにおよそ42万枚製作されたそうです。そしてボンカレーは昭和47(1972)年以降、「大五郎、3分間待つのだぞ」のCMとともに、全国的に大ヒットします。
 現在、レトルト食品はカレーをはじめ、シチュー、パスタソース、麻婆料理・どんぶり・釜飯の素、ハンバーグ、スープ、米飯類などバラエティ豊かな味わいで、私たちの食卓を彩っています。全国のレトルト食品メーカーは240社余りともいわれ、その市場規模は2000億円を上回ります。その元祖が30年以上前のボンカレー。まさにボン(おいしい)先駆者ですね。

●大塚製薬 http://www.otsuka.co.jp



10.駅弁の元祖対決 最有力候補は宇都宮駅
50  旅行といえば飛行機や自動車道でいっそく飛びに目的地へ、という便利で手軽なスタイルが主流となった昨今ですが、たまには列車に揺られるのんびり旅もよいものです。 移ろう風景を心に刻み、土地の匂いを感じ、お国言葉の響きを楽しむ・・・まさに五感を揺らす旅路ですね。 そして列車の旅の大きな楽しみのひとつが、郷土色豊かな「駅弁」。 最近では、デパートの物産展でも人気を競いあっている駅弁ですが、その始まり は?というと諸説あり、「当地こそは」と元祖をせりあっているようです。
 駅弁誕生の地としていちばん有力とされているのが、私鉄日本鉄道(現JR東北本線)の宇都宮駅(栃木県)。 1885(明治18)年7月16日に販売された弁当の中身は、ごま塩をふりかけた梅干し入り握り飯2個に、たくあんがついて、5銭ナリ。外国渡来の汽車と、日本古来のファーストフード“おにぎり”の組み合わせは、いかにも和魂洋才といった趣です。
 元祖駅弁はほかに、1877(明治10)年に神戸駅(兵庫県)で発売されたというものからはじまり、1883(明治16)年熊谷駅(埼玉県)、1884(明治17)年敦賀駅(福井県)、1885(明治18)年小山駅(栃木県)などが名乗りをあげていますが、いずれも文献などが残っていないため、元祖の認証を得るまでにはいかないようです。
 現在、駅弁は全国で2000種以上あるといわれ、東京駅では1日約3万個が、旅立つ人々の食を支えています。旅は道連れ、駅弁もまた旅の友。その土地ごとの自然の産物と食文化〜駅弁〜を楽しみながら、風の向くまま列車を乗り継ぐ・・・これこそ旅本来の醍醐味なのかもしれませんね。
●JR東日本 http://www.jreast.co.jp



09.ここから世界へ!光通信発祥の地、東北大学 電気通信研究所
100  世界三大発明といえば火薬、羅針盤、活版印刷術。これらは歴史の教科書などでお馴染みですね。 15世紀、グーテンベルグが印刷機を発明してから長い間、情報は“紙”によって運ばれてきました。 1876年にはベルによって「電話」が発明され、いよいよ20世紀に入るとトランジスタに代表される 「電子技術」が登場し、さらに早くたくさんの情報がもたらされるようになりました。 そして21世紀は「光」の時代になるというのが異論なき意見です。 私たちは膨大な量の情報を瞬時に手に入れることができるようになります。 たとえば、これまでのように銅線を使ったデジタル通信は、1秒間に伝送できる情報量の限界が 64kbpsから128kbpsですが、光ファイバによるデジタル光通信になると1秒間に新聞250年分の情報を 伝えることができます。
 さて、高度情報通信を劇的に進化させる力を持つ「光通信」ですが、実は“わが国発・世界初”の技術なのです!
 1854年、イギリスの物理学者チンダルによって原理が発見された光ファイバですが、実用化するのは難しく、さまざまな試行錯誤が繰り返されてきました。しかし、1960年のレーザー技術の誕生をきっかけに、光ファイバの研究開発には一筋の光が射します。そして、世界中の科学者による開発競争が激しさを増していた1964年、東北大学電気通信研究所の西澤潤一教授(元東北大学学長、現岩手県立大学学長)によって、光ファイバは現実のものとなるのです。
 政府は2010年(努力目標2005年)までに、光ファイバ網の全国整備をめざす方針です。「快適になったな」「とても便利」と感じたら、それが日本で生まれた技術であることを、ちょっと思い出してくださいね。
●東北大学電気通信研究所 http://www.riec.tohoku.ac.jp/index-j.html



08.日本の焼肉店の元祖、東の「明月館」・西の「食道園」
100  ジュージューと肉が焼ける香ばしい匂い、じゅわっと旨さが広がる柔らかな食感、タレと調和する絶妙の味わい・・・焼肉は今や日本を代表する人気メニューのひとつです。
 こんにちのように日本人が日常的に肉を食べるようになったのは、さほど古い話ではありません。わが国では、7世紀からたびたび殺生禁断令が出され、公での肉食が禁じられてきたという背景があります。しかし、1872(明治5)年、明治天皇が牛肉を試食されたことで、長きにわたった肉食禁制に終止符が打たれたのです。当時の文明開化を象徴するかのように人気を集めたのが「牛鍋」。今のすきやきですが、しょう油や砂糖で煮る独自の料理法が、日本人の好みに合っていたようです。
 さて、朝鮮半島の料理だった焼肉が、日本へ伝わってきたのは明治末頃といわれています。しかし、当時は限られた人々が食べたにとどまり、国内に広まることはなかったようです。戦後は、内臓を焼いて食べるホルモン焼きが庶民の味として馴染み深いものになっていきますが、まもなく現在の焼肉屋さんのようなお店が登場します。その元祖は、東は「明月館」(新宿西口)、西は「食道園」(大阪千日前)といわれ、どちらも50年以上の歴史をもっています。
 いまでこそすっかり浸透している「焼肉」という言葉ですが、これはプルコギ(火で焼いて食べる肉)を日本語にしたものだそうです。また、焼く前に「もみダレ」につけこむプルコギに対して、焼いてからつける「つけダレ」は日本で始められたもの。現在、韓国の料理店などで出されるつけダレは、日本からの逆輸入だとか。まさにおいしさの交流ですね。

参考文献:日本焼肉物語 宮塚利雄著 太田出版




07.日本第一号地ビール、新潟県巻町・えちごビール
100  人類の2大アルコール飲料、ビールとワインの起源はたいへんに古く、文明の誕生とほぼ時を同じくするといわれます。一方、日本のビールの歴史は、明治2(1869)年、米国人が横浜で醸造所を開いたことに始まります。明治20年代には全国で200余りのビールメーカーを数えるまでとなりますが、明治41(1908)年に施行された法律により、中規模以下の醸造所は営業できなくなり、それから日本のビール業界は長く、大手による独占の時代が続くのです。
 この構図がくずれるのは、それから86年後の平成6年。規制緩和の一環として酒税法が改正され、ビールの年間最低製造量がこれまでの2000キロリットルから60キロリットルへと引き下げられ、小規模の醸造所もビール市場に参入できるようになりました。現在では300以上の醸造所がひしめく日本の地ビール市場に、一番乗りで名乗りを挙げたのが「エチゴビール」です。 清酒「越後鶴亀」の蔵元、上原酒造の5代目上原誠一郎さんは、長年のヨーロッパ生活で、多種多様の個性豊かなビールに魅了され、帰国後、高い志のもとにビールづくりを始めました。これまで20種類以上の地ビールがここから誕生し、毎年数々のコンクールで賞を獲得しています。
 ビールの種類のことを「スタイル」といい、世界には約70種類あるといわれます。このスタイルごとに異なる色や香り、ボディ(こく)、アルコール度数などがビールの大きな魅力。世界第5位のビール生産国でありながら、これまでライトなピルスナータイプしか手にすることができなかった日本人に、地ビールはビールの新しい世界を見せてくれています。



06.蘭学・儒学・言語学“日本初”の系譜、一関・大槻家
100  中世の陸奥に勢力を誇った葛西氏の流れをくみ、仙台藩領西磐井の大肝煎(きもいり=名主・庄屋の別称。諸事の世話や支配をする)として、13カ村の民政を担ってきた大槻家は、近世後期から近代にかけての学界にすぐれた人材を次々と輩出し、蘭学・儒学・言語学に大きな足跡を印しました。
 大槻玄沢(げんたく/1757〜1827)は、1785年に日本最初の蘭学塾「芝蘭堂」を開塾、その3年後には日本初の蘭学入門書「蘭学階梯」を出版し、日本の近代科学の発達にはかりしれない影響を与えた人物です。玄沢は13歳の時に、一関藩医の建部清庵の弟子になり医術を学びますが、この清庵こそが、地域の医療に全力を尽くし、「一関に過ぎたるもの」とうたわれ、人々の尊敬を集めた医師でした。玄沢は21歳になると蘭外科医杉田玄白の門人となり、さらには前野良沢にオランダ語を学ぶなどして、蘭学の探究に情熱を注ぎ続けたのでした。
 玄沢の2男、磐渓(ばんけい/1801〜1878)は、開国論の先覚者であり、同時に詩文にもすぐれ、頼山陽(らいさんよう/儒者、詩人、歴史家)と並び称された人物です。
 さらに磐渓の長男如電(じょでん)、2男文彦が文学者として活躍しましたが、特に文彦(1847〜1928)は辞書の編さんに生涯をかけ、1891(明治24)年、日本最初の国語辞典「言海」を発刊しました。「大言海」は文彦が晩年に補強し、没後刊行されたものです。



05.仙台発>>>美味三大元祖、冷やし中華そば・回転寿司・牛タン
50  趣向を凝らしたきらびやかな出で立ちで、京の人々から「伊達ものじゃ」と賞賛された政宗のスピリットが脈々と息づいているのでしょうか。仙台人が考え出した食べ物は、どれもが意外性のあるものばかり。今ではみんな全国区の人気です。
 “火の料理”といわれる中国料理は、どうしても夏場は客足が遠のいてしまう。そこで思い切って冷やしてしまった「冷やし中華そば」は、昭和の初期、仙台の中国料理店主たちがアイディアを出しあって考えたもの。そのリャンバンメン(涼拌麺)なるものを初めてお客さまに出したのが北京料理・龍亭です。
 気軽に立ち寄ってお腹いっぱいに食べられる、うれしいお寿司の大衆化を一気にやってのけたのが「回転寿司」。1967(昭和42)年、当時の元禄寿司(現・平禄寿司)が発祥の地と言われています。しかし仙台発祥論には異説もあり、真偽のほどはいまもクルクルと回転しているかのよう・・・。
●北京料理 龍亭(サイト「kesainらんど」内コーナー「東北発祥!natsuの麺」より):
 http://www.ryutei.com/
●平禄寿司 平禄寿司とは:http://www.heiroku.com/what/what01.html
100  戦後の混乱期、お腹をすかして働く人々に少しでも力をつけてもらいたい一心で「牛タン」を焼き始めたのは味・太助の初代ご主人。 今ではおなじみになったタン焼と麦飯、テールスープという絶妙の組み合わせが登場するのは、1949(昭和24)年のこと。そもそも日本人があまり牛を食べない時代、舌を食べるという大胆な発想に脱帽です。
●味太助:http://www.aji-tasuke.co.jp/



04.クリームパンの元祖「中村屋」の創業者、相馬黒光(そうまこっこう)
100  今では最もポピュラーなパンのひとつ、クリームパンは1904(明治37)年生まれ。その大人気のパン誕生からさかのぼること3年前、夫・愛蔵とともに新宿・中村屋を創業したのが仙台出身の相馬黒光(本名りょう)です。
 貧しい没落藩士の家に生まれ、広瀬川のほとりで多感な少女時代を過ごした黒光は、やがて文学への夢を胸に単身上京。フェリス女学院から明治女学院へと進学して、近代教育の洗礼を受けます。その後、黒光と同じく新時代への熱い志を抱く相馬愛蔵と結婚。いったんは夫の郷里である信州・穂高に移るものの、再び上京して中村屋をオープンします。
 黒光は「中村屋サロン」女主人としてつとに有名です。このサロンは「己の生業を通じて文化国家に貢献したい」という相馬夫妻の想いに引き寄せられるように、当時の芸術家や文化人が集まったところ。ここでお互いに芸術論をぶつけあい、精力的に創作活動を行いました。さらに黒光は文学や演劇にもたいへん関心が深く、近代劇の育成や海外の歌劇の紹介にも尽力しました。
 中村屋はインドカリー発祥の地ともいわれますが、その立て役者となったのがインド人のラス・ビハリ・ボース。インド革命の志士であったボースは、日本への亡命中に中村屋へ身を寄せていたのが縁となり、相馬夫妻の長女である俊子と結婚。
1927(昭和2)年にインドカリーを誕生させるきっかけをつくりました。
●中村屋 クリームパンの元祖:http://www.nakamuraya.co.jp/history/hist_04.html



03.日本初の自家用水力発電、三居沢(さんきょざわ)水力発電所
100  街にモダンな西洋文化があふれた文明開化の時代。いちばんの驚きと感動をもって迎えたのが電灯照明でした。日本人が初めて電灯を見たのは、1878(明治11)年、虎ノ門の工部大学校(現・東京大学)で「アーク灯」が灯された時。4年後の1882(明治15)年には東京・銀座に2000燭光のアーク灯が設置され、珍しいものをひとめ見ようと連夜たくさんの人が見物に訪れました。その様子は「その光、数十町の遠きに達し、あたかも昼夜のごとく」と当時の風俗画に描かれたほどです。
 日本に初めて電灯がお目見えしてから10年後の1888(明治21)年、日本初の自家用水力発電所が宮城紡績所に誕生しました。三居沢水力発電所です。ここは日本最初の水力発電所であったばかりではなく、電力を工業用に利用するという先駆的な役割も果たしました。100年以上も前につくられた発電機と水車は、なんと現在も昔と変わることなく動き、発電を続けています。ちなみに、日本初の営業用水力発電所とされるのが、1892(明治25)年に完成した京都の蹴上発電所。こちらも現役で稼働しています。
 三居沢水力発電所の歴史や、電気の仕組みは「三居沢電気百年館」で詳しく見聞することができます。
●仙台市青葉区荒巻 ●JR仙台駅からバスで約20分「三居沢交通公園前」より徒歩1分
●月曜日・年末年始休み ●問い合わせ022-261-5935
●東北電力 三居沢電気百年館:http://www.tohoku-epco.co.jp/fureai/pr/sankyo/



02.日本で初めて国の天然記念物に指定された、東北大学理学部付属植物園
100  仙台市の中心部から車で約15分、濃い緑に縁取られる青葉山は、かつて伊達家代々が住んだ仙台城があった地。この山の北側にうっそうと広がる「東北大学理学部付属植物園」は、1972(昭和47)年、全国で初めて国の天然記念物に指定された植物園です。なぜ都市の真ん中に、学術上貴重な動植物が棲む自然林が手つかずのまま残されることとなったのでしょうか。
 植物園にあたる一帯は、1602(慶長7)年、初代藩主伊達政宗によって築かれた仙台城の後背地にあたります。そこは御裏林(おうらばやし)と呼ばれる、防衛上重要な場所であっただけではなく、城の大切な水源地でもありました。仙台藩の厳重な監視下におかれたのは言うまでもありません。
 明治維新後は陸軍に引き継がれ、終戦後は駐留軍用地となるなど、この静かな森にも時代の風が吹き荒れましたが、人の手が加わることはほとんどなく、都市周辺にはまれにみる貴重な自然林が残されたのです。
 地形の変化に富む49haの植物園は、モミの原生林におおわれ、シラカシ・アカガシ・イイギリなど多くの常緑広葉樹林の北限となっており、植物園を構成する樹木の多様性に、多くの研究者が注目しています。園内を散策すればオオタカ、ムササビ、リス、野ウサギなど野生動物の歓迎を受けることもあります。
●仙台市青葉区川内 ●JR仙台駅からバスで15分「扇坂」徒歩約10分
●開園期間4/1〜11/30 ●毎週月曜休園
●入園料あり ●問い合わせ022-217-6760
●東北大学理学部付属植物園:http://www.biology.tohoku.ac.jp/garden/



01.現存する日本最古の学問所、旧有備館(きゅうゆうびかん)
100  米どころ宮城県古川市の北西、奥羽山脈のふところに抱かれる町、岩出山。ここは、若き日の政宗が過ごした、伊達家ゆかりの城下町。1602(慶長7)年、仙台城へ移るまでの約10年間、岩出山城が政宗のホームベースだったのです。
 その岩出山城跡からほど近いところにある「旧有備館」は現在日本に残っているなかでいちばん古い藩校跡として知られています。そもそも有備館は、1663(寛文3)年岩出山城の居館が焼失してしまった際に、岩出山伊達家2代宗敏(むねとし)が造った仮住まい。しかし3代敏親(としちか)が、1691(元禄4)年、春学館と名付けて学問所とし、翌年現在の場所に移して有備館と名前を改めました。これは仙台藩の藩校・養賢堂の開設よりも45年も前のことです。
 建築様式は、平屋建て、単層寄棟造、茅葺きの書院造で、格子戸などに透かし彫りがほどこされるなど、優美な建築美がみられます。庭園は、1715(正徳5)年、石州流茶道3代清水道竿(どうかん)によってつくられた廻遊式池泉庭園で、建物とともに国の史跡名勝に指定されています。
 桜や椿、つつじ、さるすべりなど、四季を通じて美しい花々に彩られる有備館。冬の雪景色も凛とした静けさをたたえます。
●宮城県玉造郡岩出山町 ●JR陸羽東線「有備館駅」すぐ
●無休 ●入館料あり ●問い合わせ0229-72-1344
●岩出山町:http://www.town.iwadeyama.miyagi.jp/




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